■ 52.答え合わせのその先に
「ユナ……」
男の唇は、確かにそう動いた。
吐息とともに発せられた声は、どこか懐かしく。
名前を呼ばれたことに、今度はユナがびっくりする番だった。
「誰?どうして私の名前を知ってるの?」
「…わからない?オレだよ、ユナこそ、なんでここに…」
言いながら目の前の男は、何処からともなく針を出すと自分の顔面に突き刺していじくる。
ユナがその針が一体誰のものか認識するのと、ぐちゃりぐちゃり、と歪な音を立てて男の顔が変形するのと、ほぼ同時だった。
「イ、イルミ……?」
短かった髪は、さらり、と肩に流れ、彼はこきこきと首を捻る。
ユナは予想もしなかった事態に、頭の中が真っ白になった。
「なんで…なんでそんな…」
「オレが変装できるの、知ってただろ」
「針は?針なしでも出来たの?」
「あれ?言ってなかった?
針なしでも出来るんだよ。ただし効果は4、5時間ってところだけど」
確かに彼の言う通り、ユナはイルミが変装できることを知っていた。
だが知っていたのは、顔中を針だらけにしたおぞましい姿だけ。
もちろん屋敷のものにも、そんな不審な人物がいたらイルミであるから警戒するように、と伝えていたくらいだった。
「っていうか、オレのことはいいんだよ。
ユナこそどういうことなの?
なんでここにいるの?なんでネイビスの顔してたの?どうやって変装してたの?オレの計画を知ってたの?どうやって」
「そんな一気に質問に答えられないよ!」
マシンガンのように質問を重ねられ、今度こそ本当に壁際へと追い詰められてしまう。
予定が狂った。大誤算だ。
イルミなら私は変装を解くべきではなかった。
けれども、バレてしまった以上、次に私にできるのは時間を稼ぐこと。
幸いイルミはネイビスよりも、目の前の私に注目しているようだった。
「答えてよ。ねぇ、もしかして今まで全部嘘だったの?」
「…全部とは?」
「まずは念。それってまさか、メリルのと同じ?
ってことはメリルの正体はユナだったの?」
前にハニートラップの際に、メリルの念についてはそれなりに教えていた。
だからなのだろうが、イルミの思考の早さに、言い訳が追いつかない。
ユナがかろうじてこくこくと頷くと、イルミの眉間に僅かなシワがよった。
「へぇ、オレに隠し事だなんていい度胸してるね。
てことは、ヒソカとも知り合いだったんだ?
オレに内緒でヒソカや別の男に会ったりしてたわけだ?」
「で、でもヒソカと知り合ったのはイルミと結婚する前だし仕事だし…」
「なにそれ、オレとよりヒソカの方が付き合い長いって?
ふぅん…でもユナとしてヒソカに会ったときも、お前はオレに何も言わなかったよね?
仕事って言うけど、あのヒソカはそんなの関係ない変態だし、何されたかわかったもんじゃないよ」
「ちょ、イルミ」
心なしか、先ほど変装したイルミに殺されかけた時よりも怖く感じる。
いつも無口なイルミがいやに饒舌で、しかもその内容が理屈理屈理屈で固められているから、口を挾む隙がない。
嘘をつく余裕すら、与えてはくれなかった。
「ま、待ってよ」
「待たないね。初めから全部辿っていこう。
……そういや、一度外泊あったよね?
実家に泊まったとか言ってたけど、こんな所に居られるわけないし誰と?
ねぇ、ヒソカ?どこまでやった?」
「違う、あれは仕事の客!酔いつぶれて……でも何もされてないから!」
「さて、どうだか。まぁ、まずこの分お仕置きは一回ね。
それから後は…そうだ、オレがメリルに写真の男を探すように言ったこともあったね。
あの時お前はオレに会っていながら白を切った。これもお仕置き。
それからあれだ、オレがユナにハニートラップ仕掛けた時。さぞかし茶番に思ったんだろうね?」
イルミは完全に目が据わった状態で、一つ二つと指を折り数えていく。
その中にはほとんどイルミの一方的な勘違いや、偶然そうなったことなども含まれていたのだが、そんなことはお構いなしに次々とカウントされていく。
最後、震え上がる私にイルミは、で?と言った。
「で、ここにいる訳を説明してもらおうか?
オレ、もう少しでユナを殺しちゃうとこだったよ」
今にも殺しかねないほど不穏なオーラを纏っているくせに、イルミはそう言って腕組む。
まだ母からの連絡は来ない。
どうしよう、と思わず視線を反らせば、ぐいと顎を掴まれた。
「よそ見していい状況じゃないだろ、
わかってる?
答えによっちゃ、情報屋のお前はオレを裏切ったことになるんだよ?」
だが、彼の口から発せられた『裏切る』と言う言葉に、流石のユナも黙ってはいられなかった。
「う、裏切るって、イルミもじゃない!」
「は?」
「だってそうでしょ?
私の家に暗殺依頼が来てたこと、黙ってたんだから!」
こうなったら言いたいことは言ってしまおう、とユナは大きく息を吸う。
イルミはまさか言い返されると思ってもいなかったのか、少し口をつぐんだ。
「母からゾルディックのことを調べろって言われた時も、迷ったけどやらないつもりだった。それだけはやっちゃいけないって……だけど、先にイルミが裏切ったって知ってそれで……イルミは私が家を大事にしてるの知ってたはずでしょ!?」
「知ってたよ、お前がオレより家の方を大事にしてるってね。だからこの際無くなればいいって思ったし、やるなら夫としてオレがやろうって思ったんだ」
「なんでそこは開き直るの!?
私はイルミのこと、ちゃんと大事に思ってるよ!」
「…今だって邪魔をしておいてよく言うよ」
大事に思ってる、という言葉にイルミは驚いたように目を見張ったあと、それから拗ねたように鼻を鳴らす。
いつの間にか緊迫感は無くなり、ただの夫婦喧嘩のようになっていた。
「ねぇ、もしもオレが変装せずに来ていたら、そのまま馬鹿みたいに殺されるつもりだったの?」
「……私どうかしてたのよ。
私が死んだらイルミが悲しむかどうか、知りたかったの」
「悲しまないよ」
「…っ!そうでしょうね!」
「壊れるよ」
え……?
思わず彼の目をまじまじと見つめると、そのままぎゅっと抱きしめられる。
少し痛いくらいに強く抱きしめてきた彼の身体は、小さく震えていた。
「ユナが…ユナが死んだらオレは壊れるよ。
きっと悲しむこともできずに壊れていく」
「……イルミ」
「だから、二度とこんな馬鹿なことしないで。オレから離れないで」
先程までの勢いはどこへやら、縋るようにそう呟くイルミにハッとする。
…ごめんね。
ふと気づけばユナの口はそう動いていた。
初めてちゃんと謝ることができたような気がした。
「ごめんねイルミ、ごめんね..」
「オレもごめん」
思えば、こんなふうに直接気持ちをぶつけあって喧嘩したことなんてなかったかも。
いつもどちらかが物分かりのいい大人のふりして、上辺だけ関係を取り繕おうとして。
本当の気持ちを伝えたら、ずっと重かった胸がふわりと軽くなった。
「……イルミ、好きだよ。
割り切った関係でいようって思ってたけど、やっぱり無理だった」
「オレはずっとそう言ってくれるのを待ってたんだけど」
「イルミのくせに受身なんだね」
「だって、ユナを失いたくなかったから」
子供みたいな言い草にくすりと微笑めば、その唇は塞がれる。
離れていた日々を埋めるように、何度も何度も角度を変えて、イルミは自分を刻み込んだ。
「…好き」
そう呟いたのは果たしてどちらか。
ユナは彼の背に手を回し、ゆっくりと目を閉じた─。
「そうだ、忘れてた」
「な、なに?」
呼吸もままならないほど長いキスの後、ようやく唇を離したイルミはそんなことを言う。
すっかり腰が砕けてしまっていたユナは、肩で息をしながら彼のことを見つめた。
「仕事。ネイビスは殺さなきゃ」
「え、ちょ!」
「なに?」
「いや、だってさ…」
この雰囲気の後でも、まだネイビスを殺そうとするんだ?
もはや焦りよりも呆れた思いが強くて、何と言っていいかわからない。
ユナは未だに連絡のこない携帯をちらりと確認し、部屋を出ていこうとするイルミの腕にすがりついた。
「待って、イルミ」
「ダメだよ、これは仕事なんだから」
「…わかってる、だけど仕事がなくなるかもしれないの。
それだけまず確認させて!」
振り向いたイルミはこてん、と首を傾げた。
「仕事がなくなる?」
「そう、私がここでネイビスのフリをしてたのは、時間稼ぎの意味もあるの。
今の間に、母が依頼主を殺してる手筈なのよ」
「……なるほどね」
ユナは母親の作戦をざっくりと説明する。
毒殺だ、と言うとイルミは納得したように頷いた。
「それなら、オレも聞いた。
ユナの母親が話してた時からもうだいぶ経ってるし、依頼主が死んでる可能性は高いね」
「うん、だからお願い。少しだけ時間を頂戴。
イルミも一緒に見に来てよ」
「…わかった」
あれ、意外とすんなり聞いてくれる。
やっぱり、イルミ自身も母達の会話を聞いてたのが大きかったのかな。
ユナは少し拍子抜けする思いで、こっち、とイルミを母の部屋へと案内する。
「でも、これだけは言っておくけど」
「うん」
「依頼主がまだ生きていた場合は、ユナがいくら止めても殺るよ」
「…わかってるよ」
仲直りしたのと、仕事の事は別。
私もやるだけのことはやったし、もうこれ以上はどうしようもない。
やけくそとは少し違う、妙な覚悟をして、ユナは母親の部屋を控えめにノックした。
**
「お、お母様、ユナです」
子供の時はしつこいくらいに呼んでいたけれど、こうやって改めて母を呼ぶのはまだ緊張する。
だが、いくら声をかけてみてもノックをしても、返事はない。
不審に思って気配を探ってみたが何も感じられず、まさかいないのかと肩透かしをくらった気分だった。
「いらっしゃらないのですか?
……失礼します」
そっと扉を押し隙間から中の様子を伺う。
すると後ろにいたイルミががっ、と力を入れて扉を押したため、ユナは扉もろとも中になだれ込む形になった。
「ちょっと!」
「ユナ、死んでる」
「え?」
「オレの依頼主は死んだ。
でもたぶん、ユナの母親も」
は………?
イルミの言ったことが信じられず、ぎこちない動きで母の姿を探せばソファーの奥。
母と叔母は口から血を吐き、折り重なるようにして倒れている。
カーペットに染み込んだワインの色が乾いて茶色くなっていた。
「な、なんで………」
「部屋を開けた瞬間、僅かにだけど隙間から毒の匂いがしたんだ」
「そ、そうじゃなくて、なんでお母様まで死んでるの…?」
「さぁ、向こうも殺そうとしてたとか?」
へなへな、とその場に座り込む私を置いて、イルミは二人の死体、それから残ったワインを確認する。
グラスに付着してるワインと、ボトルに残っている分。
傾けて指を少し濡らすと、何の躊躇いもなくペロリと舐めた。
「うん、毒の種類が違うからおそらくそうだね」
そこからイルミはまるで探偵のように、自分の推理を話してくれた。
きっとそれは、私がなんで?と聞いたからかもしれない。
けれども実際、今の私がそれを聞いたとしても、素直に受け入れられるわけがなかった。
「依頼主─つまり叔母だね─が持ってきたワインには、当初毒は入ってなかったらしい。
だからユナの母親はそのボトル自体に毒を入れ、自分は先にその毒の解毒剤を飲んでおいた。そして、怪しまれないように叔母にワインを自分で注がせたんだろう」
「……」
「叔母自体は自分で持ってきて自分で注いだワインだから疑わない。
だけど、ユナの母親は計画通りすぎることに油断していて、自分のワイングラスに別の毒が盛られたことに気づかなかった。
お互いがお互いのワインのみに毒が入ってると思い、そのまま乾杯した。……こんなところかな」
淡々と語るイルミは、流石死体慣れしているというところか。
ユナだって、今更死体の一つや二つで大騒ぎするつもりはない。
だけど、母親が死んだということに対してはかなりショックが大きかった。
「でも、これでネイビスは殺さなくて良くなったね」
「……イルミ、やめて。お母様が死んだら、もうネイビスなんてどうだって……」
「ごめんね、ユナ。
オレは今、ユナが可哀想って思う反面、ちょっとホッとしてる」
彼はゆっくりこちらに近づくと、座り込んだままの私を包み込むように抱きしめる。
抵抗する気にも怒る気にもなれなくて、ただされるがままになっていた。
「泣かないの?」
「…わかんない。涙が出てこない」
別に母は誰に殺されたわけでもない。
いや、イルミの推理が正しいならば叔母に、となるのだが、事実母が叔母を殺そうとしていたのを知っているだけに自業自得のようにも思える。
呆気ない。ひどく呆気ない。
私の欲しかった物は、いとも簡単に私の手からこぼれ落ち、最後まで手に入らないままだった。
「イルミ………私はね、家もだけど本当は母が大事だったの……お母様に愛されたかった。暖かい家族が欲しかった」
「うん」
「だけど初めから、うちには暖かい家族なんてなかったんだね……叔母を殺そうと決めた時の母は悪魔に見えた。
私だけに対してじゃなかったんだって思った。
私の憧れた家族像は、もとからこの家には存在しなかったんだよ……」
無いものをいくら求めても、手に入るわけが無い。
そんなものに今まで心を砕いて、縛られて続けてきたのかと思うと、ひどく自分が情けなくて、虚しさに襲われる。
背中をさすってくれるイルミの手だけが、とても暖かく感じられた。
「私馬鹿だ………」
「気づくのが遅いよ」
「うん……馬鹿だ、ほんとに馬鹿だ……」
はらり、と溢れた涙は母の死を悼むものではなく。
薄情な娘かもしれないが、色んな感情が相まって涙が後から後からあふれてくる。
ユナが泣いている間、イルミはひたすら何も言わずに抱きしめてくれていた。
ただ傍にいてくれる、ただそれだけのことでどんなに慰められたか。
「帰ろう」
ひとしきり泣いて、倦怠感すら感じ始めた頃、イルミはそっとユナの手を取り立ち上がらせた。
「ユナには帰るべき場所がまだあるだろ。
それに、これからは二人で家族を増やすことだって出来る。
ウチは普通じゃないから、ユナの思うような暖かい家庭かどうかはわかんないけど…愛情だけは注ぐから」
「……うん、ありがと」
─イルミと結婚してよかったよ。
そう言って微笑めば、彼はちょっと困ったような顔になった。
だから、なんで困ってるの?と聞くとますます眉を寄せる。
「別に、困ってないよ」
「じゃあなんでそんな顔するの」
「……ユナがそんなこと、言うと思わなくて」
イルミにしては珍しく歯切れの悪い回答に、さては照れてるのかと思った。
相変わらず感情がわかりにくいし不器用だけれど、一番私のことを愛してくれていることだけはわかる。
「前も言ったと思うけど」
「今回のはなんか違った」
「イルミ、照れてるんでしょ?」
「……照れてない」
口ではそう言いつつも、目を合わせないイルミが愛しくて。
どうやら私の欲しかったものは、案外と近くにあったようだ。
「これから私の一番はイルミだよ」
「………」
「やっぱり、照れてるでしょ」
「照れてないよ」
帰ったらお仕置きが待ち受けていることなんかすっかり忘れて、ユナはこれから彼と頑張って行こうと決意を固めた─。
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