- ナノ -

■ 19.絶望に溶けてゆく

睡眠、食事、仕事。

なまえに限らず、多くの人間の一日なんてだいたいこのようなものだろう。なまえは起床してから二度目の食事、いわゆる昼食を終えると、ふうと重い溜息を吐き出した。別にお腹が減っていたわけではない。ただ、時間が来たから機械的に口に運んだだけで、味なんて少しもわかっちゃいないのだ。

一人の食事とは、なんて味気ないものなのだろう。

結局、次の日になっても、イルミは帰ってこなかった。
行きは車で行ったとはいえ、彼の方向感覚は並ではないし、イルミの足なら普通に帰ってこられる距離である。わざわざなまえが一緒に行ったのは、ただ"かくれんぼの鬼役"が必要だっただけのこと。
だからいつまでたってもイルミが帰ってこないのはおかしいことなのだ。

あの時は暗闇の中に一人という状況と、スポットの妙な雰囲気に呑まれて恐ろしくなったが、冷静に考えて”神隠し”などあるわけがない。仮にもしあったとしても、どうして”神隠し”の先がイルミのいたハンターハンターの世界だと言える?帰れる可能性なんて万に一つもないだろう。なまえですらわかるそんなことを、頭のいいイルミが理解していないなんてことがあるのだろうか。

だが、初めに”神隠し”なんて言葉で彼に幻想を見せたのはなまえだ。だからこそ責任を感じずにはいられない。食べ終わった後の皿を流し台に片付けると、なまえは出かけるための準備をした。もう一度彼を探しに行こう、そう思って家を出た。

▽▼

かくれんぼをしていて、見つけてほしいと思ったことは一度もない。
それもそのはず、簡単に見つかるようでは絶対に暗殺など務まらないからだ。

幼いイルミは遠くのほうで聞こえる父の声が、決めてあった最後の数を数え終わるのを聞いた。これはそういう訓練なのだと頭ではわかっていても、否応なしに緊張感が高まる。本当はこういうときこそ努めて冷静でいなければならない。自分で自分をいないものだと思い込むくらいでなければならないのだ。
しかし五歳のイルミでは、自分自身を欺くことも、ましてや父親を欺くこともできなかった。
自分ではいくら完璧に気配を消したつもりでも、いつも必ず父親に見つかるのだった。


「イルミ、今日は頑張ったな」
「ううん、全然ダメだよ。今日こそ見つからないようにって思ったのに」
「それでも少しずつ気配を消すのが上手くなっている」

大きな手で頭を撫でられ、じわり、と嬉しさがこみ上げる。だがきゅっと唇を真一文字に引き結んで、イルミはそれを表に出さないようにした。感情が読まれるのは──たとえそれが良い感情であったとしても──暗殺者にとってあまり良いことではない。イルミは父親を尊敬していたし、家業についても誇りを持っていた。だからどんなに訓練が辛く厳しいものでも、文句を言わず耐え続けた。

一流の暗殺者になる為に。全てはゾルディック家の為に。

そしていつしかその大役は、弟のキルアに引き継がれた。
次にイルミに求められたのは、弟を完璧な暗殺者に仕立て上げること。完璧な後継者をつくることで、ゾルディック家を守ろうとした。
間接的にゾルディックの為になろうとしたのだ。

「キル、全然ダメだよ。わかりやすすぎ」
「……」
「気配はね、急に消したら逆に不審なんだ。じわじわと溶け込むみたいに少しずつ薄くしていく。わかったらもう一回だよ」

イルミは有無を言わさず、また一から数を数え始めた。同じ”かくれんぼ”でも鬼の役では全く違う。ここ最近はずっとこちらの役しかやっていなかった。キルアだけでなく弟たち全員を訓練するのが、イルミの仕事だったからだ。

だから、こうやって隠れる側に回るのは一体何年ぶりだろう。鳥居に背を持たれかけさせたイルミは、目を閉じて昔のことを思い出していた。
こうしていると聞こえるはずのない父の声が聞こえるような気がする。そういえば頑張ったな、と褒められたのも遠い昔の記憶でしかない。頑張ることはイルミにとって当たり前のことだった。だが、頑張った分だけ報われるというのは決して当たり前ではなかった。

──こんなに頑張っているのに

そう思いそうになる度、いや、まだ頑張りが足りないのだ、と自分に言い聞かせる。いくら周りに頑張っている、と言われてもいつの間にか嬉しいと思えなくなってしまった。それが単なる称賛ではなく、慰めにしか聞こえなくなったからだ。

”お前はよくやっている”の後に続くのは、”だからもう頑張らなくていい”だ。
でも、頑張ることを止めた自分に一体何が残ると言うのだろう。イルミは自分が天才でないことなどとっくにわかっていた。それならば、努力するしかないではないか。頑張らなくていいと言われれば、それはもはやお前は用済みだと言われるのと同じだ。

(……お願いだからもっと頑張らせてよ)

イルミはまだキルアを立派な後継者に仕立て上げられていない。アルカの問題だって残っている。あれはぜひともゾルディック家の為に有効活用しなくてはならない。アルカだって家の一員なのだから、きっとそれを望んでいるだろう。

イルミはゆっくりと目を開ける。そしてまだ自分があの竹林にいるのがわかると、もう一度強く目を瞑った。自分がいるべきはこんなところではないのだ。まだやり残したがある。こんな自分でも家の役に立てることがあるはずなのに……。

イルミはもう、とっくに気配を消すことをやめていた。このまま消し続けていたら、本当に誰からも見つけてもらえなくなるような気がして怖かったのだ。

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