- ナノ -

■ 24.好意より愛情を



「は?」

たぶん、これが今までの人生の中で最も驚いた瞬間だったと思う。
急に結婚しろって言われたときだって、もっと冷静に受け止めてた。
一体彼は何を言っているのだろうか。

ユナがぱちぱちと瞬きを繰り返していると、イルミは束ねていた髪の毛をさっと後ろへ流した。

「うん、ちょっとさ、どんな反応するのか見てみたくてね」

「だからって……そんな、奥さんをハメるような真似をするんですか?」

「ハメる?」

イルミの眉がピクリと動く。
これは何か、私がまずいことを言ったみたいだ。

「別にこれはハメるわけじゃないよね?
オレの奥さんがなびかなきゃ、それまでのことなんだし」

「それはそうですけど……え?じゃあ私はどうしたらいいんですか?
仕事としてなら是が非でも奥さんを落とさなきゃならないんですけど」

イルミの目的がわからない。
まさか、浮気現場だとか言って離婚を切り出すつもり?
でも、もしも私がいらなくなったとしたら、彼ならこんなまどろっこしい手段はとらないはず。
事故に見せかけて殺してしまった方が何倍も早いし、実際それは彼にとって容易なことだった。

「うーん、そうだね。
確かにハニートラップって表現は相応しくないかも。
落とせそうなら落としてもいいし、無理なら無理でいい。
さっきも言ったけど、反応が見たいだけだから」

「はぁ……」

私がそんなのに引っかかるわけないのに……
ホントにイルミの考えていることはよく分からない。
ってか、結局引き受けるって言ってないのに、内容聞いちゃってるし。

どーしよ。
しかも最悪なことに、この依頼を遂行するためには「同時に私が二人」存在しなければならない。
うーん、これは本格的にどうしたものか。

「オレの奥さん、なかなか外出しないんだけど、ってかさせないんだけど、そこはオレが上手くやるから。
詳細が決まったらまた連絡する」

「えっ、ちょ……」

「よろしくね」

「……」

ぶわっと広がったイルミの威圧的なオーラにユナは何も言えず黙り込む。
せっかく借りを清算したばかりなのに、また新たに誰かを頼らなくてはいけなさそうだった。


**




「ただいま……ユナ?」

イルミの声が聞こえて、私は慌ててバスルームへと飛び込む。
ホントに間一髪だ。
私も今さっき帰ったばかりだもの。
潜入の仕事の時、そう遠くない限りイルミは私用船を使わない。
何しろ停泊するスペースにも困るし、当然ながら目立ちすぎるからだ。
だからこそなんとか彼より早く帰宅する事が出来たのだが、ドレスは着たまま。
仕方が無いからシャワーコックを片手で捻って水音だけさせつつ、慌てて脱いだ。

「ユナ?」

「ん?あぁ…イルミ、帰ったの」

脱いだ服は能力で見えなくして、とりあえず頭からシャワーの水を被る。
ちゃんと濡れていないと、イルミのことだから平気で扉を開けかねなかった。

「うん、今帰った」

脱衣所までやってきた彼のシルエットが薄ぼんやりと扉ごしに見える。

「おかえり」

「ただいま」

わざわざそれを言うために私を探しに来るなんて子供みたい。
だが、挨拶を済ませるとイルミはそれきり黙り込む。
コーヒスのつけていた香水の匂いも落とさなきゃならないユナは本格的にシャワーを浴びるつもりだったので、いつまでもそこに立たれては気まずかった。

「イルミ……何?」

彼の手がゆっくりと扉の方へ伸びるのを見て、ユナは咄嗟に内側から押さえる。
予想はしてたけれど何普通に開けようとしてるの……堂々としすぎ。
そして、しばらく無言の攻防が続いた後、彼はようやく口を開いた。

「ユナ……どうだったの?」

「今言うの?」

イルミが何のことを言っているのかはすぐに察しがついた。
だけど、今この状況でするような話とは思えないんだけどなぁ。
イルミは無言だったが、明らかに早く言えというオーラを醸し出していた。

「……陰性。
やっぱ普通に体調崩しただけみたい」

「…そう」

少し低くなる声のトーンに若干罪悪感が沸かなかったわけではないが、そもそも仮病を勝手に勘違いしたのはそちらなのだ。
まさか、いないものをいる、とは言えないしね…
ユナがそんなことを考えながらシャンプーに手を伸ばすと、イルミの気配は脱衣所から遠ざかって行った。



**



「あれ、イルミまだ着替えてなかったの?」

シャワーから出ると、まだスーツ姿のままで、イルミかソファに腰掛けている。
彼は出てきたユナをちらりと一瞥すると、目をそらした。

「…イルミ?」

「ねぇ、ユナ」

あれ?これはなんだか怒られるパターンなのかな。
でも子供が出来てないからって怒られても私にはどうしようもないし。
ユナは濡れた髪を乾かす手を止めると、黙ってイルミを見つめた。

「ユナはさ…子供欲しくないの?」

「え…?」

「オレとの子供」

イルミは少し早口でそう言った。
怒りとはまたちょっと違う。
けれどなんだか様子がおかしい。

ここは変にはぐらかすよりも、正直に自分の考えを伝えた方が良さそうだった。

「私は…欲しくないわけじゃないよ。
だけど、それが『今か』って聞かれるとわかんない」

結婚した以上、いつかはイルミの子を産んで当然なんだし、ここゾルディックにおいてはそのための嫁でもある。
それに私はイルミの妻であることに何の不満も抱いていなかった。
彼はちょっと変わっているけれど、なんだかんだ言って優しいし、結婚して良かったなとも思っている。

私の率直な答えに、イルミはしばし瞑黙した。

「……それは、『嫌じゃない』ってこと?」

「うん」

「…そう」

これは嘘じゃない。
決められてることだからって事実を差し引いても、イルミの子を産むことに抵抗はなかった。

「じゃあさ……ユナはオレのこと…」

イルミはそこまで言って急に黙り込んでしまった。

─好き?

そのたった二文字の質問がオレには出来なかった。
たぶん、答えは聞かなくてもわかるから。
もちろん、本人を前に馬鹿正直に答えるかどうかはわからないけれど、きっと彼女の本音はこうだ。

─嫌いじゃない

ユナの態度を見ていたらわかる。
初めに『関係ない』と言った割には、随分と好感を持って接してくれていることも。

だけど好感じゃだめなんだよ。
好感じゃなくて、好意を。
好意じゃなくて、愛情を。
いつの間にかオレが望むものはどんどんと大きくなってたんだ。

だからこそ、『子供ができたかも』って思ったとき、本当に期待した。
女は子供ができると変わるって言うし、子供がオレ達を繋いでくれるだろう…

そう思って喜んだんだけど……

「…イルミ?」

ねぇ、今すぐじゃなくても子供ができたら、オレのこと『好き』になってくれる?
それともユナがオレを『好き』になるなんてことはないのかな?

ユナに呼びかけられて、イルミは自分が途中で質問を止めたままにしてることに気がついた。

「えっと……じゃあさユナ、オレのことは気にしなくていいから、一人で気分転換にでも出なよ」

「気分転換?」

「うん、体調が悪いって言うのは、ずっとひきこもってるからじゃない?」

オレからユナに出かけろなんて言うのはおそらく初めて。
話の流れ的にも無茶苦茶だし、彼女は一瞬きょとんとした表情になった。

「う、うん…イルミが言うなら、そうさせてもらうけど…」

「行っておいでよ」

これから、ユナを試すような事をするけどごめんね。
たけどわかって。
ユナにとって『関係ない』のがオレだけだとは思いたくなかったんだよ。

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