- ナノ -

■ 12.どこかで誰かが死ぬ合図

そこにいるはずのないイルミの姿に、なまえは一瞬硬直する。

別に彼はただの居候で、他の男と一緒にいるところを見られたって構わないが、隣の山川に誤解されるのはなまえにとって酷く面倒なこと。
ましてや今のなまえは『日向子』という名前の女なので、イルミの呼びかけに返事をするわけにはいかなかった。

「どうしたんだい?知り合い?」

「え?知りませんけど……」

知らない、という返事に、こちらに近づいてきていたイルミの足はぴたりと止まる。今はその表情を確認する勇気はなかったが、ひとまずなんとかこの場から逃れようと山川に腕を絡めて引っ張った。「早く、行きましょう」本当はまだこんなスキンシップを取るつもりはなかったのだけれど、山川のほうも今はそれどころではないらしい。なにせイルミは長身で、何もしていなくてもどことなく威圧感がある。変な人物に絡まれたくないと思うのは誰だって同じだった。

「なまえ、ふざけてんの?」

「いい加減にしてください。ね、行きましょ」
「あ、あぁ……」

イルミだって詐欺とは言わないまでも、似たようなハニートラップの仕事をしたことはあるはず。だが、察してよ、としつこい彼に目で訴えかけたが、イルミはそれを無視してなまえの腕を掴んだ。

「いい加減にしてほしいのはこっちだよ、嘘つき」
「……なんなの」
「ホントのことでしょ」

なまえは山川から手を離すと、イルミと正面から向かい合う。『嘘つき』というストレートな単語に、何やら差し迫った状況なのだと理解したからだ。責めるような言葉の割には落ち着いて見えるが、イルミはもともと無表情なので実は怒っているのかもしれない。

「日向子、さん……?」

恐る恐る呼ばれた偽名に、なまえは振り返ってごめんなさい、と言った。「私、この人と行かなきゃ」あんなにした下調べも、払ったジムの料金も全部水の泡。山川は意味が分からない、というように頭を振ったが、次の瞬間なまえはイルミの手を取って駆け出していた。

「ちょっ、どういうことなんだ!?」

後ろから怒りとも困惑ともつかない声が聞こえるが、もう二度と会うつもりはない。ジムには偽の身分で登録してあるし、向こうだって食事代の損くらいで深入りして来たりしないだろう。
それより今はイルミとのことの方が問題で、なまえは走りながら必死で頭を働かせていた。

「なまえどこまで行くの。別にあいつ、追って来てないけど」
「イルミのせいで何もかもめちゃくちゃ」
「じゃあやっぱりあれ、ハニートラップか何かの仕事?」
「……」

わかっててやってたなら、なおさらタチが悪い。なまえは人通りのある方へイルミを導くと、ようやく足を止めた。これだけの人目があれば、いくらなんでもそう滅多なことはしないだろう。イルミはプロの暗殺者だからなるべく殺す時も目立ちたくないはずだ。特にこんなわけのわからない『異世界』では。

「仕事ぶりを見たいと思ってさ、なまえのこと尾けてたんだ。でも、占いのうの字もなかったし、なまえっていったい何者なの?」
「……私は占わないって言っただけで、占い師だとは一度も言ってないけど」
「へぇ、言うね。ま、いいけど。なまえって結局なんなの?実は情報屋とか?」

「……だったらなに?人の仕事邪魔して、挙句嘘つき呼ばわりなんて」

嘘つき、は占い師と言う肩書に対してだけなのだろうか。なまえは内心怯えながらも、わざと怒ったような態度をつくる。
するとイルミは感情のこもらない声で、「悪かったよ」と口先だけの謝罪をした。

「無視されたから、ちょっとイラッとしたんだ。それに頼みたいこともあったし」
「頼みたいこと?」
「そう。なまえなら伝手あるんじゃないかと思ってさ」

どうやらイルミは今すぐなまえをどうこうするつもりはないらしい。少しだけ肩の力を抜いたなまえは、今度は『情報屋』のフリをせねばならないのかと自嘲気味に溜息をついた。

「一応聞くだけ聞くけど……役に立てないかもしれないよ」
「まぁ、どっちかっていうと役に立つのはオレの方だけど」
「え?どういう意味?」

──そろそろ仕事をしようかって思ってるんだ

その言葉の意味を考えて固まるなまえに、イルミは相変わらずの真顔で言う。

「斡旋してよ、殺しの依頼」

ごく自然に発せられたその言葉は、この平和な世界においては酷く馬鹿らしく、滑稽に聞こえた。

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