- ナノ -

■ 14.自分が自分であるということ

「はい、これ」

そう言って目の前に差し出されたのは、分厚い茶色の封筒。
なまえはじっとそれを見つめ、ややあってから顔を上げた。当然、視線がぶつかるがイルミは目を反らしたりなんてしない。それどころかいつまでも手を伸ばそうとしないなまえに、さらに封筒を突き出した。

「受け取ってくれないの?」
「……」

明け方近くに帰宅したイルミは、見た目にはいつもと何も変わらないように見える。返り血で汚れていることもなければ、小説で表現されるような鉄臭い匂いがするわけでもない。それどころか汗ひとつかいていない涼しい表情で、"労働"の気配を微塵も感じさせなかった。

そう、彼は今日、人を殺してきたのだ。
その殺人は、なにも頭のおかしい殺人犯の凶行ではなかった。メディアの同情を惹くような悲しい復讐劇でもなかった。イルミの殺人は”労働”以外の何物でもない。他の人間が会社に行って企画書を作り、商談を成功させるのと同じ意味合いしか持たない。その証拠に彼が得た物は殺人による興奮や快楽ではなく、目の前の茶封筒──すなわちお金──のみだ。

だが、わかっていてもなまえはそれを簡単に受け取る気にはなれなかった。
自分だって命までは奪わないものの人を騙して収入を得ているのだから、こんな抵抗は偽善にすぎないと思う。それでもこれほどまでに”重い”お金を手にすることは初めてで、手を伸ばすには勇気が必要だった。

「世話になった分は稼いで返すって話だったでしょ?家賃までお願いってふざけたこと言ってたのはどこの誰だった?」

イルミは黙ったまま動かないなまえに、僅かに目を細める。元々表情がわかりにくい彼のことだから、それが呆れからくるものなのか苛立ちからくるものなのか判断がつかない。なまえは確かにゾルディックの稼ぎを期待する、とは言ったが、いざこうやって目の前に大金を差し出されるとどうしていいかわからなかった。そして重要なのは額ではないのに、「でも、こんなに……」とわけのわからない言い訳をした。

「まぁこの金額じゃどっちが扶養されてるのかわからないけどさ、オレがここの世界のお金を貯めたって仕方ないし、なまえには世話になってるからお礼だよ」
「いや、でも……」
「でも、なに?」
「……」

とうとうなまえは目を合わせていることが辛くなって視線を落とした。一体なんて言えばいいのだろう。何を言っても何をしても、イルミを不快にさせてしまうような気がした。

「別になまえにどう思われようと、オレは気にしないけど」

こちらの心を見透かしたような言葉に息が止まる。
イルミは封筒をテーブルの上に置くと、それ以上は何も言わず浴室の方へと向かった。程なくして水音が聞こえ、彼がシャワーを浴びているのだとわかる。その音を聞きながらなまえはその場にしゃがみこんだ。

自分の態度でイルミを傷つけるかもしれないなんて、思い上がりもいいところ。彼が出て来るまでには、あの封筒をどこかに片付けてしまおう。イルミはただ借りを返したかっただけで、なまえがあのお金を遣おうが遣うまいがあとはどうだっていいのだから。

それに今更なまえが何をしようと、今日誰かが死んだことに変わりはないのだ。




なまえにどう思われようと、痛くも痒くもない。

それは実際、嘘偽りのない本心であったはずだが、イルミは先ほどのなまえの態度を面白くないとも思った。
今日の殺しはこちらに来てから、初めて受けた正式な依頼。なまえの情報や繋がりを使って、ようやく手に入れた仕事だ。いくらイルミが暗殺一家出身で、ずば抜けた技術を持っていたとしても、信用が大事になってくる裏社会で名もないイルミに仕事を回す者などいない。いや仕事や顧客の質を下げればいくらでもあるのかもしれないが、そうなるときちんと報酬が支払われるのか怪しくなってくる。

つまり、イルミがこちらの世界で生計を立てるにはなまえの協力が必要だった。実績を重ねて行けばそのうち向こうから頼んでくるようにもなるだろうが、少なくとも最初は”紹介”というものが必要になる。だからいくらなまえが殺人で得た報酬に抵抗を示そうと、既に彼女は共犯者なのだ。それなのにいつまでも純真なふりをするなまえに腹が立つ。

イルミの仕事を受け入れないことはイルミの存在を否定することだ。


きゅ、とシャワーコックを捻ってお湯を止めると、髪に含まれていた水気が遅れて裸の背中を伝う。イルミは湯気で曇った鏡を手で拭うと、久しぶりに自分に向き合った。

殺しは所詮、イルミにとって仕事以外の何物でもない。ヒソカのように戦闘を楽しむことはなかったし、一方的な殺戮に興奮することもない。それどころか、依頼料が発生しないのであれば殺しは無駄であり面倒ですらあった。
けれども今日はどうだっただろう。本当にあれはただの仕事だったのだろうか。イルミは先ほど殺してきたばかりの男を思い浮かべる。ここの世界にもマフィアに似た暴力団組織が存在するようで、依頼はそこの若頭を殺すことだった。

今まで受けた仕事に比べれば造作もない、本当に呆気ない仕事だったと思う。なにせ相手は念も使えない一般人だし、イルミのように訓練された人間が存在するとは夢にも思っていないのだから。

それなのに、あの男を殺した瞬間、イルミは久しぶりの充実を味わった。
感情で言うなら、まさしく喜びだったと思う。別にそれは暗殺者として恥ずべき感情だとは思えないが、この程度の依頼で充足を得るなんて考えられない話だ。そして同時に、もっと欲しいと思った。ただの殺しではなく、依頼が欲しい。イルミがイルミであるために依頼が必要だ。

(たとえどんなになまえが嫌がっても、もうしばらくは紹介してもらうよ)

変わらないはずの自分の表情。だが鏡の中のイルミはうっすらと笑ったような気がした。

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