- ナノ -

■ 21.腫れ物に触る

帰りの車内は静かだったが、耐えきれなくなる類の沈黙ではなかった。
行きと同じく助手席に座ったイルミは、目を閉じ自分の世界の中にいる。今彼を満たしている感情が絶望なのか諦観なのか読み取ることは難しかったが、ひとまずなまえの自宅に戻ることにはもう納得しているようであった。

一方、隣のなまえの感情は激しく波打っていた。
イルミが帰ってきたことは素直に嬉しいしほっとしている。自分の平穏を乱す彼の存在が恐ろしく、煩わしかったのに今はその存在が嬉しい。
それは、なまえに自分の想いを自覚させるに足る感情だった。ひとくちに恋だ愛だと言ってしまえるほど明るく幸せな感情ではなかったが、なまえは確実にイルミを特別視してしまっている。疎んじていた共同生活を通して、イルミが大切な存在になってしまっている。ある種同情にも似た感情だったが、これからもイルミと一緒にいたいと思ってしまった。
そして、それはなまえにとってこの上なく恐ろしいことだった。

おそらくイルミはこの先もずっと元の世界に帰りたがるだろう。それは当たり前のことだし、なまえがどうこう言える立場にないのもわかっている。そして元の世界を渇望し続けるイルミの心が”この世界の住人であるなまえ”に向くことは一生ないに違いない。利用する目的で近づくことや精神的な依存はあっても、二人の想いがぴったりと重なることは決してないだろう。

なまえは隣のイルミとの間に、見えないガラスの壁が一枚存在するような錯覚に陥った。ガラスを隔てて手を重ね合わせることはできるけれど、その温度は感じられず、なまえの右手は永遠に彼の左手としか重ならない。なぜならなまえは”こちらの世界”の人間で、イルミは”あちらの世界”の人間だからだ。
たとえ今彼が”こちら”に存在しようとも、その事実だけは変えられない。
今回の一件でイルミの得たものが絶望だとするなら、なまえが得たのもまた絶望に違いなかった。


「……イルミ、着いたよ」

しばらく黙っていたからか、ようやく出したその声は最初がかすれてしまっていた。エンジンを切り、シートベルトを外す。「うん」ぱちりと目を開いたイルミは、もう普段通りの彼に見えた。感情を押し殺すのが癖になっているのだろうか。またなまえの自宅という”ふりだし”に戻っても、人形めいた横顔には悲哀の色はない。しかし淡々と事実を受け入れているように見える彼の様子が、かえってなまえには痛々しく感じられた。その前の取り乱しようを知っているだけに、どうしても虚勢にしか見えなかった。

「お腹すいてる?何か作ろうか?」
「……いや、平気」
「じゃあシャワー浴びる?」

鍵を開けると、ちゃんと玄関で靴を脱ぐイルミ。”向こう”ではしなかったその動作を当たり前のようにこなしているのを見て、なまえは薄暗い喜悦に浸る。そして他愛ない会話をしながらも、しっかりと扉に鍵をかけた。内側からなら簡単に開けられるのに、そうすることで今の不確かな生活を守ろうとしていた。

「どうしたの、いつまでも突っ立ってないで中に進んでよ」
「……うん」
「イルミは普段シャワーで済ませちゃうけどさ、たまにはちゃんとお湯をはって浸かるのもいいよ。今入れてくるから」
「……」

車の中では平気だった沈黙が怖い。今にもイルミがやっぱり……と言い出すんじゃないかと気が気ではなくて、なまえは一方的に会話を投げかけ、逃げるように浴室へ向かった。

「ねぇ、なまえ、」
「洗濯物はこのへんに置いといてね。仕事の時は全然汚さないくせに、今のイルミったら泥だらけなんだから」
「ねぇ、なまえ、」
「なに?あ、待ってる間にコーヒーでも淹れようか」

「もう、そういうのやめてよ」

流れ落ちる水の音がやけに大きく響いて聞こえた。
振り返ればきっと彼と目が合う。「そういうのって……?」湯の温度を見るために浸した指先が、鼓動にあわせてじんじんと痺れた。

「だからそういうのだよ。腫れ物に触る、っていうの?過剰に気を遣われるのも不快」
「私は別に……」
「無理に明るくしないでいいから。っていうか正直鼻につくよ、なまえのそういう態度」
「……ごめん」

そう言われても、これはイルミを励まそうとして明るく振る舞っているのではなかった。なまえはなまえの都合で、望まない会話を避けたいだけである。何でもないように装うことで、平穏な生活が続いているフリをしたいだけである。

「ごめん、疲れてるときは一人になりたいよね……」
「ほらまた」
「……じゃあどうすればいいの」
「普通にしてよ」
「普通って何?」

喧嘩がしたいわけではない。これ以上はやめろ、と頭の中で声がする。しかし本当にどうしていいかわからなくて、イルミの言い方に苛立ってもいた。「きっとイルミは私が何をしても気に入らないんだよ」優しくしても駄目だし、こうやって反論するのは尚更。「そうかもね」振り返って見てみたイルミの表情は冷たかった。

「……ちょっと出てくる」
「……」

イルミの脇をすり抜けるようにして、何も持たずに玄関へと向かう。まさか先ほどしっかりとかけた鍵を、自らの手で外してしまう羽目になるとは思わなかった。

「どうすればいいのよ……」

しかしそうやって外へ出てみて、疲れているのも一人になりたいのもイルミではなく自分だったのだとよくわかった。

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