- ナノ -

■ 一杯の珈琲

「初めまして。この度ヒソカ様のマネージメント業務を担当させていただくナナミと申します。まだまだ未熟者ですので至らぬ点等多々ございますでしょうが、誠心誠意努めさせていただきますのでどうぞよろしくお願いいたします」

そう言って深々と頭を下げた女は、かしこまった態度をしているだけで丁度少女と大人の女の間くらいに分類される年齢だろう。
約束通り待ち合わせに指定された場所に向かうとそこにイルミの姿はなく、代わりに黒服を着た女がヒソカを待ち構えていた。

「……で、イルミは来てないのかい?」
「イルミ様はお仕事に向かわれました。何か他にご質問があれば私から説明させていただきます」
「うーん、質問ねぇ……」

正直、聞きたいことは山ほどあった。だが、一体何から質問すればいいのかわからない。昨日イルミは電話でマネージャーを寄越すと言ったけれど、やっぱりあれは冗談ではなかったみたいだ。ヒソカは少し悩んだのち、まぁ少し話そうかと彼女を近くのカフェに誘った。
彼女の身なりと口調からしてどう見てもゾルディック家の執事なのだが、イルミが簡単に執事を渡すとは思えない。いくらイルミにとって執事は単なる駒でも、内部の事情に精通している者を簡単に譲渡なんてしないと思ったからだ。

「キミは何を飲む?」

とりあえず席についてメニューを開けば、結構です、とツレない返事が返ってくる。立場をわきまえているつもりなのかもしれないが、これじゃ却って失礼だろう。まぁ、ゾルディックでは当たり前のことなのかもしれない。選ばせるのは無理だろうなと考えて、ヒソカは適当に自分と同じものを頼むことにした。

「女の子に水だけなんて、ボクが白い眼で見られるじゃないか。コーヒーでいいかい?」
「はい、なんでも構いません」
「……コーヒーが苦手なら別のでもいいけど」
「いえ、そういうわけではないのです」

注文を取りに来た店員はヒソカの格好にぎょっとしたみたいだが、これが待ち合わせの指定だったから仕方がない。ナナミもあらかじめピエロの男だと教えられていたみたいで服装に関しては特に反応が無かったのだが、意外にも"コーヒー"という単語には僅かに眉を動かした。しかし、特に掘り下げて聞くべき内容だとも思えず、詳しく聞かないことにする。

「えっと、キミがボクのマネージャーやるんだよね?」
「はい、イルミ様からそのように仰せつかっております」
「ってことはやっぱり執事なんだ。……悪いけど、マネージャーの話は冗談なんだよねぇ」

元より、ヒソカはここに来たイルミにもそう言って断るつもりだった。イルミと違って自分にスケジュール管理が必要なほど明確な仕事があるわけでもないし、何より他人に束縛されるのはごめんだ。
選挙の時は"ちょっと並べ替えて、ちょっと考えると"なんて言い方をされたから、マネージャーが要ると言ってみたものの、もちろん本気ではない。
きっとナナミも主人以外の人間の命令を聞くなんて不本意だろうし、マネージャーがいらなくなれば双方万々歳かと思っていたのだが、彼女はヒソカの言葉を聞くなりさっと青ざめた。

「……そのことはイルミ様には……」
「まだ言ってないよ。むしろ真に受けられたことに驚いてるから」
「それではこのまま黙っていてください」
「え?キミ、ボクのマネージャーしたいの?」

どういうことだと首を捻れば、彼女はこちらにも都合があるのです、と曖昧なことを言った。

「都合って……ボクは要らないんだけど」
「冗談とはいえ、身から出た錆です。諦めてください」
「キミが言いづらいって言うんなら、もちろんイルミにはボクから言うよ」
「だから困るんです!」

切羽詰まった様子でナナミが声をあげたタイミングで、店員が丁度コーヒーを持ってくる。そのせいで一旦白けかけた場を、ヒソカはカップに口をつけることでなんとか誤魔化した。

「……何が困るんだい?」
「……」
「言わなきゃわからないよ、それともイルミから聞いた方が−−」
「話します」

わざとそう言って携帯を取り出すと、湯気の立ち上るコーヒーを目の前にナナミはいかにも嫌そうに重い口を開いた。

「……その、罰なんです」
「罰?」
「私が、その……イルミ様を……お、怒らせてしまって……それで殺処分か変態のマネージャーになるかどっちがいいか聞かれて……」
「うーん、言葉を濁す部分を明らかに間違えてると思うんだけどなァ」

でも、これでなんとなく話は見えてきた。何をやったか知らないが、マネージャーが要らなくなれば彼女は殺されてしまうのだ。「ちなみに何をやったんだい?」気になって尋ねてみると、ようやくナナミも目の前のコーヒーカップに手を伸ばす。そしてそれを両手で包み込むようにして、飲まずに溜息をついた。

「砂糖と塩を間違えたのです」
「……その時のイルミの顔、見たかったなァ」

なんだ、くだらない。これが一般家庭なら、本当にただの笑い話だったろう。ただちょっとイルミのリアクションが気になったものの、それ以外はさして興味の惹かれる話でもない。
しかし命がかかっている当のナナミは深刻な様子である。ぐっと身を乗り出すと、呆れているヒソカに向かって力説した。

「だから今更冗談なんて言われても困るんです。イルミ様にしてはとても寛大なご提案でしたし、この際貴方が変態であろうと多少のことは目を瞑るつもりです」
「なんで上からなんだい……ま、いいや事情はわかったよ。わかったところでボクには関係ないんだけどねぇ」
「そ、そんな!」

ヒソカは代金をテーブルの上に置くと、さっさと席を立つ。聞きたいことも聞けたし、後はナナミがどうなろうと別に知ったことではない。「待ってください!」もちろん彼女はすぐに追いかけてきたけれど、ヒソカは振り返って慰めるように肩に手を置いただけだった。

「ボクのマネージャーになったことにして逃げたらどうだい?イルミにはちゃんと口裏を合わせておいてあげるよ」
「そんなわけには……え、ちょっ!?なんですか、これ!?」

歩き出したヒソカの後ろで彼女の慌てた声が聞こえるが、これでしばらく追っては来られないだろう。肩につけたバンジーガムを適当に道にあった看板に貼り付けておいたので、ヒソカはひらひらと手を振る。

「じゃあね」

悪いがマネージャーなんて、最初からヒソカには必要のないものだった。

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