■ 39.傷つく体、傷つく心
「そういや、プリンといえばクロロだね。最近会ってないな…」
これは何気なく呟いた言葉。
謎のプリンパーティも無事にお開きとなり、各々自室や訓練場へと向かう道すがら、ユナがふと思い出して言った言葉だった。
「クロロ?
……なんでユナがクロロの好物知ってるわけ?」
だが、耳のいいイルミがユナの些細な呟きを聞き逃すはずもなく、横目でぎろりと睨まれた。
「え?だってこの前イルミとクロロのマンションに行った時にさ、冷蔵庫の中プリンだらけだったじゃない」
「…本を借りに行った時?
そんなのオレは覚えてないな。
ま、覚える必要もないってだけだけど」
理由は分からないが、プリンパーティ後のイルミは機嫌がよろしくない。
もしかして無理やり食べさせたけど、イルミもプリン嫌いだったのかな。
まぁ、確かにイルミが甘党なんて風にはちっとも見えないけれど………。
そんな見当はずれなことを考えつつ、二人で戻った自室。
「もういいでしょ?」
「え、イルっ……?!」
部屋に入るなり、待ちきれないとばかりにイルミはユナをソファへと押し倒した。
「イルミ怒ってるの?」
「オレが?何に?別に怒ってないけど」
今度ばかりは抵抗する間もちょうどいい理由もなく、ユナは簡単に組み敷かれる。
イルミは上からこちらを見下ろすと、少し掠れた声で囁いた。
「ユナとの、子供が欲しい」
からかうわけでも冗談を言うわけでもなく、真剣にそう言っているのは雰囲気でわかった。
甘いムードの中の戯れ言とは違う。
どちらかといえば、プロポーズに近いようなその響きに、ユナは茶化すのはやめ、彼の瞳を見つめかえした。
「……わかってる、イルミはそのために結婚したようなものだしね」
ゾルディックにとっての嫁は、強い遺伝子を残す道具。
だからこその政略結婚であり、ユナも最初からそれはよく理解していたつもりだった。
だが、
「違っ…!」
「え?」
「そうだけど、そうじゃない……」
イルミの瞳は傷ついたように大きく揺れる。
彼はプロの暗殺者だ。
普段からポーカーフェイスで、動揺しているところなんて滅多に見たことない。
それなのに、どっちなの?と言いたくなるようなそんな曖昧な事を言って彼はユナの首筋に顔を埋めた。
「そうじゃない……そうじゃないんだ」
「イルミ?」
「ユナはそんな風に思ってたの?」
ぎゅう、と痛いほどに腕を掴まれ、ユナは思わず悲鳴をあげそうになる。
長い爪が遠慮もなしに突き刺さり、傷口がじんじんと痛んだ。
「イルミ!痛い!痛いよ!」
「ねぇ……オレはどうしたらいい?」
「何を?まず離して!血、血が出てる!」
ユナは暴れたが、イルミは気にした素振りもない。
というか、聞こえてないみたいだ。
どうしたらいい?と彼にしては珍しく弱気な発言をしたまま、顔をあげてこちらを縋るように見つめてきた。
「わからないんだ…どうしたらいい?
オレはユナの体だけが目当てだと思われてるの?今までオレのしてきたことは少しも伝わってなかったの?
それならどうやったらちゃんと伝えられる?
物?言葉?教えて?
オレに何ができるの?ねぇユナ教えてよ」
「……っ!嫌っ!イルミおかしいよ!
痛い!離して!」
ギリギリと食い込む爪のせいで、今やソファは赤く染まり始めていた。
怖い。
突如として取り乱したイルミが何にそこまで怒っているのか。
いや、そもそも怒っているのかすらわからなくて、ユナは恐怖を覚えた。
「ねぇ、ユナはオレのこと好き?」
「うん」
「『うん』じゃなくて『好き』って言ってよ」
「好きだよ」
「そんな言わされたみたいに『好き』って言うなよ!」
やっと離されたイルミの手は、そのまま私の顔のすぐ横へと振りおろされた。
ギシッと音を立てて凹むソファとその拳の近さに息を呑む。
イルミは酷く苦しそうに眉をよせ、虚ろな瞳でこちらを見据えた。
「だって……今の流れじゃ、どう頑張っても言わされたみたいになるよ…」
言葉の虚しさは、嘘つきの方がよく知っている。
簡単に表現できてしまうからこそそれは酷く不確かなものなのに、人は皆大事な人の言葉だけは信じたいと思っている。
今まではずっとそんな人間の性につけこんで、イルミを欺いてきたのだった。
「…そっ、か…そうだよね……」
イルミの手がすっ、と私の頬に添えられる。
普段ならなんてことないそんな動作にも今のユナは思わず体を強ばらせた。
そしてユナのその僅かな反応を、イルミは見逃さなかった。
「……これ、血が……そうか、オレが……」
「イルミ、しっかりして!
痛かったけど、もういいから…」
「オレ、ユナのこと……
ごめん。ちょっと無理だ………このままだと殺しちゃうかもしれない」
「イ…ルミ?」
そんな物騒なことを言った割に、イルミはどこか悲壮感漂う様子で。
ユナが思わず痛い手を伸ばせば、それはパッと振り払われた。
「頭……冷やすよ……悪いけど一人にして」
「え?」
「ちょっとの間だけでいいから、どっか行っててよ」
思えば、ここまでイルミに拒絶されたのはこれが初めてかもしれない。
ゆっくりと上からどけたイルミは放心状態で、とてもじゃないがかける言葉が見つからなかった。
「わかった……」
「落ち着いたら、電話する……ごめん」
結局ユナはどうすることもできず、逃げるように部屋を後にした。
**
イルミ……どうしちゃったんだろう…
ひとまず腕に包帯を巻いたユナは、血の滲み始めたそれを見てため息をつく。
場所的に手首に近く、これじゃまるで自傷行為でもしたみたいだ。
だが、傷ついたのは私の腕ではなく、どうやら彼の方らしい。
あんなに感情を剥き出しにするイルミは、今まで一度も見たことがなかった。
「私、殺されちゃうかも」
そう明るく呟いてみたけれど、そこに存在するリアリティの重さにどうしても負けそうになる。
だが、怖い、とは思うものの、不思議と嫌だとは思わなかった。
それは、イルミになら殺されていいなんていう健気な愛ではなく、先に私を殺してしまいさえすれば、私の家族にまで害が及ぶことはないだろうという算段で。
ユナはどこまでも変わることの出来ない自分と家族に思いを馳せ、ついでにもう一つ憂鬱なことを思い出した。
それは先ほど、広間でキキョウさんから聞いた家族のこと。
むこうから私に用事があるなんて、おそらく仕事関係に違いない。
たとえそうだとしても…
─あ、そうそうユナさん!
さっき、ご実家からお電話がありましてねぇ!携帯にかけても繋がらないからってことらしいんだけど、後で一応かけ直してちょうだい!!
大事な用事みたいよ!!!
利用されてるんだとしても、それでもよかった。
必要としてくれるなら、私はそれだけでよかった。
─どうしたらいい?どうしたらちゃんと伝えられる?
だから、私にもイルミの質問の答えはわからない。
どうしたら、私はイルミのことだけを考えられる?
どうしたらこの家族から離れることができる?
誰かに相談したいと思った。
私の立場をわかってくれて、それでいて干渉される恐れのない人。
そんな笑っちゃうくらい都合のいい人物は……
「プリン、まだ残ってるかな……」
イルミは嫌がるかもしれない。
だけど、私だって誰かに話を聞いて欲しかったのだ。
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