- ナノ -

■ 10.抵抗する世界

─イルミが正しいよ

そんなことを言われたのは、もしかすると初めてのことかもしれない。

もっともイルミだっていつも自分なりに最善を尽くしているつもりだし、自分のしていることが─少なくとも家の為には─間違っているなんて思ったことは無い。
けれども自分で正しいと思うことと他人から正しいと言われることは何かが違った。だから驚いた。それだけでなくなまえは急に協力的にもなって、正直訳が分からない。一体どういう心境の変化なのか。
イルミは少し考えていたが、すぐに無駄だと思いなおしてやめた。そもそも他人の感情を探ってみたところで何の意味もないだろう。なまえとしても早く出て行って欲しいだろうし、そうなればこの協力だって腑に落ちる。

イルミはとりあえず駅に向かうと、そこで貰った地図を眺めてみた。生きがけに本屋にでも寄って買うかと思っていたが、印刷された行き方を見る限りここからすごく遠いというわけでもなさそうだ。
電車を使って2時間くらいか。乗るのは初めてだったけれど、土地勘がないのだからむやみに歩くよりも交通機関を使った方が確実だろう。路線図を見ながら見よう見まねで切符を購入したイルミは、人の流れに従って改札を通り抜ける。そして制服を着た駅員にホームを尋ねて、後は電車を待つだけで良かった。そう、ここまでは順調だったのだ。

だが、待てども待てども目当ての電車は来ない。イルミは時間を確認しようとして、自分が腕時計も携帯も持っていないことに今更気がついた。まあそれに関してはホームにも時計があったので解決したが、やっぱり電車は遅れている。遅延はそう珍しくないことなのかと周りの様子を伺えばそういうわけでもなさそうで、やがて単調なメロディと共に人身事故があったとのアナウンスが流れた。

「ねぇ、これってどうなるの」

運転が見合わせられたのはわかるが、見合わせられた側としてはどうすればいいのか。おそらく同じ電車に乗るはずだったと思われる男に尋ねてみると「振替輸送とかですかねぇ……」なんて困ったような返事が返ってくる。実際、その後すぐに振替輸送に関するアナウンスが流れて、ホームに残った人間はまばらになった。

(あぁ、面倒くさい)

電車ってなんて不便なんだろう。イルミは再び改札に戻ると、先程の駅員を捕まえてもう要らないからと切符を返した。

「払い戻しですか?」
「もういいよ、面倒だし。出ていい?」
「え、ちょ、お客さん!」

改札を飛び越え、別のルートを模索する。電車は駄目だ。かといってこの世界は飛行船が飛んでるように思えないし、そうなると後は車か。ちょうど駅のロータリーにはタクシーがたくさん止まっていて、初めからこうすればよかったのだと思った。

「はい、お客さん」
「ここまで連れてって」

車内は狭いしシートも固いが、そう文句ばかりも言っていられない。地図をそのまま手渡したイルミはふう、とため息をついた。

「わかりました、それじゃ車出しますね」
「うん」

いつもの癖で足を組もうとしたが、前のシートが邪魔でそれは叶わず。窓の外に視線をやれば自分のいた世界とほとんど変わらないのに、自分だけが閉じ込められてしまったような気がした。




タクシーに乗って、30分くらい経った後だろうか。
最初は話しかけてきていた運転手もこちらが返事を返さなければ諦めたらしく、車内はいたって静かだった。だが、そんな室内に不意に聞こえた息を呑むような悲鳴。発生源はもちろん前の運転手で、悲鳴とほぼ同時に車全体を衝撃が襲った。

「なんなの……」
「お、お客さん大丈夫ですか!?すみません、あの車が急に出てきて、それで……!」
「事故?」

どうやら車同士、出会い頭の衝突らしい。幸いスピードもそんなに出ておらずけが人もいないようだが、左のヘッドライトのあたりが大きく凹んでしまっているようだ。「大丈夫ですか?首とか」慌てた様子でこちらを伺い、すぐさま携帯で電話をかけだした運転手に、イルミはうんざりした思いだった。

「大丈夫だけど、走れるのこれ?」
「い、いえ、すみません。とりあえず病院に行かれた方が……何かあってからじゃ遅いですし」
「いいよ、病院は。オレ怪我してないし。それより急いでるんだけど」
「じゃ、じゃあ代わりの車を手配しますので……」

もはや溜息しか出てこない。最初は人身事故で電車が運転見合わせ。次はタクシーが衝突事故。あまりに運が悪すぎて、これではまるで邪魔されているみたいだ。
しかしそこまで考えて、イルミは待てよ……と首を捻った。もしかすると本当に邪魔されているのかもしれない。何らかの力が働いて、イルミをあの出版社へ行かせないようにしている?だとしたら代わりの車が来たところで、何の意味もないではないか。

「あの、お客さんすいません。ちょっと向こうのドライバーと話してくるので、降りて待っててもらっていいですか?すぐに代車が来ますので、ほんとにすみません」
「うん」

へこへこ頭を下げる運転手は、イルミが車から降りたのを確認するとすぐさま衝突した相手と話に行く。ちらりと運転席を覗けば不用意にキーがさしっぱなしで、車はまだ動きそうだった。

「え?あ、ちょっとお客さん!?」

エンジンのかかる音、そして滑らかに発進したタクシー。運転手が驚いて振り返ったときにはもうイルミはそこにいなかった。「ちょっと借りるね」早くしないともうじき警察が来るだろう。完全に乗り捨てるつもりで、イルミはそのまま車を走らせた。

「運転しにくいけど、仕方ないな……」

もし何らかの力が邪魔しているなら、強引に行くしかない。そして強引に行くなら他人の手を借りるより自分でやったほうがいい。
イルミはサングラスを額の上まで押し上げると、ハンドルをしっかりと握り直した。

[ prev / next ]