- ナノ -

■ 18.言いつけ



「じゃ、行ってくるね」

「行ってらっしゃい今日は私本返してくるから〜」

「えっ!?」

いつもと変わらぬお見送り。
だが、今にも出かけようとベランダに片足をかけていたイルミは、ユナの言葉を聞くなり大きく前につんのめった。

「ちょ、今なんて?」

「行ってらっしゃい」

「違う、その後」

そのまま黙って出かけてくれればいいのに、イルミはわざわざ体をベランダのこちら側へ引き戻すと眉をひそめる。
けれども今日彼が遠出の仕事であることを知っていたユナは、臆することなく堂々と答えた。

「今日は私、本返してくるから〜」

正直に告白すると、これはわざとやったこと。
前回、本を借りに行ったときに嫌な目にあったので、わざとイルミがいない日に行くことにしたのだ。

「は?そんなこと聞いてないけど」

「だって今言ったし」

「ユナ」

イライラしてます、と言った感じでイルミは私の名前を呼んだが、この程度の反応は予想済みだ。
クロロに会うためにイルミに許可をもらうっていうのは許せても、この前みたいに一緒に付き添われてはやりづらい。
クロロといる時のイルミは常に喧嘩腰だった。

「なんで?今日はオレ仕事だってわかってるよね?」

「うん」

「だったらなんで今日行くとか言うの?」

それはもちろん、イルミがついてくると面倒だから。
……なんて言えるわけもなく、ユナはにっこりと笑った。

「あれ?イルミもクロロに何か用事あったの?」

「オレが?ないよ」

「じゃあなんで一緒に来たいの?」

ユナだって、まったくイルミの気持ちがわからないわけでもない。
そりゃ、彼は私のことをほぼ無力だと思ってるから、一人で蜘蛛になんか行かせるのは心配なんだろう。
だがユナもクロロにバラすつもりはないものの、仕事の都合上、蜘蛛の頭と繋がりを持っておきたかった。

「なんでって……」

イルミは予想通り口ごもる。
キルアに対する態度を見ててもわかるように、この人は「心配だからだよ」なんてさらっと言えるようなタイプではない。
代わりに彼はユナの肩をぐい、と掴んだ。

「とにかく、行っちゃダメだから」

「借りっぱなしはまずいよ」

「……行かないで」

「えっ……」

これは予想外。
怒ったり、脅したりするのならまだしも、懇願されるだなんて……
びっくりして声が出せないでいたユナにイルミはもう一度「行かないで」と言った。

「イ、イルミ どうしたのよ」

「行って欲しくないんだ」

身長こそイルミの方が高いものの、ぱっちりとした大きな瞳で見つめられては思わずその可愛さに屈しそうになる。
目を反らそうにも、がっしりと肩を掴まれているので逃げ場がなかった。

「ねぇユナ」「わ、わかった!わかったから!!」

たまらずユナがそう叫ぶなり、肩に置かれた手は離される。
それからイルミはわざとらしく「あーよかった」と満足げに頷いた。

「ユナが言うこと聞いてくれなきゃ、どうしようかと思ったよ」

「イルミってば…一体いつからそんな……」

「ん?なんのこと?」

首を傾げる様はとても可愛いが、動揺させられたことに少し腹が立つ。
彼は「それじゃ今度こそ行ってくるね」とベランダの向こう側へと大きく跳躍した。

「クロロのところに行っちゃダメだから」

「わかったってば!はい、行ってらっしゃい!」

まったくもう……予定が狂うじゃないの。
ユナは腕組みをすると、さっさと部屋の中へと戻った。






「とは言ったものの、イルミは一週間も帰ってこないわけで……」

ユナは一人になると早速パソコンを開いた。
そして、点灯した画面の前で携帯を取りだし、電話帳からNo.62の相手に向かって電話をかける。
万一、着信名を誰かに見られても、番号で顧客を把握していれば情報は守れるからである。
もちろん、今までの客全員を覚えきれるはずもないから、ユナが自分の携帯に登録するほどの人物など限られているのだが。

「…もしもし」

「あ、もしもしクロロ?」

しばしのコール音の後、耳に心地のよい低音が響いてくる。
彼は少し眠そうに息をついたあと、「何だ?」と尋ねてきた。

「本返す」

「……今からか?」

「うん」

ユナが答えると、電話の向こうのクロロは急だな……と呟いた。

「少しは、俺の都合も考えてくれたっていいんじゃないか?」

「今どこ?遠い?」

「パドキアからなら、飛行船で2日といったところだな」

「それなら間に合う」

ゾルディックには私用船なんてものがあるが、イルミにバレると困るので今回は使えない。
それでも、2日ならなんとか間に合わないこともなかった。

「また保護者同伴か?」

「いや、もう懲りた」

「馬鹿、それはこっちの台詞だ」

前に本を借りに行った時は、本当に悲惨だった。
クロロの持つマンションへイルミと一緒に行ったのだが、器物破損なんて普通にやったし、帰ってからのイルミも随分と機嫌が悪くて苦労したのだ。
だからこそユナは、次に本を返すときは、絶対に一人で行くのだと決めていた。

「だが、それにしてもよくイルミが許したな」

「まぁね。で、場所どこ?」

「それが今は生憎仕事おわりで、俺一人ではないんだが」

どうする?とクロロは聞いた。

「うーん」

どうせ仮だろうが蜘蛛のアジトともなれば、そりゃ他の団員もいるわけで。
イルミが心配していたように、一人で乗り込むにはリスクが高い。
ゾルディックという名前だけで、戦いたがるような好戦的な団員がいては困るのだ。

「でも、仕事はもう終わったんでしょ?
それならある程度は団員もバラけるんじゃない?」

「……まぁな。もともと今回のはそこまででかい仕事じゃないし、お前が着く頃まで残っていそうな団員はシャルとマチと……」

「シャル!?」

聞いたことのある名前に、ユナはぴくりと反応する。
仕事柄、一度聞いた名前は忘れない。
金髪で無駄に爽やかな笑顔を浮かべる青年の顔が、ユナの脳裏に浮かんだ。

「知ってるのか?」

「いや……実家の執事に同じ名前のがいたなと思って」

「なんだそれは……」

呆れたようにクロロは鼻で笑ったが、こちらは心中穏やかでない。
なるほど、盗賊かもしれないという私の予想は、最悪な形で当たっていたようだ。
シャルには私の本当の姿を知られている。
情報屋と知られた今、『ゾルディック家の妻、ユナ』として顔を合わせるわけにはいかなかった。

「そのシャルって子、なんとかならない?」

「なんとか?」

「私、その執事にトラウマがあるんだよね。出来れば会いたくないな〜って」

冗談っぽく笑いながら、空いた方の手でシャルにメールを送る。
件名は『至急。』
次の仕事はタダで引き受けるからと、適当な場所に呼び出す。
結局、私の代わり、という設定で、ターゲット(に私が今決めた人)を尾行してもらうことにしたのだ。

「トラウマって言ったって、別にこっちのシャルとは関係ないんだろ」

「わかった。シャルって子がいるなら、別の日にイルミと出直すね」

「おい、待て」

どれだけワガママなんだよ、とクロロが小さく呟くのが聞こえる。
ワガママで結構。
私には私の都合ってものがあるんだから。

最終的にクロロは「わかった、なんとかしよう」と言って、詳しい現在地を教えてくれた。
シャルがもしも私からの依頼を断っても、これで鉢合わせせずに済む。

「OK!じゃあ2日後に」

「ああ……」

クロロはピッ、と通話が切れたことを確認すると、開きっぱなしだった本にしおりを挟んで立ち上がる。
女に振り回されるのはいつ以来だろう。
熱いコーヒーでも飲みたい気分だ。

「イルミが手を焼くのもわかるな……」

そんな小さな呟きは、クロロが自室から出る際のドアの開閉音に、かきけされてしまった。

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