- ナノ -

■ 11.いつ終わるともしれないね

扉が荒々しく開け放される音。
リビングでイルミの帰りを待っていたなまえは、その音に驚いて玄関の方に視線をやる。こちらの部屋が明るいせいで顔はよく見えないが背格好は紛れもなくイルミその人で、何があったのか出かける時に着ていた服がぼろぼろだった。

「ちょ、イルミ、どうしたの!?大丈夫?」
「……」

元の世界がそうだからややこしいのか、イルミは靴を脱がないまま無言で部屋に入ってくる。だがなまえも突然のことに驚いていて注意する余裕もなく、今はイルミの様子がおかしいことが不安で不安でたまらなかった。

「ねぇ、どうしたのその格好……怪我は?」

ソファに腰を下ろしたイルミは俯いて首を横に振る。長い髪が顔を覆って表情は見えなかったが、とにかくダメージは服だけのようだ。とはいえイルミがこんなぼろぼろになるなんて並大抵のことではなく、なまえは下から覗き込むようにして再び何があったの?と尋ねた。

「結局、地図を見て辿り着けたの?先生には会えたの?」
「……駄目だった。『トガシ』はおろか、出版社にもたどり着けない」
「え?」
「どうしても行けないんだ。必ず何らかの邪魔が入る」

イルミは苛立ったように髪をかき上げそう言ったが、なまえには意味がわからない。だが次第にイルミも落ち着きを取り戻したらしく、家を出てから何があったかを説明した。

「確かに……偶然とは思えない」

話を聞いて見てみれば、検索サイトのトップニュースにもなっている。路線や道路、手段はバラバラでも局所的にこんなに事故が起こるのはどう考えても異常だ。イルミの話では結局徒歩ですらもたどり着けなかったらしい。ずばぬけた身体能力と方向感覚を持った彼が無理だったのだから、理解を超えた力──まさしく念のような何かが働いているとしか考えられなかった。

「おそらく、オレは自分の存在に関わる人間との接触は制限されている」
「やっぱりどうやってこっちに来たか思い出せないの?念をかけられたとか……」
「思い出せない、でもその線が有力かな。作者に接触ができないとなると、なまえの言った『神かくし』に賭けるしかないよ」

立ち上がったイルミの言葉になまえは思わずドキリとする。あれはその場しのぎの出まかせだった、なんて今更言えない。彼はところどころ敗れた服を脱ぎ捨てると、シャワーを浴びに浴室へと向かった。その後姿を見送って、なまえはぼんやりと考える。

もしも利用価値がないことが分かったら、イルミはあの女にしたようになまえをあっさり殺すのだろうかと。

▽▼

「日向子さん、顔色良くないけど……大丈夫?」

先ほど教えた偽名を呼ばれて、なまえはハッとして顔を上げた。
困ったように眉を寄せたあと、何事もなかったようににっこりと笑顔をつくる。

「ごめんなさい、ちょっと考え事してて……」

山川忠、46歳。それが今回のなまえのターゲットだった。

「悩み事?相談なら乗るよ」

考えていたのはイルミのこと。まさか、今うちに漫画のキャラクターが居候していて、彼に嘘がばれると殺されるかもしれないんです、なんて言えるはずもない。
イルミの出版社行きが失敗してから、もう1週間経つ。その間、彼は出版社そのものでなく、そこで働く人間にも接触しようと試みていたみたいだが、全て徒労に終わっていた。

「ありがとう、優しいんですね」

そもそも食事をするのはこれが初めてなのに、何が相談なら乗るよ、だ。「今日こんなに幸せだと、むしろ明日からのほうが悩み事増えちゃいそう」なまえは曖昧な笑みを浮かべ、ワインのグラスに手を伸ばした。

「はは、僕はいつでも構わないよ」
「ん〜、でも、山川さんに絶対悩み事は言えないなぁ」
「どうして?」

「だって……会ったらそれだけで解決しちゃうじゃないですか」

恥ずかしそうに目を合わせ、そして反らす。
本当に、食事をするのはこれが初めてなのに、どうして男はこんなお世辞を真に受けるのだろう。いや、実際お世辞とはわかってても、悪い気はしないということなのかもしれない。女は見え透いたお世辞を嫌味や下心と受け取って嫌うが、男はどんなに見え透いていても褒められれば嬉しい生き物なのだ。

特にこの目の前の男のように、ちやほやされるが当たり前な環境で育ったような男は。

山川はとある上場企業の社長だった。結婚して妻子もいるが、なまえに声をかけたときの様子から女を誘うことには慣れているのだろう。なまえだってそういった男どもをひっかけるために馬鹿高い高級スポーツジムの会費を払っていたのだから、しっかりと元は取らせてもらうつもりでいた。
どうせ向こうも下心があるに決まっているのだから、罪悪感なんて感じる必要はない。既に男の趣味や経歴を調べ上げ、予習はばっちりだった。

「えっとこの後だけど、」
「もう少し、他の場所で飲みたいなって……ご迷惑ですか?」
「いや、そんなことはないよ。近くに良い店があるんだ」

会計のためにウェイターを呼んだ山川は、慣れた様子でクレジットカードをホルダーに挟んだ。値段は知らないが、料理もサービスも一流。向こうも初めが肝心だと言うのはよくわかっているみたいだ。
とはいえなまえはあくまで山川を利用したいだけで、本当に彼とどうにかなるつもりはない。それでは詐欺でなくただの愛人だ。
今日はもう一軒だけ付き合って、帰る。ある程度お金をかけさせておけば、勿体ないとでも思うのか必ず向こうから会おうと言ってくるものだ。

だが、レストランを出たところで、なまえの予定は狂い始める。

「なまえ、」

暗闇の中からぬっ、と姿を現したイルミは、いつからここで待っていたのだろうか。

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