- ナノ -

■ 27.あなたのことを知りたい



─キス・イン・ザ・ダーク

その名前とヒソカの意味有りげな目つきに、不覚にもドキッとしてしまう。
全部自分で仕組んだ茶番なのに、彼の巧みな話術についつい素で聞き入ってしまっていた。

「へぇ……素敵な名前のカクテルね」

「そうだろう?
君は若くて美しいんだから、まだ落ち着いてしまうには惜しい」

そう言いながら、ヒソカがさり気なく肩を抱いてくる。
瞬間、背中に突き刺さるような視線を感じたが、ユナは振り返らず、代わりにヒソカの手を払いのけた。

「私、今の生活に満足してるから」

「そう?それは今の生活しか知らないからじゃないか?」

ユナはそれには答えず、ご馳走さまと告げて席を立つ。
そろそろ潮時。
この辺でしっかりと断る姿をイルミに見せなくてはならなかった。


「君は……夫を愛しているのか?」

「……っ」

シナリオから大きく外れた質問に、思わずユナは動きを止める。
ヒソカはどういう意図でこれを聞いてきたんだろう。
こんなストレートすぎる質問は口説き文句にすらなっていないと思った。

「……ええ、愛してる」

今はまだ嘘でも本当でもない答えを。
好きかと問われれば迷いなく答えられるのに、愛かどうかはわからない。
愛だとしても、それは親愛であるような気がした。

「そう……声をかけて悪かったね」

ユナはヒソカと目を合わせず、カウンターに以前に飲んでいた分のお金を置くと、逃げるように店を出た。


***



─君は…夫を愛しているのか?

その質問に動きを止めたのは、ユナだけではなかった。
イルミはグラスを持ち上げたまま、驚いている様子のユナを凝視する。

こんなこと、依頼のうちには入ってなかった。
メリルはこちらがハニートラップを仕掛けた本当の理由まで感づいていたというのだろうか。

なんにせよその質問は、今一番イルミが聞いてみたいことで、同時に一番聞くのが怖い質問だった。

「……えぇ、愛してる」

絞り出すように紡がれた言葉。
ねぇ、オレはそれを信じていいの?
じわ、と胸のあたりが熱くなって、でもまだどこか半信半疑で、逃げるように店を出るユナを目で追う。

……今は、声かけられないな
仕事帰りを装ってユナと帰るつもりだったけれど、こんな気持ちじゃ無理だ。
かと言ってメリルに声をかけて、自分の動揺を悟られるのも好ましくない。

「キス・イン・ザ・ダーク」

急ぎすぎた結婚だって、ユナは思ってるの?
暗闇の中でのキスなら、何回だってしただろ?

イルミは依頼を終え店を出ていくメリルの後ろ姿を横目に、仕方なく新しい酒を注文した。


**



ヒソカの馬鹿……なんで急にあんなこと……
ユナは携帯にワンコール入ったのを確認して、かけていた念を解除する。

これであの黒髪黒目の好青年から、もとのニヤけたピエロ面に戻ったことだろう。
ククルーマウンテンへと向かう足を、ユナは無意識のうちに早めていた。

─今の生活しか、知らないからじゃないか?

そんなことない。
私は実家でのあの肩身の狭い思いを知ってるから、今の生活がどんなに恵まれているかわかる。
だからこそこの生活を手放しくたくないと思って、イルミに仕事のことを隠しているのだ。

─君は……夫を愛しているのかい?

……結局、自分のためだ。
政略結婚は親が望んだことだと思っていたけれど、実際のところは自分可愛さにイルミを利用しただけなのかもしれない。
居場所欲しさに愛をうそぶくのは、お金や地位目当ての女たちと変わらないような気がした。

試しの門に着いて、ユナは半ば八つ当たりするように扉を押す。
いつもは猫を被って最低限のTまでしか開けなかったけれど、今日はYまで勢い良く開き、Zの扉が軋んだ。

「……ユナ、様?」

「あ、ただいま帰りました」

驚いて出てきたゼブロを置き去りにして、ユナは暗闇の中を走る。

自分が嫌いだ。
わからないから。
他人の考えてることなんか、もっとわからない。
だからそれを知らなくてもいいように、『関係ない』って切り捨ててきたのに……

イルミもヒソカもなんなのよ…
私を試さないでよ。

自分を嫌いにならなくていいように
これ以上関わらないでよ

**




シャワーを浴び、ベッドに潜り込むと、ユナは早々に部屋の電気を消した。
いつもなら一応はイルミのことを待っていたけれど、今日はどうしてもそんな気分にはなれない。

精神的にどっと疲れたせいか、いつもなら寝ている時間ではないのに、すぐにうとうととまどろみ始めていた。



─夢を見た。
遠い昔の夢。
あの日、まだ幼かったユナは、いくら邪険にされてもそれでも母様が好きだった。

「お母様、お母様、私……」

「騒がしくするんじゃありません」

「ごめんなさい、でもお母様」

「わかったら、あっちにいってなさい」

そう言って背を向けられるだけなら、私はまだ何度だって追いかけることができた。
いつか振り向いてもらえると信じて、すがりつく事が出来た。

だけど……

「お母様、私」

母の部屋の扉を開けて、ユナは固まる。
大好きな母の膝の上に、見知らぬ同い年くらいの男の子が座っていたからだ。

母はちらりとこちらを一瞥すると、また興味を失ったかのように男の子に視線を戻す。
その子こそが家を継げない私の代わりに、親戚から養子にもらわれてきた子だった。

「おかあ……さ、ま?」

男の子の髪を撫でる母の手つきは優しさに満ち溢れていて。
あんな『母の顔』は見たことがなかった。




「……ユナ」

「……ユナ、どうしたの?」

ハッとして目を開ければ、隣にはイルミがいた。
無表情なくせにその瞳はどこか心配気な色を浮かべていて、ユナは慌てて袖で目もとを拭う。

「ごめん……」

帰りを待てなくて。
勝手に泣いてて。
あなたをちゃんと愛せなくて。
色んな意味を込めて謝ったら、イルミは暗闇の中をただぎゅっと抱き締めてくれた。

「ユナ、怖い夢でも見た?」

「いや……ちょっと、昔のこと思い出して…」

イルミの体温に包まれて、なんだかとても安心した。
こんなに優しくしてもらってるのに、私がイルミに何かしてあげたことなんてあったっけ。

ユナがそっとイルミの背に腕を回すと、イルミの腕にも力がこもった。

「オレも家……継がないから、ちょっとわかるよ」

「え?」

「魘されてたこと、実は前にもあったんだ。
その時はいつもユナ、母親に謝ってた」

「……うそ」

自分では全然知らなかった。
イルミは今まで何も言わずに、そっとしておいてくれてたのか。
先ほどとは違う意味で、じわ、と涙が滲んできた。

「ごめんね、ごめんねイルミ……私」

「オレこそ、ごめん」

きっと、彼の『ごめん』はハニートラップのこと。
でも私の『ごめん』はそんな可愛いものじゃない。
イルミは夢の中の母親のように、私の髪を優しくなでてくれた。

「ユナの居場所はここだから。
ユナはもうゾルディックなんだよ」

その言葉は私が一番欲していたものかもしれない。
関係ないって言ってごめん。
情報屋なのに私はイルミのこと何も知らないし、知ろうともしなかった。

もう打ち明けてしまおうか。
何もかも全部話して、謝って、償いたい。
もう一度やり直したい。

イルミのことを……ちゃんと知りたい。

私は意を決して体を離すと、彼の目をまっすぐに見つめる。

「ありがとう……イルミは私のことそんなに考えててくれたんだね…。
私ももっともっと、イルミのこと知りたいし、私のことも知って欲しい…あのね」

「ユナ」

後に続くはずだった言葉は、深い口づけで遮られる。
これから真面目な話をしようと思っていたユナは、突然のキスにされるがままになっていた。

「イ、イルミっ…!?」

「ユナ……可愛い」

ため息をつくようにうっとりとそんなことを言われ、酸欠の頭では展開に追いつけない。

何?何?
今、すごいシリアスだったのにどういうこと、私何かした?

「ねぇ、ちょ、イルミ…待っ!!」

くる、と体が半転させられ、視界には上から覗き込むイルミと天井しか映らない。
彼はわずかに口角をあげると、私の顔にかかった髪の毛を指で払い除けた。

「だって、オレのこと知りたいんでしょ?
いいよ、オレもユナのこと知りたいし」


……ああ、なるほど、そういう意味で受け取られたの…

「違っ、イルミ…んっ!」

結局、彼の綺麗な顔がぐっと近づいて、天井すらも見えなくなった─。

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