- ナノ -

■ 24.きみの執着

イルミが風呂から上がってしばらく経っても、一向に帰ってこないなまえ。
流石に焦りを感じ始めていた頃、不安を助長させるかのように電話が鳴った。

いつもならば、家にかかってきた電話をイルミは取らない。そもそもなまえは仕事にしたって携帯やパソコンでばかりやり取りをしており、実際に鳴ってみるまで据え置きの電話の存在など気づかなかった。
しかし今なまえがいない状況で、いつもは鳴らない電話が鳴っている。これは何かよくないことが起こったのだと、あまり勘を信用しないイルミですらそう思った。

そして案の定、電話がもたらした知らせはなまえが今危機的状況にあるということだった。電話の相手は、正直心当たりが多すぎて絞れない。が、何を思ったのか向こうはご丁寧に場所を教えてくれた。そして待っていると言った。
なまえを人質にしたあたり、イルミのことを始末する気なのかもしれない。

だからきっと、向こうは武器や人数を揃えてイルミの到着を待ち構えているのだろう。馬鹿な男だ、と思った。なまえの悲鳴はイルミを煽ったにすぎず、”この世界”の武器などイルミにとっては何の脅威でもない。宣戦布告のつもりらしいが、イルミにしてみれば殺してくれと言われたのとなんら大差が無かった。

しかし、電話を切ったイルミは思っているより自分が動揺していることに気が付いた。勝てない相手ではない。躊躇も要らない。それなのに自分は焦っている。なまえの悲鳴が耳にこびりついて離れない。男たち自体に恐怖を感じていなくても、イルミにはなまえを失うかもしれないという恐怖がある。

なまえの喪失は、イルミ自身の喪失に似ていた。もはや彼女は自分の一部なのである。

そう考えると、今までのイルミは無防備過ぎた。自分では後腐れのないように仕事を辞めたつもりであったが、現になまえのほうから狙われるといった問題を引き起こしているし、イルミはもっとなまえをちゃんと管理するべきだったのだ。
彼女は”イルミ”を構成する一部なのだから、いつでも目の届く範囲においておかなければならない。一人で出かけさせるなんて愚行だった。そもそもなまえにはもう、仕事もイルミ以外の人間との関わりも必要が無い。

どうしてこんな大切なことに気が付かなかったんだろう、と目の覚めるような思いで、イルミはなまえの元へ急いだ。今ならまだ取り返しがつく。”元の世界”に帰る帰らないも大事だが、”こちらの世界”における基盤も大事だ。”ここ”で”イルミ”を保っていられなければ、帰れるはずがない。

指定された場所は前に訪れたことのあるビルだった。確か、どこぞの暴力団組織の若頭を始末してくれ、と依頼してきた奴だった気がする。イルミには関係のない話だが、組織同士の対立はよくあることだ。イルミが仕事を受けないと言ったことで、敵側についたとでも思ったのだろうか。
なんにせよ、宣戦布告の代償はきっちりと支払ってもらわねばならなかった。

▼▽


血液を吸った衣服はすっしりと重く、濡れた分だけ寒いように感じる。場所が場所だけに命に関わるような出血ではないだろうが、慣れない出来事になまえは酷く消耗していた。ここがどこなのかはわからないが、何やら上が騒がしい。イルミにしては派手にやっている、とどこか他人事のように考えていた。

「おい!一体あいつは何者なんだ!?」

ばん、と乱暴に扉が開けられて、入ってきた男は恐怖に顔を引きつらせていた。自分でイルミを呼んで、待ち構えていたと言うのに、怖くなってまた戻ってきたのだろう。「ものすごい数の部下が殺られた、それも一瞬でだぞ!?」胸ぐらを掴まれ喚かれるが、そんなものなまえにしてみれば当たり前である。第一、イルミに勝てると思っているほうがどうかしているのだ。

「……だから、”ゾルディック”なのよ。伝説の、暗殺一家」
「でもそれは漫画の──」

男の言葉は、再び開いた扉によって遮られた。こちらからは逆光になって良く見えなかったが、日本人には珍しい長身のシルエットが目を惹く。

「見つけた」

彼の声は落ち着いていて、どこか甘やかな響きすら含んでいた。

「く、来るな!こいつがどうなってもいいのか!?」

てっきりまたナイフがあてがわれるのかと思っていたが、突きつけられたのは拳銃。日本ではまぁお目にかかることのないそれは、現実味を欠いている分かえってナイフよりも恐怖を感じなかった。第一、どう考えたって拳銃よりもイルミの方が恐ろしい。かちり、と安全装置が外される音がしてもなお、なまえは本気でそう思っていた。

「来るなって勝手だね。呼んだのはそっちじゃないか」
「う、うるさい!それ以上近づいたら本気で撃つぞ!」

男の言葉にイルミはぴたりと足を止める。それから少し思案をするように顎に手をやった。

「あのさ、そこは人質を解放するから助けてくれって言うところじゃない?」
「……っ!」
「お前、部下の死体見たんでしょ?本気でオレに勝てると思ってる?」
「……か、解放すれば見逃してくれるのか?」

男の心が揺らいでいるのは、銃口が揺らいでいることでよく分かった。しかしそれにしても意外だ。イルミがこんな、なんの利にもならない提案をするなんて。
一体どういうつもりなのだろうと見守っていれば、こめかみの圧迫感は無くなる。観念した男が銃を離したのだ。

──となまえは思った。

「お前こそ、この仕事舐めてるでしょ」

イルミの言葉とともに、どさりと重いものが床に落ちる音がする。見ればそれは男の死体だった。左胸にぽっかりと、黒い空洞を持った男の死体。「久々にやったな、これ」イルミが右手に持っていた何かを床に投げ捨てると、べちゃりと嫌な音が響いた。

「なまえ大丈夫?」

拘束が解かれ、解いたロープで手際よく止血される。その間なまえはずっとぼんやりしたままだった。目の前で男が死んだことを含め、何かも現実のように感じられなかったのだ。特に、今のイルミは紛れもなく漫画で見た”イルミ=ゾルディック”そのものだった。それなのに、かけられる言葉だけが彼らしくない。

「病院連れて行ったほうがいいよね?オレよくわかんないんだけど」
「……」
「でもなまえが無事でよかったよ」

不意に抱き寄せられ、なまえは思わず肩を跳ねさせた。そんなことは今までされたことがない。状況が状況とはいえ、イルミはそんな感傷に浸る男でもないはずだ。
困惑。混乱。確かになまえはイルミに叶わぬ想いを抱きかけていた。けれども別に、そんな目で見てほしかったのではない。

「安心して、これからはなまえを一人にしないから」

そんなキルアを見るような目で、見てほしかったのではない。

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