■ 40.二兎を追うもの
「もしかしたらしばらくここ借りるかも」
「はぁ?」
突然電話で呼び出したのにも関わらず、ちゃんと来てくれたクロロは実はとてもいい奴で、実はかなりの暇人なんじゃないだろうか。
ここは、前にイルミと共に訪れたクロロの仮のマンション。
パドキアからは少し離れているものの、団員に邪魔されず話が出来るのはここくらいだ。
どうやらイルミがぐちゃぐちゃにしてしまってから使っていないようで、中はあの時のままだった。
「急に相談があると言ったり、ここを貸してくれといったり、お前は一体なんなんだ」
今日のクロロは髪を下ろしたオフモードで、こうして見てるとただのお人好しのお兄さんだ。
ユナは色々あって…と肩をすくめた。
「とりあえずこれ、無茶言った分の先払い」
「これは……おお!
俺の好きな洋菓子屋のプリンじゃないか」
「うん、それからこれ。
前の本の下巻も、いらないからあげる」
「……本当にいいのか?」
「うん」
これでも、ギブアンドテイクの方針は気に入ってるつもり。
後腐れなく相談したいし、真剣に話を聞いて欲しかった。
「……貰ったからには仕方ないな」
「そう言ってくれるの、期待してた」
「相変わらずな女だな」
少し笑って、諦めたのかクロロは半壊したソファに腰を下ろす。
それから「コーヒー」とはっきりと発音した。
「入れろって?
……豆ある?」
「へぇ、そこは素直に入れてくれるんだな」
「一応ね……あ、でも入れ方わかんない」
立ち上がってキッチンに向かったまではいいものの、コーヒーメーカーの使い方がわからなくて音をあげる。
結局クロロはため息をつくと、自分もキッチンにやってきた。
*
「コーヒー1つ入れられないようでは、嫁失格だな」
「今までやる機会がなかっただけだよ。
教えてくれればやるから、ほらどいて」
ちょっと気分を害した風に、ユナは音を立ててカップを取り出す。
確かに、ゾルディックの家では自分でコーヒーを入れることなどないのだろう。
もしかして教えるより自分でやった方が早いのでは、とも思ったが、ユナがうるさいのでやらせることにした。
「こんなのでいいの?」
「まだ触るなよ。
じっくりコーヒーが落ちてくるのを待て」
「なにこれ時間かかる、めんどくさ」
彼女はふぅ……と脱力するとカウンターに手をつき、眉をしかめた。
「それ、自分か?」
「……まさか。イルミだよ」
乾いて茶色になった血痕が、その包帯の下の傷の深さを物語っている。
クロロは少し話が見えてきたな、と溜まってきたコーヒーの深い色合いを眺めた。
「結婚してない俺がお前にアドバイスできるとは思えないが………そうだな、DVはれっきとした犯罪だ」
「盗賊に言われたくないよ。
イルミのはただ……愛が歪んでるだけ…」
「ほう……」
なんだ、そこはちゃんとわかっているのか。
それならば相談内容とは何だろう。
まさか、こういったDVをやめさせたいという内容なら、そもそもここへ来ること自体が間違っている。
ユナは出来上がったコーヒーをカップに注ぎきるまで、ずっと無言だった。
「確かに……イルミのしたことは行き過ぎてると思う。
だけど、わざとじゃないみたいだったし、自分でもショックを受けているようだった」
「お前な……無自覚の殺意ほど危険なものはないぞ?」
「それは…そうだけど……」
カップになみなみと注がれたコーヒーは色だけでいうなら合格点。
というか、そもそも用意した豆が最高級品だ。
クロロはブラックのまま、躊躇うことなく一口飲んだ。
「でも私が悪いんだよね、イルミの気持ちに正面から向かい合えないんだもの。
もちろん好きなんだよ?大事なんだよ?
でもどうしていいかわからなくて今のままじゃ……」
「不味いな」
「そう、非常にまずいの今の関係は……ってコーヒーか。
クロロ真面目に聞いてよ」
「聞いてるさ」
一体どうやったらこんなに不味いコーヒーを入れられるんだ?
材料も器具もこだわり派のクロロは一流のものを揃えているし、やり方だって今教えたところなのに。
つられて一口コーヒーを飲んだ彼女も、「不味い」と渋い顔になった。
「うん……そう、コーヒーのことはどうでもよくて……そうイルミ!
私どうしたらいいかな?
子供産めばいい?そうしたらイルミは納得してくれるかな?」
「ぶっ!」
ユナの明け透けな物言いに、不味さの原因を解明しようと再度トライしていたクロロは、行儀悪くも吹き出した。
「うわ、クロロ汚い」
「……ま、まぁ確かに、子はかすがいとも言うしな。
お前の言ったそれは手っ取り早い方法かもしれない。
だが、そもそもお前がイルミの気持ちに答えられない理由があるはずだろ?
そこをまずは考えてみたのか?」
「……」
クロロは残ったコーヒーを流しに捨て、新しく自分でセットし始める。
ユナは言おうか言うまいか、迷っている様子だった。
「そもそも私が結婚したのは……家のためなの」
「政略結婚と聞いてるからな。
多かれ少なかれそんなとこだろう」
クロロからしてみれば、政略結婚の割に二人は上手くやっているように見えていた。
特にイルミの性格から考えて、ここまでユナに執着するとは予想もしてなかったのだ。
─人間って変われるものなんだな
最近ではそういう風にすら、感じていた。
「たぶんね、まだ私の中で『家』はゾルディックじゃなくて『実家』なんだよ。
だから、一番にイルミを優先できない……」
「実家とまだそんなに関わりがあるのか?」
「うん……ちょっとね。
実家のことで、イルミに内緒にしてることがあるの」
ユナは視線を落としたまま、ため息をつく。
そこまでわかっているのなら、もう後は簡単だろうに。
というか、できることなんて限られているだろうに。
新しいコーヒーの香りを楽しむように、クロロは少しカップを揺らした。
「つまり……お前が悩んでいるのは『実家』と『イルミ』のどちらが大切か選べないということか?」
「え……ああ、そっか、私……」
「お前の言ったようにそんなに『実家』が大事なら、悩む必要はないだろう?
悩むということは、確実にお前の中でのイルミの存在が大きくなりつつあるということだ」
「そうかも……」
無意識なのか、包帯の上から傷口を握り締めるユナの表情は辛く苦しそうであった。
*
私、知らず知らずのうちに、イルミのこと大事に思ってたんだ……
クロロに言われてようやく気づけた自分の気持ち。
多少強引にでも、クロロに相談してみて本当に良かったと思う。
だが、結局のところどちらを選ぶかに決着をつけなければ何も進展しないことは明白だった。
「クロロはね、欲しいものは奪ってでも手に入れるんでしょ?」
「あぁ、そうだな」
「じゃあ、その欲しい物が実体を持たないものだったらどうするの?」
例えば愛とか自由とか。他人からの評価とか。
そんなものは誰から奪えばいい?
というか奪うことが出来るのか?
形を持たない以上、奪った気になっているだけじゃないのか?
ユナの質問に、クロロは随分と哲学的だな、と苦笑した。
「…お前は1つ大きな勘違いをしているようだが、他人から何かを手に入れるときに取る手段は『奪うこと』だけではないだろう」
「え…?」
「俺がそんなことを言うと意外に思うか?
だが、強奪には力が必要とされるし、俺だって昔から強かったわけじゃない」
確か、蜘蛛のメンバーは大半が流星街出身だと聞いたことがある。
だからきっと、結成時から変わらず団長をやってきた彼も、昔は苦労してきたんだろう。
クロロは顎に手をやると、言葉を選ぶように何もない虚空を見た。
「つまりな、欲しいものを手に入れるためにはまず、一番最初に自分が変わらなければならないということだ。
……特に、お前望むようなものを得るにはな」
「……変わる」
私は変われるだろうか。
そして変わった先にあるものはイルミなのか実家なのか。
「ねぇ、結局どうしたらいいのかわからないんだけど」
「ちょっとは自分で考えろよ」
クロロはようやく新しいコーヒーに口を付けると「美味いな…」と洩らした。
「二兎を追うもの一兎をも得ず。
それは単なる実力不足のいい訳だ。
確かに一方を諦めるというのも、時には正しい判断かもしれない。だが」
クロロはそこまで言って、ニヤッと悪戯っぽく笑ってみせた。
「覚えておけ。初めから二兎を追おうともしない奴に、二兎が手に入ることは絶対にない」
お人好しのお兄さんはどこへやら、そこには団長としての顔を持ったクロロがいた。
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