■ 8.嘘
「どこ…行ってたの?」
「イ、イルミ…」
もう日は高く上っているから、部屋の中は明るいはずだった。
だが、目の前に長身のイルミが立ちはだかると、小柄なユナなんかはすっぽりと彼の影に収まってしまう。
加えて、彼は氷のような冷たいオーラを発しているため、酷く息苦しかった。
「ご、ごめん…その、昨日は…」
「実家に電話したら、『ユナはうちで泊まります』って言われた」
「えっ」
家には何も伝えていなかったのだが、イルミからの電話にただならぬ何かを感じ取ったのだろう。
というか、ちゃんと実家に連絡入れてるあたり、抜かりがないよね…。
別に私を庇ったわけではないだろうが、もしも離婚なんてことになったら困るのはうちの親だし、咄嗟に嘘をついたに違いなかった。
「なんだ…知ってたの」
ユナは少しホッとし、それならなぜイルミがこんなにも怒っているのだろうと不思議に思った。
「ごめん、ちゃんと連絡すれば良かった。心配してくれたんだよね…」
「まぁね。親は『泊まる』って言ったけど、直接ユナと話したワケじゃないし」
「アルコールの訓練、向こうでやってたんだ…だから、もう電話に出られるような状態じゃなくて…」
ある意味、昨日のは訓練だったと思う。
レディキラーだかなんだか知らないが、まさかカクテル2、3杯であそこまで意識を失うとは…
今後あんなことが絶対にあってはならない。
ユナはごめんね、と頭を下げて、とにかくこの場から逃れようとした。
「オレはさ」
イルミを避けて部屋の奥へ進もうとすると、痛いほどの力で腕を掴まれる。
怒ったイルミは今までにも見たことがあったが、直接痛いことをされたのは初めてで、ユナは驚いた。
振り返ると、イルミの真っ黒な瞳と目があう。
「オレはお前の口から、昨日どこにいたかちゃんと聞きたいんだけど」
「…イルミ」
思いがけない言葉にユナはドキリとする。
それって浮気を疑われてるってこと?
イルミってそんなに私に執着してたっけ?
淡白な彼のことだから「どうせ政略結婚なんだし」とか言って、気にしないのかと思っていた。
実際、彼自身は結婚してからも、仕事の関係で他の女を抱くこともあったのに…
ユナは内心では驚きながらも、その動揺は押し隠した。
「何言ってるの?
実家だよ。そう言ってるじゃん」
そう答えた瞬間、彼の表情が少し歪んだ。
怒り、というには切なげで、ショックを受けたというのが一番近いように思える。
ユナには、なぜ彼がそんな顔をするのかわからなかった。
「あっそ」
イルミはユナの腕を離すと、くるりと背を向けて出ていった。
今日はベランダからじゃない。
「ちょっ、イルミ…?」
わからない。
彼がどうしてあんな態度を取るのか。
けれど、ぽつんと部屋に残されて、改めてこの部屋の広さを知ったような気がした。
それから数日、イルミとは口をきかなかった。
正確には声をかけられなかったという方が正しい。
怒ってる、というのは嫌というほどわかるのだけれど、本当のことを話すわけにもいかないし、これ以上謝るのも余計に怪しまれそうだ。
第一、彼は前よりももっと遅くに帰宅し、早くに家を出るようになっていたから、話す機会もほとんどなかった。
「イルミ…」
早朝。
何も言わずに出ていこうとするイルミに向かって、ユナはとうとう声をかけた。
彼は相変わらずの無表情でくるり、と振り向く。
それから酷くうっとおしそうに「何?」と聞いた。
「…あの日のこと、疑ってるの?」
「別に」
素っ気ない返事は彼によくあることだったけれど、これは確実に怒っている。
だが、ようやく話しかけることができたのだ。
ユナはベッドから降りると、寝間着姿のまま彼に近寄ろうとした。
「イルミ、私さ」
「オレ、まだ片付けられてない仕事があるんだよね」
「え」
ユナの話を遮るように発せられた言葉。
それはそのまま、近づこうとしたユナの足をも止める。
イルミはすっ、と目を反らした。
「絶対、しくじれない仕事なんだ。
…それが終わったらユナの話聞くから」
「…うん」
今はまだ、話しかけるな、ということだろうか。
そこまで言われて食い下がるほど、ユナは空気が読めない女ではなかった。
「…わかった。頑張ってね」
「…うん」
自分が悪いのはわかってる。
だけど、イルミの冷たい態度が悲しかった。
私はいつの間に、こんなに彼に依存してたんだろう…
ユナは彼のいなくなった部屋で、再びどさりとベッドに体を沈めた。
「隠し事って…つらいんだな…」
イルミに話しかけるチャンスを掴むため、ほとんど寝てなかった体が鉛のように重い。
だが、今はその体よりも心の方がずっしりと重たくて、気づけば深いため息がこぼれている。
いっそ、何もかも正直に話してしまった方が楽なのかな…?
ユナが自分の仕事をひた隠しにしているのは、ゾルディックの特殊な環境と、他ならぬ実家のためであった。
なにせ、顔写真だけで2億は下らないゾルディック家。
実家の安泰のためにはゾルディックに嫁ぎたいところだが、そんな厳重な情報管理を行っている所に『情報屋』が嫁げるはずもない。
何かがあればスパイとして即疑われるだろうし、そもそも向こうだって『情報屋』とわかって迎え入れるほど寛大でないに決まっている。
ユナはホントに偶然に貴族の集まるパーティーでキキョウさんに見初められたのだが、ゾルディックならいくらでも結婚相手には困らないに違いなかった。
ユナが男だったらよかったのに…
それは生まれてからずっと言われ続けてきたこと。
名家に生まれたたった一人の子供は、不幸にも家を継げない女の子。
ユナを産んだ際に、二度と子供を産めなくなった母は親戚からも酷い扱いを受け、母のやり場のない怒りと悲しみは全てユナに向けられた。
―どうして女なの?
ずっとずっと、私だって思っていたよ。
男にさえ生まれたら、皆幸せだったのに…
だからユナは少しでも家の役に立ちたくて、少しでも存在を認めてほしくて『情報屋』として頑張り続けていた。
結婚した今でさえも、『情報屋』として得た収入のほとんど全てを実家に送っている。
―オービウス家には男児が産まれたらしいぞ
―まぁ、羨ましい。じゃあ、あそこは安泰ですわね…
それに比べてウチときたら…
他人の心ない言葉には、多くの情報が含まれている。
初めは、親戚たちがユナをなじる間にする、他の家の噂話を聞くだけで良かった。
噂話には妬みや羨望もたくさん混じっている。
けれども、そこにこそ真実があることに気づいたのだった。
―ユナは、我が家の稼ぎ頭ね
そのうちに、親戚から養子をもらって、跡継ぎの心配はなくなった。
ユナにはこの家にいてもいい理由が必要だった。
「ユナ!あ、あなた、ゾルディックから使いの方がお越しになっているけれど!
な、何かとんでもないミスをしたんじゃないでしょうね!?」
取り乱した様子の母親は、ユナを早く早くと急き立てる。
だが、当時のユナにはゾルディックの情報なんて扱った記憶はなく、首をかしげながら使いの人に対面したものだった。
「あの…ユナというのは私ですが…」
渡されたのは一枚の手紙。
それはゾルディックの嫁候補として、是非一度お見合いをしてみないかという内容の物だった。
その時は正直、訳がわからなかった。
実はパーティー会場で少し騒ぎがあり、周りにバレないように侵入者を片付けておいたのだが、まさかそれをキキョウさんに見られているとは思ってもみなかったからだ。
だが、その手紙に母親は歓喜し、何としてでも結婚に漕ぎ着けるのよ、と言った。
「あなたが女の子で良かったわ」
初めて認めてもらえたから。
女でも役に立てるんだって思えたから。
「…わかりました。
決めるのは向こうだけど、会ってみます」
だから政略結婚でもなんでもいいやって、思った。
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