- ナノ -

■ 41.裏切りの影



オレ……とうとうやっちゃった。

見慣れたはずの赤く染まった手を、イルミはぼんやりと見つめる。
彼女の居なくなった部屋は、やけに広く寂しいように感じた。

ユナを傷つけるつもりなんて全くなかったのに。
怯えた彼女の瞳が、目を閉じても浮かんでくる。

本気で嫌われたかも。

体ばかり重ねて、心の方も重なってる気になっていた。
愛し方がわからない。
好きだよと何回伝えれば、本当のことだと証明されるの?
何度交わっても伝わらないなら、オレはどうすればいいの?

─わかってる、イルミはそのために結婚したようなものだしね

わかってないよ、ユナ……
何一つわかってない。
確かに初めは結婚なんてどうでも良かった。
いつでも、誰とでも
何のためでも。
だけど、今はそうじゃない。
ユナだからこそ、こっちを見て欲しかった。
関係ないだなんて思って欲しくなかった。

でも、あの様子じゃまだユナはオレの物にはなってない。

─手に入らないのならいっそ、殺してしまおうか。

何かがそう囁いた気がした。

そしてイルミは乾き始めて茶色くなった血を見ながら、自嘲めいた笑みを僅かに浮かべる。

頭を冷やすんじゃなかったっけ……。



**


携帯が着信を知らせる度にどきりとする。
ヒソカは番号を見て、かけてきた相手がわかると一瞬顔を歪めた。
とはいえ、ヒソカに電話をかけてくるような物好きはかなり限られている。
蜘蛛での仕事以外なら、イルミくらいしかいなかった。

「やぁ、キミからかけてきてくれるなんて珍しいねぇ💓」

時間的にユナとはもう会ったはずだ。
だけど、彼女が自分から不利になるようなことを言うわけがないし、イルミはヒソカの嘘の依頼に振り回されていたのだから彼女の不在を知るはずもない。
それなのに、向こうから電話をかけてくるなんて、何かあったのか。

なかなか話しださないイルミに、ヒソカは平静を装って「どうしたんだい★?」と訊ねた。

「ねぇ…謝るときってどうすればいい?」

「え?」

唐突なことを言い出すのはいつものことであるが、今回ばかりはヒソカも予想外で思わず聞き返す。

イルミが謝る?
誰に?と考えて、すぐに答えは出た。
けれどもその理由がわからない。
どちらかといえば謝るべきはユナかヒソカの方だったからだ。

「…何をしたんだい☆?」

真面目にこの質問に答えるとしても、理由がわからなければアドバイスのしようもない。
というか、謝るということは今現在ユナが怒っているということなのだろうか。
ヒソカには常に冷めた感じのある彼女が本気で怒っている様子など想像もできなかった。

「………傷つけた」

「それは……………
物理的に、ということ★?」

イルミの言葉は確かにキツいがユナに対して言うとは思えないし、彼女なら傷ついたとしても上手く誤魔化すだろう。
抑揚のないはずのイルミの声が、ワントーン下がったような気がした。

「……物理」「彼女は無事なのかい?」

「一応ね」

イルミの一応がどの範囲をさすのかはわからないが、こうしてまだ電話をかけてくるだけの余裕はあるのだろう。
ヒソカはそれを聞いてふう、と脱力した。

「まぁ、キミにしてはよく耐えたほうだね💛」

「人を短気みたいに言わないでくれない?
でも……ユナ怯えちゃって…それでちょっと今頭冷やすからって出て行ってもらったんだよね」

「へぇ………☆」

イルミが何をしたのかは知らないが、彼女が怯えたのは少なからずヒソカの言った言葉のせいでもあるのだろう。
本当にこのままだといつかイルミはユナを殺しかねない。

さて、どう誘導するべきか。
ヒソカは内心、こうして相談することの出来るイルミのことをとても羨ましく思った。
自分はどんなにユナのことを想っていても、決してイルミに言うことはできない。
そして、彼ばかりがユナのことを話すのが許せなかった。

「謝るって言ってもさ……キミ、繰り返さない自信あるの★?」

「………」

「そんなその場しのぎで謝ったって仕方ないんじゃない💓?」

根本的な所を解決しない限り…とはいえ解決しなくてはならないのはユナの方だが、謝ることに意味はない。
ふと、意地悪な気持ちが胸の中で渦巻いた。
いつものからかうような楽しさは全くない。
純粋にイルミが憎くて、ずるいと思って、ヒソカはーつ提案をした。

「しばらく彼女に触れるのやめたら☆?」

「…触れるのを、やめる?」

「そ。感情も制御できないんなら、傍にいる資格ないよキミ。
闇人形としてもどうなの?自分のことすらコントロール出来てないってのは💛」

言葉は簡単に人を傷つける。
イルミがユナに何をしたかは知らないが、もしかすると今のイルミの方が心が痛いかもしれない。
それでも、ほんの少しでも、ユナからイルミを離せるのなら良いと思ってしまった。

「オレ………うん、そうかも………。
ユナが来てからオレおかしいよね」

「……あぁ、そうだね💓」

キミは変わり始めてる。
それはきっと、周りから見ればいい方向に。

だけどボクは嫌なんだ。
当たり前のようにユナを手にしているキミが
当たり前のようにユナと一緒にいるキミが
すごく、嫌なんだ。

そして、楽しむわけでもなく酷いことを言った自分のことも、らしくなくて嫌だと思った。


**



クロロになんだかんだで励ましてもらった帰り道。
イルミからの連絡はまだない。
少し、ってどのくらいか聞けばよかったと後悔しつつも、ユナは今の間に実家に電話をかけてみようと思った。

プライベート用のは壊してしまったから、仕事用の携帯を取り出す。
いや、最初から仕事でしか連絡したことないのだから、こっちで合っているのだ。

外はすっかり日が暮れていて、もう人通りもまばら。
今朝訪れたばかりの公園にまたやってきて、ベンチに腰掛けた。

「もしもし」

「…ご無沙汰しております。ユナです」

精一杯感情を殺して名乗ろうとしたが、声が震えてしまっている。
久しぶりに聞いた母の声は相変わらず冷たかった。

「先程は、電話に出ることが出来なくて申し訳ありません」

「今後こういうことがないように。
それより、そっちでは上手くやってるの?」

「え……」

母が私を気にしてくれている……?
驚きすぎて、すぐには返事ができなかった。
結婚の時だって『ゾルディック』に気を遣えども、私のことなんて道具のようにしが扱ってくれなかった。
それなのに、今回は近況を聞きたがるような母の言葉に、ユナは戸惑いを隠せない。

怖いとも思ったし、嬉しいとも思った。

「…ええ、とても良くしてもらっています。不満はありません」

「仕事のことは?」

「それはまだ……」

言いたいけれど、言えていない。
騙していた期間が長くなれば長くなるほど、スパイだったと疑われるだろう。
ユナが情報屋だったなんて知ったら、あのいい人たちはなんて思うだろうか。

キキョウさん達はまだ嫁として見てくれる?
キルア達はまだ姉と呼んでくれる?
そして、イルミは……
私のことをまだ奥さんだなんて思ってくれる?

こんな仕事もう辞めたい。
もしかしたら今が母に告げるチャンスかもしれない。
内情は決して裕福とはいえない実家のことを思うと気が引けたが、ユナは勇気を出して口を開いた。

「あの、お母様…」

「仕事の事バレていないのね。好都合だわ。
貴女にはまたやってもらう仕事があるの」

ユナの言葉を遮るように、投げかけられた言葉。
いや、そもそもこれは会話などではなく一方的な連絡なのだ。
いつもの癖で口をつくんでしまったユナに、母は事務的な口調でこんな命令を下した。

「ゾルディックの情報をこちらへ寄越しなさい。
暗殺対象、仕事の内容くらい貴方なら調べられるでしょう」

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