- ナノ -

■ 片思いは見逃して

「あ、フィリアじゃん」

廊下を歩いていて一番最初に出会ったのは、執事ではなくイルミの弟。弟と言っても彼とは全く似ておらず、確か歳も一回りほど離れていたはずだ。
フィリアがゾルディックの仕事を手伝う際、必ずこの家から出発しこの家に戻ってきていたので、自然に彼とも顔見知りになった。もっとも、彼には念のことはまだ内緒らしいので同じ暗殺者だと思われているようなのだが。

「あぁ、キルア…」

ほとんど反射的に名前を口にすれば、彼は少し小走りになってこちらに駆け寄ってきた。

「なに?これから兄貴と仕事?」
「ううん、終わった」
「じゃあ今から帰るところ?」

フィリアは頷き、玄関どこだっけ?と尋ねる。移動能力に頼りがちだからか、どちらかと言えば方向音痴に入る部類である。流石にここで暮らしているキルアはしっかり構造を把握しているみたいで、少し呆れたように説明してくれた。

「何度目だようちに来るの。今のでわかったか?」
「……まぁ」

とりあえずこの廊下を突き当りまで行って、そこで左に曲がるところまではわかった。しかしフィリアだけが悪いのではなく、そもそもこの屋敷が侵入者用に入り組んだつくりになっているのも悪いのである。
記憶をたどりながら曖昧な返事を返すと、キルアは盛大に溜息をついた。

「……しゃーねーな、送ってやるよ」
「いいよ、大丈夫」
「遠慮すんなよ。第一毎回のことなんだから兄貴に送ってもらえばいいのに」

どうやら彼が送ってくれるのは決定事項みたいで、キルアは今彼が来た道を引き返す。仕方なくフィリアは後に続いて、この気まずさを取り繕うように彼の真横に並んだ。

「それにしても相変わらず弱そうだよな。フィリアのサポートなんて兄貴にはいらないと思うんだけど」
「まぁ、確かに」
「でも何回も兄貴が呼ぶんだから要るってことだよな……。なに、フィリアって兄貴と付き合ってたりすんの?」

「まさか」

咄嗟に出た否定の言葉は自分で思っていたよりも強い調子で、びっくりしたようにキルアは足を止めた。

「…あ、いや、冗談だけど」

キルアは手で髪をぐしゃぐしゃにしながらあーと唸った。「ま、確かにイル兄はあんまオススメしねーな。まず恋愛なんてガラじゃねーし」フィリアの気持ちを知ってか知らずか、そう誤魔化すように呟いた。

「いや、私もびっくりしただけ。まさかキルアがそんなマセた冗談言うと思わなくって」
「馬鹿にしてんのかよ、俺だって、」
「キルアはきっとモテるだろうね」

仕返しとばかりにからかえば、彼はさっと顔を赤らめた。からかうと言っても実際お世辞ではなく、彼はイルミとはまた別の意味で綺麗な顔立ちをしている。
しかし文句を言いかけた彼のはるか後方で、廊下の角に飾られていた花瓶が床に落ちて派手な音を立てた。

「…っ!なんだ?花瓶…なんで?」

もちろん誰も花瓶には触れていないし、近くを通りがかってすらもいない。キルアはほとんど反射のように辺りを警戒するが、ここゾルディックの屋敷内で攻撃が仕掛けられることなどないに等しいだろう。
フィリアだけが花瓶が落ちた理由をわかっていて、「行こう」と固まっているキルアに声をかけた。

「たまたまだよ、大丈夫」
「でも…」
「それより早く行こう?後で執事さんに言っておけばいいでしょ?」

どうやら話し込み過ぎたらしい。ここで念を使ったから特に進行が早いみたいだ。歩き出したフィリアの後を、腑に落ちなさそうな表情のキルアが追いかけてくる。

「フィリアが先に行ってどうすんだよ」
「あ……」
「ほら、行こうぜ。なんかわかんねーけど、誰の気配もないしな」
「うん」

フィリアはここから早く立ち去らねばならなかった。それがフィリアがどことも専属契約を結ばない理由である。この念は非常に便利だが、イルミの言うようにそれ相応のリスクがあった。回数制限だけではまだ生ぬるい。

「もうここまででいいよ、ありがと」

玄関についたフィリアはキルアに礼を言って、ひらひらと手を振る。何も知らない彼は、もう少し寄っていけばいいのに、と少し残念そうな顔になった。

「今度また暇な時にでも旅の話聞かせろよな」
「うん、わかった、それじゃあね」


旅、というのはフィリアが定住をせずあちこち渡り歩いているからだった。ひとところにはいられない。さっきは花瓶だけで済んだが、フィリアが同じ場所に長居しすぎるとフィリアの周りで良くないことが起きるのだ。

そのことをフィリアは誰にも話していない。話せばきっと、皆フィリアを避けるに違いないし、最悪仕事すらも来なくなるかもしれない。
大きすぎる力にデメリットはつきものだが、フィリアのこれは人間関係を築くうえで非常に厄介だった。
傍にいたいと思う人間ほど傍にはいられない。こんな念を考えた当時のフィリアは、自分が誰かと一緒にいたいと思うようになるなんて、きっと考えてもみなかったのだろう。

ようやく外に出られたフィリアは、振り返って大きな屋敷を仰ぎ見た。リセット期間を悟られないよういつも仕事の約束の日はばらばらだったが、フィリアだってできることならすぐにでもイルミに会いたい。いつも仕事が終われば逃げるように帰るけれど、本当は少しでも会話をしたい。

でも、そうなればイルミに危険が及ぶかもしれない。わざとではない分、フィリア本人にも何が起こるか予測できないのだ。だからフィリアが安心してイルミと一緒にいられるのは、使用期間がリセットされたすぐ後のみ。あとは念を使おうが使うまいが、じわじわと『歪み』はフィリアの周りを不幸にしていく。念を使えば尚更だ。

「付き合ってるなんて、ひどい冗談…」

たとえこの制約がなくてもイルミに好きだとも言えやしない。だって彼はフィリアの念能力を評価しているだけであって、フィリア個人には興味が無いに決まってるからだ。

だけどそれでも。

フィリアは足元の小石を軽く蹴った。
特定の相手を作れなくたって、片思いくらいは許されるはずだ。むしろ一方的な片思いだからこそ問題ないはずだ。

フィリアがイルミと会うたびに必ず誰かの命が失われる。けれど、誰かが不幸になることなんて当の昔に慣れきっていた。


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