■ 18.きみのすがたが滲んでいる
その後、一体どうやって家まで帰ったのか、なまえ本人ですら記憶が曖昧だった。
もちろん、駐車場には車が置いてあるし、行きと同じく車を運転して帰ってきたことは間違いない。だが覚えているのはひたすらに暗闇の中を駆けていたことだけで、一体いつ車に乗りどうやって無事に家までたどり着いたか思い出せないのだ。
気づいたときには出かけた時と全く同じ格好で、玄関にへたり込んでいた。一瞬何かも夢だったんじゃないか、とさえ思ったが、土のついた靴や汚れた衣服があの”かくれんぼ”が現実だったのだと証明している。
けれども依然として、イルミの姿はここにはなかった。
イルミの着ていた服も、使っていた歯ブラシも、マグカップも何もかもそのままなのに、イルミの存在だけがぽっかりと穴が空いたみたいになくなっている。彼が仕事でいないことなんてよくあったのに、いつもの不在とは何かが決定的に違っていた。
なまえはまだどこかぼんやりとしたまま、カーテンを開けて窓の外を見た。しかしそこにあの不気味な黄昏も呑み込まれそうな闇も無く、それどころか空は既に白みかけている。
それはいつもならイルミが帰ってくる時間だった。
「……とうとう、いなくなっちゃったんだ」
ぽつり、と控えめに呟いたつもりだった自分の声が、想像以上に大きく響いて聞こえた。
なまえは思わずびくりと肩を震わせる。それから不意におかしさがこみ上げてくるのを感じた。馬鹿みたいだ。自分の独り言に怯えるなんてどうかしている。けれども昨日まではいくら呟こうが独り言になんてならなかったんだと思うと、虚しさが胸を満たした。たとえイルミがまともに返事を返してくれなくたって、なまえが話しかけている以上は独り言ではなかったのに。
「あったかいお風呂に入りたい……」
なまえは倦怠感からずっしりと重い体をソファーに横たえた。お風呂にも入りたいし、汚れた服も着替えたい。今はよくわからないけれど、きっとお腹も空いているだろう。なにせ昨日の夕方から何も食べてないのだから。
しかしそれらのことよりも先に、なまえの身体はまず休息を欲していた。もはや目を閉じるだけで意識が遠のいていくのを感じる。
今一番なまえに必要なのは、誰にも妨げられることのない安らかな眠りだった。そして同時に、なまえは睡眠がこの混乱をどうにか収束して、都合のいい忘却を行ってくれることすら期待していた。
▽▼
「本当に連絡はつかないのか?だいたいどうして急に辞めるなんて……なにか手がかりになるような情報は?」
「す、すみません、何を聞いてももう仕事は受けないの一点張りで……住所を突き止めてやろうと何度か尾行したこともあるんですが、いつもまるで消えるようにいなくなるんですよ」
「消えるだと?お前、俺を馬鹿にしてるのか?」
「い、いえ、そんな滅相も……!」
怯えながら頭を下げる部下に、男は苛立った。本当に無能で、何の役にも立たない奴だ。無意識のうちに指が机を小刻みに叩いていて、不愉快なビートを刻んでいる。「おそらく、俺達以外からも仕事を受けていたはずだ。どんな情報でもいいから探れ」
その言葉に、はい!と勢いよく返事をした部下は、この場から逃げ出せることを心底喜んでいるようだった。一方、男も男で、自分の思いついたアイデアに安堵していた。情報が少なすぎるこの状況で、次の指示を与えることは難しい。けれどももちろん捜索を諦めるわけにはいかないし、上の人間が打つ手なし、と匙を投げたのでは威厳にも関わる。
実際、部下の無能に苛立っていたものの、手も足も出ないという意味では男の立場も似たようなものだった。”ゾルディック”というふざけた通り名の殺し屋には男自身何度か会っていたが、目の前にしてなお何一つ掴ませない人物で、部下が言った”消える”という表現もあながち間違っていないように思う。
とにかく会った印象としては、人間離れしている、としか言えなかった。サングラスで目元を隠していることを差し引いても、とにかく感情が読めない。大体の人間はいくら目を隠そうとも、仕草や声、そして醸し出す雰囲気に大なり小なり感情を滲ませるというのに、それがあの”ゾルディック”という男には無かった。そして男のくせに抜けるように白い肌と後ろでひとつに纏められた艶のある長髪が、余計に彼を人形のように見せていた。
「気持ちの悪い野郎だ……」
男は"ゾルディック"のことを思い出して、身を震わせた。人間離れしているのは何もその容姿や雰囲気だけではない。そちらは直接見たわけではないが、奴の仕事は怖いくらいに正確無比だった。殺しの道具も何を使っているのかわからない。が、拳銃やナイフなどでないことは明らかだ。
そしてこれまでの経歴も一切不明。本名も住んでいる場所も何もかもわからない。とある筋から腕のいい殺し屋だと紹介され、実際金さえ積めば何でもやってくれた。他の人間には不可能だったことも"ゾルディック"は問題なくこなした。
取引相手でいるうちは本当に心強く、多少の気味悪さなど我慢できたのに。
「……仕事はもう受けないなんて、どういうつもりなんだ」
どこかに買収されたのか。何度専属になってくれと頼んでも、頑として首を縦に振らなかったあの男が。もしそうだとしたら、非常にまずいことになったと思わざるを得ない。
頼りになる殺し屋は敵に回れば脅威でしかなかった。
──どんな手を使っても、あいつを他に渡すわけには行かない。渡すくらいなら殺さなければ。
そう決意したものの、男にはあの"ゾルディック"が死ぬところなんて少しも想像出来なかった。
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