■ 33.奪われた言葉
「ねぇ、ヒソカ!
ちょ、離してったら!わっ!」
部屋につくなり、彼にしては手荒い動作でベッドに放り投げられる。
離してとは言ったものの、そういう感じで離されても嬉しくないし、何よりまだバンジーガムの拘束は解かれていない。
顔からベッドに沈んだユナはくるりと身をよじって仰向けになった。
「もう、何するのよ!」
ここはヒソカが泊まっているホテル。
もちろん身の危険を感じないわけではないが、彼の唯一とも言える取り柄は『本気でない』ことだ。
あくまで報酬としての彼女ごっこなのだし、きっとまたいつものタチの悪い冗談だろう。
なんとか上半身を起こすと、ヒソカもベッドの上に上がってきて、そのまま見つめ合う形になった。
「…い?」
「え?」
「シャルとは、そんなに仲がいいのかい?」
いつもと違った真面目な口調。
ユナは一瞬、言われた意味がわからず瞬きを繰り返したが、それからすぐに誤解されているのだと気がついた。
「違う!シャルとは別にそういう…」
「ボク、これでもキミには結構尽くしてるほうだと思うんだけどな」
「…それは、感謝してるよ。
だけど私にも都合ってものがあって今日は帰らないと……残りの時間はまた後日ってことで」
ホントにイルミが帰ってきちゃう。
そうなったら仕事のこともバレるし、この状況だけ考えれば、浮気だって言われても仕方ない。
たとえ逆効果になろうとも、「帰らせて」と懇願することくらいしか、ユナにはできなかった。
「ヒソカ……お願い」
「じゃあボクにも正体教えてくれるかい?」
「それは……」
シャルとイルミには直接的な繋がりはないから、顔がバレたってそこまで問題なかった。
だけどヒソカはそうじゃない。
こいつの性格から考えて、黙っていてくれるとも思えないし……
「それは……できない。
仕事にも関わることだから、軽々しくは教えられないよ」
「シャルはいいのに?」
ヒソカの目がすうっと細められる。
ぐい、と顔が近づけられ、ユナは思わず顔を背けた。
「キミはさ、さっき特定の相手がいないって言ったろ」
「ヒソカ、やめて」
「彼氏も旦那もいないんだよね?」
「……やめてよ!」
今やもう、ほとんど押し倒されるような形で、どこにも逃げ場はない。
唯一自由になる足でヒソカの鳩尾を強く蹴ってみたが、彼はわずかに眉をしかめただけだった。
「メリルはそんなにボクが嫌いかい?」
「好きとか嫌いとかそんなんじゃないよ!こんなのっ…!!」
「キミはずるいんだよ、いつもいつも」
暴れる足を押さえつけ、ヒソカはその上に乗る。
これでもう動けない。
だけどこんなのヒソカらしくなかった。
なんだかんだセクハラはするけど、無理矢理だなんてこと彼はしないはずなのに…!
「今だって、はっきり嫌いとも言いやしない。
それともわざとかい?」
ヒソカの顔がすぐそこまで迫ってきているのに、ユナの脳裏に浮かんだのはイルミの顔だった。
「わ、わかった、言うわ!正体なら教えるから!!
私は─」
「やっぱり言わなくていいよ」
塞がれた唇。
続くはずだった後の言葉は、彼の舌に絡めとられて消えた。
「……なんで…なんでこんな…」
ようやく拘束は解かれたのだが、体に力が入らない。
激しいキスだった。
それもあるが、何よりも頭がこの状況に追いついていない。
からかいなのだとしたら、行き過ぎている。
酷い、とさえ思った。
そして、イルミに対してとても申し訳なく思った。
「酷いよ……やめてって、言ったのに……」
たかがキスくらい。
他の人ならそう鼻で笑い飛ばすかもしれない。
だけど、いくらイルミを騙してヒソカと食事に来てたって、それは仕事だったから許せていたのだ。
自分で自分に罪の意識を感じたら、もうそこで終わり。
望んでそうなったのではないとはいえ、裏切るようなことはしたく無かった。
「ヒソカ嫌い。嫌い嫌い嫌い!!」
取り返しのつかない現実に、子供のように喚くしかない。
ヒソカが見ていようがお構いなしに、ユナは手の甲でごしごしと口を拭った。
「なんでこんな…」
「…悪かったよ」
淡々とした口調で、ヒソカはぽつりと呟いた。
それから深いため息をついて、「知ってたんだ」と言った。
「…知ってたって何」
「キミの正体。知ってたっていうか、途中で気づいた」
ヒソカが座った分だけ、ベッドが沈む。
バレてた……?
ユナは驚いて、まじまじとヒソカを見つめてしまった。
「前に、イルミの携帯に出たことあっただろ。
あの時、名乗らなかったボクの名前を『彼女』は言った。
まだその段階では、変だなくらいにしか思わなかったけど、ハニートラップの件とかいろいろ考えて……キミが『彼女』かもしれないと、可能性の一つとして思い当たった」
怪しむべき点はいくつもあったと彼は言う。
やけに早く帰りたがることや、パドキア周辺を本拠地にしてるらしいこと。
でもやっぱり極めつけは、『メリル』の念だった。
「だったら…なんでこんな!
私がイルミの」「言わなくていいって言っただろ」
ヒソカの苛立ったような声に、思わずびくりと肩が跳ねる。
わからない。
いつものヒソカじゃないから、私にはどうすればいいのかわからない。
黙り込んだユナを彼は横目でちらりと見て、それからふっと口元だけで笑った。
「直接キミの口から答えを聞いたら、ボクは手を出せなくなる。
下らないって、キミなら笑うだろうけど」
「ヒソカ……」
笑うべきは貴方の方。
いつもみたいに、あの腹の立つ嘘っぽい笑顔を浮べればいいのに。
不覚にも少し同情しかけた自分に気づいて、ユナは慌ててもう一度口を拭った。
「ねぇ、ヒソカってもしかして私のこと好きなの?」
まだ半信半疑の状態だが、一応確認。
ヒソカはその質問に目を見張ると、わかりやすく項垂れた。
「キミって……はぁ、もう……嫌になるな」
「あ、嫌いになった?」
「好きだよ」
先程までの甘さもシリアスさもなく、簡潔に告げられた気持ち。
だからこそ余計に本気なんだなって伝わった。
「信じてくれないだろ」
「いや……信じる。信じるけど…」
私、結婚してるんだよ?
それも、あのイルミと。
ヒソカは好きになる相手を間違ったと思う。
というか、手に入らないからこそ欲しがってる部分があるんじゃないかな。
ユナが続きを言わなくても、ヒソカには十分伝わったらしい。
でも彼はそこでとんでもないことを言い出した。
「でも、もしも今日このままキミが帰らなかったら、ボクにもチャンスが巡ってくるかもしれない」
「え」
「ボクは本気だよ」
突然肩を押され、無防備にもベッドに沈み込む。
正気なの…!?
イルミよりも重いその体は、もちろん
ユナが押し返せるはずもなかった。
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