- ナノ -

■ 蟻編(レイナとプロヴーダ)

 わたしたちは人間でした。元はみんなそうでした。忘れてしまった人もいるのかもしれないけれど、わたしはしっかり覚えています。
働き者でいつも優しいお母さん。しっかり者のお兄ちゃん。料理の上手な近所のおばさん。

 みんなのこと忘れてません。みんなのことだいすきです。みんなに会いたいです。
でも、わたし、オバケになっちゃったんです。
お兄ちゃんが逃げろって言ってくれたのに、怖くて身体が言うことを聞いてくれなかった。見たこともないオバケとお兄ちゃんの背中から、目が離せなかった。叫べなかった。息ができなかった。

 そうして、みんなにごめんなさいと思う頃には、わたしはオバケになっていました。わたしに何が起こったのかも、お兄ちゃんがどうなったのかも、何もわかりません。ただ、オバケになったわたしはもう、みんなに会えないんだということだけはわかりました。すっかり変わってしまった自分の身体を見下ろして、お母さんに会っても、お兄ちゃんに会っても、誰もわたしがレイナだって気づかないと思いました。気づかないだけじゃなくて、怖がられて、嫌われて、追い払われてしまうことを考えると、オバケに会ったときとおんなじくらい怖くなりました。胸が、ぎゅうっと苦しくなりました。

「心配すんな、オレがついてる」

 オバケになってしまったわたしには、わたしを守ってくれるお兄ちゃんはいません。その代わりわたしとおんなじオバケのお兄さんが、わたしの手を引っ張ってお母さんの村へ連れて行ってくれました。わたしは自分がそうなってからもオバケが怖かったけれど、オバケだってみんなが悪いわけじゃないんだって、そのときはじめてわかりました。
だってきっとこのお兄さんも、元は人間だったんだもの。



「なんで……わかるの?」
「わかるよォ! だってお母さんだもん! レイナのお母さんだもん!」

 お母さんがおかえりって言ってくれたのに、ただいまって言えなかった。次々と溢れてくる涙でよく見えなかった。腕の中は温かかった。息ができなかった。

 そうして、帰ってこられたんだと思う頃には、わたしとお母さんはお互いにごめんねと謝りあっていました。未だにわたしがどうしてこうなったのかも、これからどうしていけばいいのかもわかりません。ただ、わたしがオバケになってしまっても、みんなはわたしを嫌いにならなかったということだけはわかりました。レイナって呼んでもらえるだけで、それだけでもう十分幸せでした。

「みんなで食事にしましょう」

 オバケになってしまったわたしには、わたしを守ってくれるお兄ちゃんはいません。その代わり、わたしはここまで連れて来てくれたオバケのお兄さんの手を引っ張りました。
お兄さんは最初、自分には関係ないみたいな顔をしていたけれど、お兄さんだって幸せになるべきだと思いました。もしかするとオバケのお兄さんは人を傷つけたかもしれないけれど、それでも悪い人ではないと思いました。

「ありがとう。一緒に食べよ……?」

 だってこのお兄さんも、ぽろりと涙をこぼしたんだもの。



 結局、わたしとお兄さんはNGLに残ることにしたけれど、他のオバケたちはトラックに乗ってよそへ行くことにしたそうです。そのときに教えてもらった“死ぬまで死ぬなよ”というおかしな言葉を、お兄さんはとても気に入ったみたいでした。

「そうだよなァ、こんな身体になっちまっても、死ぬまで死ねねーんだもんなァ」

 ある日の朝、ふたつのはさみで器用にクワを持ったお兄さんは畑を耕す手を止めて、どこかふっきれたように呟きました。柔らかくなった土の中にタネイモを埋めたわたしは、“死ぬ”という言葉を聞いてももうあまり怖いと思わなくなっていました。

「……死ぬまで、死なないのなら、」

 わたしがカゴを放り出してお兄さんに駆け寄ると、お兄さんはもともと丸い瞳をさらにまんまるにしました。

「それまで、レイナのお兄ちゃんでいてくれる?」

 わたしたちはもう、人間ではありません。それでもお腹がすくし、食べるためには働くし、いつかはきっと死んでしまいます。わたしにはこの村にお母さんという家族がいるけれど、そうでないお兄さんがたまに寂しそうな顔をしているのをわたしは知っていました。

「な、なんだよ、いきなり」
「レイナのお兄ちゃんになってほしいの」
「はぁ?!」
「だから、レイナの家族になって。お兄ちゃん」

 わたしが勇気を出してそう言うと、お兄さんは困ったように頭をかきました。それから再びざくざく土を耕し始めると、傍にいるわたしにしか聞こえないくらい、小さな声で言いました。

「……死ぬまでの間だけだぞ」

 それを聞いたわたしはぱっとお兄ちゃんの腰に抱き着いて、お兄ちゃんはこ、こら!と慌てた声を出しました。それでもわたしは離れません。これから先も、わたしたちはお母さんと三人で仲良く暮らしていくのです。
 
 家族だから、その瞬間までは。


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