■ 17.名前
規則的な電子音。
その音にはなんの旋律もなく、ただひたすらに着信を知らせるだけ。
ユナはゆっくりと体を起こすと、まだ寝ぼけ半分でイルミを探した。
「……イルミ、電話なってる」
だが、当の携帯の持ち主は、どうやらシャワー中のようだ。
バスルームから聞こえる水音に、ユナの思考はようやくはっきりとしてくる。
そして、今のこの状況に困り果てた。
……勝手に出るのは良くない…よね?
いくら夫婦の間柄と言えど、プライバシーってものがあるし、実際ユナが逆の立場なら電話に出てほしくはない。
けれどもイルミは仕事が仕事なだけに、急ぎの用事ってこともある。
迷った末にユナは携帯を掴むと、バスルームへと走っていった。
「イルミ!電話!」
扉こそ開けないものの、白く曇った磨りガラスでは朧気ながら肌色が伺える。
そんなこんなしてるうちに着信音が止み、あっと思った次の瞬間、バスルームの扉ががらりと勢いよく開けられた。
「なに?」
「あっ…えっ、携帯……」
なんで堂々と開けるわけ!?
そりゃ夫婦ですけど、そんな全開にしなくたって、顔を覗かせるだけで十分なはずでしょ!!
着信も最悪のタイミングで切れ、目のやり場に困ったユナはしどろもどろになる。
「携帯?」
「う、うん…鳴ってたんだけど今切れちゃった」
「ふーん。出てくれたらよかったのに」
「い、いや、そんな訳にもいかないし」
というか、早くその状態をなんとかしてくれ!
変態の友達と付き合うから、イルミまで移っちゃったんだろうか。
全裸で真顔は反則だと思う…
そして、なんで女の私よりも色気があるのかしら…
ポタポタと髪から滴り落ちる雫が、洗面所に水溜まりを作った。
「てゆーか、なんで恥ずかしがってるの?」
「へ!?むしろ、なんで恥ずかしがってないの?」
貴方がそれを聞きますか?
別にイルミに照れろとまでは言わないが、隠れるくらいの配慮はあってもいいんじゃない?
しかし、ユナの思いも虚しく、彼はきょとんとしたまま首を傾げた。
「だってユナ、夜は普通に」「言わなくていいよ!!」
デリカシーなさすぎ!変態!バカ!
羞恥心からユナがぷい、とそっぽを向くと、不意にイルミに肩を掴まれる。
思わず合った目。
相手の格好のせいだろうが、なんだか妙に意識してしまって、顔が紅くなる。
あれ、なんか……ドキドキしてる?
「ねぇ、ユナ」
「…な、なに?」
ちょっと声がかすれたと思う。
いつもなら、うつ向くことで反らせる視線も、今日はそういうわけにもいかないし。
鼻と鼻がくっつきそうなほどの距離で、イルミの目力を一身に受け止めているしかなかった。
「ス…してもいい?」
「へっ!?」
私がぽかんとしていると、手の中で震える携帯。
ナイスタイミング!
鳴り響いた着信音に、イルミは露骨に眉をしかめた。
「ほ、ほらイルミ、電話だよ」
「出てよ、オレ濡れてるから」
「防水じゃん」
「いいから早く」
そこまでは言われては、ユナも出るしかない。
イルミに見つめられながら、通話ボタンを押すと、おそるおそる耳に当てた。
「も、もしもし?」
『え?あれ?』
「あ、あの、ゾルディックですけど」
相手はたぶん、女が出たからあれ?って思ったんだと思う。
人に会わないせいだけど、ゾルディック、と名乗るなんてこと滅多になくてなんだか無駄に恥ずかしかった。
それにしてもイルミが目を細めてうっすら笑ってるのがムカつく。
『イルミはいないのかい☆?』
「あ、なんだヒソカ……さん、だったの」
うっかり、ヒソカかよと言いかけて、ギリギリのところで誤魔化す。
ユナとして会ったことは1回くらいだし、その時もほとんど口をきいてなかった。
「ヒソカなの?ちょっと貸して」
相手が誰かわかるやいなや、ばっと奪われる携帯。
イルミは濡れた髪をさっと耳にかけると、もしもし?と言った。
『やぁイルミ★そこにいたのかい?』
「うん。で、何?」
『さっきの誰だい◇?』
「ヒソカには関係ないでしょ」
『おやおや浮気なのか◆』
「馬鹿なこと言ってると殺すよ?……ユナだよ」
流石ヒソカ。
わざとイルミを怒らせることでちゃっかりと情報を引き出している。
同じ変化系だからこそわかるが、それでもやはりヒソカの言葉はホントに上手い。
イルミは苛々し始めたのか、早口で何の用?と尋ねた。
『ん〜、やっぱりいいや◇
ごめんね、気が変わっちゃったよ★』
「は?そういうの迷惑なんだけど。気紛れでオレに電話するのやめてくれる?」
あー、ほら、ヒソカが怒らせるから、イルミの周りに禍々しいオーラが見える。
だが、ヒソカはイルミに怒られ慣れているのか、多少キツい言い方をされても全く意に介した様子はなかった。
『お取り込み中だったかい☆?』
「もう切る。じゃ」
イルミはピッ、と通話を切ると、半ば押し付けるようにして私に携帯を渡す。
それから、ぼけっと突っ立っている私に「早くそれ置いてきなよ」と言った。
「え?」
「…してもいいって聞いたよね?」
「ああ……でも私まだいいって言ってないし 」
「じゃあ、オレがしたいからする。これでいいよね?」
真顔でそんなことをしれっと言う彼は、天性の俺様気質なんだと思う。
だが、返す言葉もなくなんとなくで携帯を置きに行きかけたユナだったけれど、どうしても一つだけ確認したいことがあって、足を止めて振り返った。
「ところで、『ス』しか聞こえなかったんだけど何をするの?」
「……」
イルミのもともと大きい瞳が、さらに大きく見開かれる。
それから彼は、そうか両方……と少しだけ悩んで
「どっちも」と言った。
「どっちも?」
「いいから。…すぐにわかる」
「あ、そう」
それなら、まぁいいか。
携帯を置きに部屋に戻ると、後ろからイルミの盛大なため息が聞こえた。
**
「あらら、切られちゃったよ◇」
ヒソカは、ツーツーと無情な音を響かせる携帯電話を、ぽとり、とソファの上に落とした。
素っ気ない通話はイルミにはよくあることだったから、別に気にしてなどいない。
そんなことよりも、電話に出た女の声がどこか聞き覚えがあるような気がしてならなかった。
「……まさかね★」
声が似ていると言っても、所詮は電話越しの声。
しかも電話の音声とはその人自身の声を届けるのではなく、予め何パターンか設定された波長で、本人と最も近いものを流すのだ。
したがって、電話の声が似ているというだけじゃ同一人物かは判定できないし、そのため実際には、電話に出たときに親兄弟と間違われるケースだってある。
ヒソカはうーんと唸りながらトランプを取り出すと、しゅっ、と壁に向かって投げつけた。
―あ、なんだヒソカ……さんだったの
たったの一回しか会ったことがないイルミの奥さんは、ちゃんとこっちの名前を覚えてくれていた。
まぁ自分で言うのもなんだけど、結構インパクトに残るような格好だし、それは別に怪しむことじゃないかもしれない。
ヒソカは彼女が「ゾルディックですけど」という応対をしたときのイルミを想像してぷっ、と笑った。
そしてまた、飽きもせずトランプを壁に向かって投げ続ける。
「名前って大事だよねぇ…☆」
名は体を表すとも言うし、ヒソカ自身たまに偽名を使うこともあるが、そのときはなんだか自分じゃないような気分になる。
何度も同じ場所ばかり狙って投げられたせいで壁の穴は広がり、刺さっていたトランプ達ははらりと床に落ちた。
「名前……」
その光景を見て満足そうに笑うヒソカは、最後の一枚が落ちたところで、ふとあることに気がつく。
「……あれ?そういやボクって名乗ったっけ☆?」
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