- ナノ -

■ 23.助けてと言えない関係

意識が朦朧としている。視界は靄がかかったように薄暗い。
なまえはゆっくり瞬きをしようとして、右のこめかみに鈍痛を感じた。そして反射的にそこを手で押さえようとしたが、両手が後ろ手に縛られていることに気づく。「目が覚めたようだな」はっきり言って、椅子に縛り付けられているということ以外、なまえは今の状況が全く理解できなかった。

そもそも自分はなぜこんなところにいるのか。茫然としてろくな抵抗もないまま、目の前の男をただただ見つめている。だが、次第に頭痛が思考を覚醒させると、ようやく自分が強引に連れ去られたことを思いだした。こめかみの痛みは殴られたときのものだ。イルミと揉めて一人になりたくて飛び出した家。そして当てもなくぶらついているところを不意に現れたこいつらに襲われた。

「んんー!!」

理解した瞬間、なまえはパニックになって暴れた。こいつらが何者なのかは知らない。が、こんなやり方をする以上まともな相手ではないのはわかりきっている。しかし暴れたところで噛まされた猿轡が余計になまえを苦しめただけだった。

「まぁ落ち着けよ。あんた、詐欺師のなまえだろう?」

ぐらつきかけた椅子を押さえた男は、至って普通の調子で話しかけてきた。どうやらなまえの正体を知っているようだが、この顔に見覚えは無いしあくまでなまえの仕事は一般人相手だ。ここまでやばそうな奴らに喧嘩を売った覚えはない。なまえは返事をしなかったが、男は気にした様子もなく話し始めた。

「直接用があるのはあんたじゃないんだ、ただ俺達はとある男を探していてね。男の顧客を辿って行ったら、どうもあんたからの紹介だって小耳に挟んだもんで、話を聞きたいと思っただけなんだ」
「……」
「あんた、”ゾルディック”って男のこと、知ってるだろ?」

ここまでしておいて話を聞きたいだけとは笑わせる。男の説明でなんとなく察しはついたが、これはイルミが仕事を辞めると言ったのと関係あるのだろう。なまえはゆっくり頷いた。ここで知らばっくれても意味がない。恐怖を押し殺した様子のなまえに、男はいたく満足したようだった。

「そうか、それは話が早くて助かるな」

不意に男の手が伸びたかと思うと、猿轡を外される。「大声を出しても無駄だ」言われるまでもなくわかっていた。叫べば余計な援軍を呼んでしまうだけに過ぎない。

「それじゃあ改めて聞くが、あいつは今どこにいる?」
「……彼に、何の用?」
「質問してるのは俺だ」
「……私の家だけど」

イルミは強い。だからバラしてしまっても何も問題ない。わかってはいるが、彼を売ったような気分になる。だがなまえはこの状況に耐えられるほど強い精神は持っていなかった。所詮ただの詐欺師であるなまえには、いきなり拉致されて拘束されているこの状況がどうしようもなく怖い。気丈に振る舞って見せても、膝ががくがくと震えてしまっていた。

「ほう、そりゃいいな。あんたあいつの女か?」
「……」
「今すぐあいつを呼べ」
「……来ないかもしれない」
「いいから呼べよ」

男はなまえの携帯を取り出すと、イルミの連絡先がどれか聞いた。きっとアドレス帳はターゲットのものが多く登録されているため、どれかわからなかったのだろう。しかしイルミは少し前まで持っていた仕事用の携帯を解約してしまっていた。なので必然、自宅の番号を告げるしかない。詐欺を始めるにあたってなんとなく設置したまま放っていた据え置きの電話だったが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。

「仕事のことなら、また彼は受けると思う」
「そうかい。でもな、こういうことはきっちりしとかなきゃならないんだよ。簡単に辞めますやりますってできる世界じゃないんだ、わかるだろ」

電話が繋がるまでの数秒間、なまえは無意識に息を殺していた。イルミは電話に出るだろうか。正直、出るようには思えない。しかし数回のコール音の後、予想に反して「もしもし」と彼の声が聞こえた。

「あのね、イ、」

イルミ、と呼ぼうとして、なまえは詰まった。ここでの彼は”ゾルディック”。それだけでも大概なのに、そのうえ”イルミ”ときたら怪しまれるだろう。「なまえ?」彼の不審そうな声は、携帯を耳元から離されたことで遠くなる。

「もしもし、”ゾルディック”だな?」
「……誰」
「あんたの元依頼人だよ。急に辞めるなんて随分探したんだ」
「今のなまえでしょ。なまえに何したの」
「何もしていないさ。今はまだ、な」

人を殴りつけて拉致しておいてよく言う。だが確かに、なまえが正直に話したお蔭で拷問の類は何もされていない。

「どういうつもり。仕事なら今まで通り──」
「それは結構なことだ。だが信用っていうのはそう簡単な物じゃないだろ。あんたこの仕事舐めてんのか」
「は?何言ってんの」

イルミが暗殺業を舐めているなんて、なんて面白い冗談を言うんだろう。乾いた笑いを洩らしたなまえに、男の視線が突き刺さる。でも笑わずにはいられなかった。だってなまえはイルミほど暗殺者らしい男を知らない。

「とりあえずお前の女には詫びておくんだな」再び携帯を寄せられ、なまえは何を言うべきなのか困惑する。残念ながら助けて、と気兼ねなく言える間柄ではなかったし、大丈夫だからなんて嘘をつけるほど殊勝な性格でもない。しかしどうやら男がイルミに聞かせたかったのはなまえの言葉ではなく悲鳴らしかった。ぞっとするほど怪しい輝きを放ったナイフが、なまえの太ももに振り下ろされる。

「っ、なまえ!?」

それは一瞬のことで、焦らされなかったため恐怖よりも苦痛の方が大きかった。どのくらい大声を出したのかはわからなかったが、電話の向こうのイルミには十分届いただろう。刺された部分が熱く、その熱は流れる血液を通して周りにも広がっていく。こめかみの鈍痛など一瞬で消え去った。脳が太ももの感覚器官を優先させたせいだろう。

男はまた携帯を取り上げ、イルミに向かって何か二、三言告げていた。しかしその文字列を認識するだけの余裕がもうなまえにはなく、ただ肩で大きく息をするだけで精いっぱいだった。

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