■ 42.伸ばした手
「ゾルディックの情報………」
母から告げられた言葉が信じられなくて、ユナは馬鹿みたいに繰り返して呟いた。
今までだって、仕事を頼まれたことぐらいある。
たとえ、それがどんなに難解な依頼でも危険を伴う内容でもユナは二つ返事で請け負ってきたし、それが当然だとすら思っていた。
だけど、今回は……
今回だけは。
素直にはい、と言うことができない。
今更ゾルディックを裏切るなんて、そんなことユナにできるはずもなかった。
「不可能ではないでしょう?」
「………」
ゾルディックに来る依頼を管理しているのは主に次男のミルキだ。
大きな依頼であれば、当主じきじきに判断を下すこともあるが基本的には彼が皆のスケジュールを決めている。
あとはイルミが自分で個人的な依頼を受けたりもしているようだったが、それすらもユナにとって調べるのは『不可能』ではなかった。
「…ゾルディックを裏切れとおっしゃるのですか………?」
「裏切る?」
「情報というものはとても大事な物です。
暗殺対象が先にバレてしまえば、いくら彼らでも危険でしょう。
私がそんなことをしたら……」
一人一人はとても強いゾルディック家の人間だが、それでもなお厳格に情報を管理し、外敵を寄せ付けない堅牢な屋敷に住むのはそういう意味である。
もしも個々の念や能力の情報が流出してしまえば?
恨みなら嫌と言うほど買っているのだ。
ゾルディック家の人間に復讐するため、制約や誓約に縛られた強大な念を持つ能力者が現れるかもしれない。
そして漏れる情報が多ければ多いほど、その念は対ゾルディック用へと強化される。
簡単に寄越しなさい、と母は言ったが、実際にはとんでもない仕事だった。
「ゾルディックがダメになったら、またウチに帰ってくればいいだけのことでしょう?」
「それはどういう……?」
「裏切ったなんて思う必要はないのよ。
貴女は元々『ウチの子』なんですから」
ウチの子、と言う言葉に大きく心が揺れる。
そんなこと今まで言われたことなかった。
人一倍実家に縛られながらも、一度としてそこに属することを許されなかった。
「いいわね?
貴女は何としてでも、情報をこちらに流すこと」
「………」
こちらの返事を待たずに切れる電話。
都合が良すぎる。
利用されてるんだってわかってる。
だけどこんなにも心動くのはどうしてだろう……
せっかく二兎を追えと言われたところだったのに、やっぱり選ばなくてはならないの?
ユナは呆然とした表情で携帯を見つめる。
だけど、やっぱりこればかりは流石に引き受けられない。
情報屋としてではなく、人としてこんなことはしたくない。
見つめていた携帯の画面が、再び明るく灯った。
それから遅れて着信音。
「もしもし…」
「ユナ、ごめん…頭冷やした。
…帰ってきて」
こんな時に貴方の声を聞いたら、やっぱり泣きそうになる。
私が本当に帰るべき場所は一体どこにあるのだろう。
**
だが実際、帰ってきてと言ったわりに、イルミはずっと無言だった。
部屋に入るとぱっとこちらを見たものの、私がただいまと言っても返事がない。
何かを言いたそうにその唇は動いたが、結局言葉は紡がれぬまま。
彼は目を逸らし、ユナもユナでそんな彼にどう接したらいいのか迷った。
「イルミ……あのさ」
さっきのこと気にしてないよ。
たぶん、彼が柄にも無く落ち込んでいるのは私に怪我をさせてしまったから。
だからそう言ってあげるのが普通なのかもしれなかったが、果たして今のユナにそんなことを言う資格があるのか。
そもそも、イルミを傷つけてしまって気にするべきは私の方。
なに?と視線だけで問いかけてきたイルミを見て、ユナは咄嗟に違う話題を口にし
た。
「私も、私なりに考えてみたんだけど、今度どこかに旅行行かない?
一度ゆっくり、イルミと二人で過ごした方がいいと思うんだ」
「旅行………」
「うん。思えば二人でちゃんとした旅行なんて行ったこと無いでしょ?
場所が変わったらいつもと気分も変わるかも」
ユナの提案に、イルミは少し黙り込んだ。
考えているのか、その視線は床に落とされる。
その沈黙すらも、辛いと感じてしまった。
「……ごめん、仕事立て込んでてさ。
しばらくは行けないと思う」
「そっか……そうだよね。
私こそごめん、いつでもいいよ」
「うん……」
イルミはひたすら目を合わせない。
やっぱり、頭冷やしたなんて言ってたけど、まだ自分で納得出来ていないんだろう。
だけど今は母からの依頼の件もあって、ユナ自身も非常に不安定な状態。
自分がずるい女だとはわかってても、今こそイルミに抱きしめてもらって「ユナの居場所はここだよ」と言って欲しい。
ユナはゆっくりとイルミに近づくと、彼に向かって手を伸ばした。
温もりが欲しい。
こっちを見て欲しい。
だが、そんなユナの思いとは裏腹に、手が頬に触れるか触れないかというところでイルミはさっと後ろに身を引いた。
「ごめん、また仕事だから……」
まさかかわされるとは思ってもみなくて、平気なふりする余裕がなかった。
伸ばした手を所在なさげに下ろし、ユナは今更微笑を浮かべる。
ショックだった。
いつも自分がしていることなのに、イルミにされるとちくりと胸が痛んだ。
「……気をつけてね」
小さく頷いたイルミは、私の横を通り過ぎていく。
その時に彼の髪の香りがふわっと漂って、なんだか無性に悲しくなった。
**
ユナがちゃんと帰ってきてほっとした。
見知った気配が近づいてきているのはわかっていたが、それでもやっぱりこの目でその姿を見るまでは落ち着かない。
ただいま、と言った彼女におかえりと言おうとしたが、その瞬間彼女の腕に巻かれた包帯が目に入り、口をつくんだ。
気まずい沈黙。
どこかぎこちない態度のユナは、やっぱりオレのことを怖いと思っているのかな。
謝ることに意味はないとヒソカに言われてしまったが、かといって何事もなかったかのように振る舞えるほどイルミは器用な人間ではなかった。
「イルミ……あのさ」
沈黙に耐えかねたのか、話しかけてきたユナに視線だけで返事をする。
躊躇いがちに話し出した彼女の話は旅行に行こうという内容で、いつもの彼女なら絶対言い出さないことだ。
気を遣ってくれているんだろう。
だけど、逆に彼女に気を遣わせている自分が情けないと思ったし、何よりそんな旅行くらいでうやむやにしていいことではないと思った。
「ごめん……仕事が立て込んでてさ。
しばらくは行けないと思う……」
「そっか……そうだよね。
私こそごめん、いつでもいいよ」
困ったように微笑む彼女。
あぁ、また気を遣わせてしまっている。
でも今はとてもじゃないが、そんな気分ではなかったのだ。
イルミが再び自分を責めていると、ゆっくりとユナが近づいてくる。
本当は今すぐにでも抱きしめたい。
抱きしめて、閉じ込めて、どこにも行かないように。
オレだけしか見れないようにしたい。
だが、きっとそれではいつまで経っても彼女の心を手に入れることはできないのだろう。
そしてそうなればいつかまた、オレは彼女を傷つけてしまう。
伸ばされた手が触れるか触れないかの所で、イルミは後ろに身を引いた。
─しばらく彼女に触れるのやめたら☆?
ヒソカの言ったことが頭によぎって、ほとんど反射的にかわす。
「ごめん、また仕事だから…………」
びっくりしたような彼女の表情が次第に切ないものへと変わっていく様を、見ていることは出来なかった。
「……気をつけてね」
それでもまだそう言ってくれる彼女にせめて小さく頷いて。
隣を通り過ぎながら、心の中で彼女に謝った。
ごめんね。
今のオレは自分の感情をうまく扱えない。
だから、こうでもしないとまた君を傷つけてしまうかもしれないんだ。
お願いだから……
嫌いにならないで………
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