- ナノ -

■ 22.自分の不幸は泥の味

がらんとした部屋に一人で佇んで、自分は一体何をしているんだろう。

ここはイルミの家でなかった。だが、肝心の家主は先ほど出て行ってしまい、結果イルミだけがここに取り残されている。まさかこのまま帰ってこないということはないだろうが、居候のイルミが出て行くならともかく、彼女が行ってしまうなんておかしな話だ。必然、イルミは彼女が帰ってくるまでここにいなくてはならない。

とはいえ実際、他に当てのあるわけでもないイルミはここに残るしかなかった。いや、針があるイルミは他人を操れるので、なまえの元を離れてもどうにでもなるといえばなるのだが、そうでなくても居場所のない”この世界”で、また一から居場所を探す気分にはなれなかった。だから本当は『放っておかない』と言ってくれた彼女にもっと感謝するべきなのだ。針で操らなくてもイルミの存在を許容してくれる彼女は、貴重な存在なのだ。
頭ではわかっているのに、どうしてこうも苛つくのだろう。

酷いことを言った、とまでは思わなかったが、言わなくていいことを言った、という自覚はあった。なまえの過剰な気遣いもどうせ一時的なものだっただろうし、ほんのちょっと我慢すれば時間が解決してくれたのに。
結局、普通にして、と言った自分が一番普通ではなかったのだ。感情を──苛立ちを抑えられなかったという一点にのみおいて、自分にも少なからず非がある。
今のイルミにとってなまえを失うのは、確実に手痛い損失だった。

イルミはふと浴槽にお湯をはっていたのだ、と思い出し、のろのろと衣服を緩めた。他にすることがなかったというのもそうであるし、なまえが用意した風呂に入ることで、帰ってきた彼女の怒りを緩和しようという打算的な思惑もあった。

そう、イルミは本当になまえに追い出されては困るのだ。彼女には言っていなかったし気取られてもいないが、実は懸念がもうひとつある。浴槽に肩まで浸かったイルミは、自分の手のひらを食い入るように見つめた。そしてオーラが弱まっていることを確認すると深い溜息をついた。

オーラは元をただせば生命エネルギーである。だから完全になくなることは無いのだが、”こちらの世界”に来てからイルミのそれはじわじわと、そして確実に弱まっていた。最初になまえに聞いた話では、”ここ”には念能力という概念が存在しないという話であるし、念能力の消失はイルミの身体が徐々に”この世界”に順応しているという証なのかもしれない。

たとえ念能力がなくても、暗殺者として培ってきた技術があれば生きていくのには苦労しない。絶まで遣わずともただ気配を消すだけで誰もイルミには気づかないし、殺すのだって針を使うまでも無かった。
けれども念能力が遣えなくなることは、イルミに恐ろしいまでの焦燥を与えた。自分が自分でなくなるような、早くしないと本当に”この世界”に取り込まれてしまうような怖さがあった。

──オレは苛立っているんじゃない、焦っているんだ。

十分に手足を伸ばせるほど広くはなかったが、温かいお湯は身体の強張りをほぐしてくれた。そうして今更、自分はなまえに八つ当たりをしたのかもしれない、と思った。彼女のいやに献身的な態度を鬱陶しく思ったのは事実だが、本来彼女にそうする義理はないのだ。なまえの行動はただイルミが怖くて命が惜しいから、というのとはまた違って見えたし、現にわざわざイルミを迎えに来てくれた。
メリットなんてないはずなのに、どうしてなんだろう。

「なまえの方が何考えてるのか読めないよ……」

この先、完全に念が遣えなくなって他人を操れなくなったら、なまえの元を離れて生活するのは難しくなる。もちろん脅して言うことを聞かせることはできるだろうが、いつか絶対に周りに怪しまれるし、その度にターゲットを変えるのは面倒でしかない。また身分証明がなくとも裏ルートから一人暮らしできないわけではないが、自身の生活能力の低さは自覚している。いつ帰れるともわからない無期限のそれに耐えられるだろうか。なにより”イルミ”として誰も扱ってくれない環境へ放り出されるのは嫌だった。知り合いもいない、念も遣えない世界で一人になるのは嫌だ。ここでなら少なくとも自分があの”イルミ=ゾルディック”だと知ってくれている人間がいる。そういう意味でなまえは拠り所でもあった。

だからそれを失うわけにはいかないのに、自分は馬鹿なことをしたと思う。もしも帰ってきたなまえが出て行ってくれ、と言い出したら?もうイルミの面倒を見るのはごめんだと言われたら……?

脅すことは容易い。だが本当の意味で受け入れられることは難しい。せめてなまえが自分に何を望んでいるのかがわかれば望みどおりに振る舞ってやることもできたが、生憎イルミにはそれがわからなかった。だからこそ不安が募る。

「ちょっと出てくる、ってどこまで行ったのさ」

考え事をしている間に結構な時間が経っていたのか、熱かったお湯はぬるくなり始めていた。
しかしそれでもなまえが帰って来る気配はなかった。

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