- ナノ -

■ Name

「拾った」

 そう言ってクロロが予定よりもずっと早く仮宿アジトにやってきたのは、いつ雪に変わってもおかしくないほど冷たい雨の降る、冬の夜のことだった。濡れたせいでさらに重みを増したであろうコートを玄関口で脱ぎ、彼はそのまま黙ってバスルームへと直行する。
 そうなると後に残されたのは、準備の都合で一足先に仮宿アジトに到着していたシャルナークと、クロロが拾ったという子供だけだった。


「損な役回りだなあ」

 思わず見上げた天井は、想像よりもずっと近いところにある。幸いにも今回の仮宿は、廃ビルではなく普通に生活の出来るアパルトメントだ。
 仕方なくシャルは腰を屈め、所在なさげに玄関に立ち尽くしている濡れ鼠に向かって話しかけた。

「風邪引くよ、早く上がって」
「……」

 子供の歳は七歳くらいだろうか。いや、痩せて発育が良くないだけで、本当はもう少し上なのかもしれない。
 話しかけてみても、子供はこちらを見上げるばかりで動かなかった。寒さゆえに体は小刻みに震えているし、噛み合わされた歯からは今にも音が鳴りそうだったが、玄関に立ち尽くしたまま、上がってこない。

「ほら、タオル」

 結局、焦れたシャルナークは、一度洗面所までタオルを取りに行って、子供の頭の上に被せた。そのまま、わしゃわしゃとかき混ぜるように雫を拭いとる。
 一瞬、子供はぐらりと姿勢を崩したが、直ぐに両の足で踏ん張り、されるがままになっていた。
 犬みたいだ、と思った。


「シャル、タオルが無い」

 そうこうしているうちに、洗面所からSOSが届いた。救難信号というにはあまりに傲慢なそれに、シャルは心の中で悪態をつく。ほんとに、勝手なんだよな。
 しかし、のんびりしていては、廊下やリビングにまで雨が降るだろう。タオルが無かったから、という理由で濡れたまま出てくるのは、あの男なら十分ありえる話だ。投げつけるようにして新しいタオルを洗面所に放り込む。

「クロロ、こいつどうするの?」

 とりあえず子供には自分の手持ちの適当な服に着替えさせた。もちろん、サイズはぶかぶかだが、流石のシャルも今から外に子供服を盗りに行く気にはなれない。無理矢理家に上げた子供は今、リビングのストーブの前で大人しく鎮座している。
 シャルはようやくバスルームから出てきたクロロに向かって、非難がましい視線を向けた。

「別にどうもしない」
「じゃあなんで拾ったのさ」
「正確には、拾ったと言うより着いてきた、というほうが正しい」

 一番最初に拾った、と言ったのは、一体どこの誰だったのか。そもそも、シャルが話し合いたいのはそんな細かい言葉の定義ではない。

「腹が減ったな」
「自分で用意しろ」

 シャルがびしり、とキッチンを指さすと、クロロは肩を竦めてそちらに向かった。やっぱり、後に残されたのはシャルナークと子供だけである。
 ため息をついて、大人しく座っている子供の襟首を掴みあげた。服を着替えさせるのはあとで良かったな、と後悔しながら、汚れた子供を空いたバスルームに連行する。子供はやっぱりなされるがままだった。のこのこと怪しい黒づくめの男の家まで着いてくるくらいだから、警戒心があるとも、賢いとも思えない。

「一人で入れる?」

 子供はシャルと浴室を交互に見上げ、それからゆっくり頷いた。よし。さすがにそれくらいは自分でやってもらわねば困る。あのクロロにだってできるのだから、推定七つの子供にできないわけが無い。

 リビングに戻ったシャルは、ソファーに座りながらカップヨーグルトを食べるクロロを無視して冷蔵庫を開いた。料理が好きかと問われればノーだ。でも、自炊くらいはする。野菜や肉を取り出したところで、クロロが首だけこちらに向けた。

「作るなら、一緒だろう」

 確かにその通りなのだが、正しいことと納得がいくことは別問題だ。シャルはそれには返事をせず、話題を変える。

「あれの名前は?」
「知らない。おそらく、本人もな」

 妙な言い方をする。いくら孤児だろうと、あれくらいの歳まで育てば何かしらの名前はあるものだ。別に、親が付けた名前だけが、正しい名前というわけでもないだろう。

「つけないの?」

 言いながら、シャルはペットを飼う相談みたいだな、と思った。実際、あの子供は犬に似ている。良くも悪くも従順な感じが、猫ではなく犬を彷彿させる。

「耳が聞こえないんだ。呼んでも来ないものに、名前をつけても意味が無い」

 クロロは空のカップをテーブルの上に置くと、興味無さそうに言った。
 なるほど、それであの反応の鈍さか。別に今更同情したりはしないが、生まれつきならば発話の方にも問題を抱えているかもしれない。
 シャルは適当に切った野菜と肉をフライパンに放り込み、これまた適当に塩胡椒を振った。肉の焼けるじゅうじゅうという音のせいで、周りの音が少し遠くなる。

「でも、名前が無いと不便じゃないか」
「そう思うならお前がつければいい」
「ポチ」
「え?」
「犬っぽいから、ポチ」

 料理の音に負けないように声を張れば、最悪なセンスだな、とクロロは呆れた顔をした。随分と昔、自分でファミリーネームを考えた時も、同じような反応を返された気がする。

「そう思うならクロロがつけろよ」

 シャルナークって名前、案外気に入ってるから。
 出来上がった炒め物を、ぞんざいに三枚の皿へと盛り付ける。それらとフォークを、テーブルの上に並べ、シャルナークは呼びかけた。

「ポチー、ごはん出来たよー」

 当然ながら、耳の聞こえない子供には届かない。ごくごく当然のような顔をして勝手に食べ始めたクロロに向かって、シャルナークはにっこり笑った。


「やあ、ポチ」


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