- ナノ -

■ じっとしてはいられない

今夜も悲鳴すら上がらぬままに、誰かの命が消えるのだろう。

フィリアは重い扉に背中をつけると、軽く耳を塞いで想像上の断末魔が聞こえないようにした。平気で片棒は担ぐくせに自分が手を汚すのは嫌だし、自分のせいで誰かが死ぬのも知りたくないなんてとんだエゴイズムだろう。だがわかっていても、それでもこの仕事を辞めるつもりはさらさらない。

しゃがみこんで俯いているといつしか大理石の中のアンモナイトを探していた。化石に詳しいわけでも興味があるわけでもないが、クローバーの中から四葉を探すように、大理石を見るといつも探している。アンモナイトを見つけたところで、別に幸せになんかなれないのに。


「助かったよ」

冷たい石の上に視線をさ迷わせていれば、いつのまにか視界に編み上げられたブーツが入り込む。気配もなく頭の上から抑揚のない声が降ってきて、フィリアは思わずドキリとした。

「……終わったの?」

ゆっくり顔を上げて問えば、人形みたいに綺麗な顔をした男が頷く。「そう、じゃあ送るね」フィリアが立ち上がろうとすると、目の前にすっと白い手が差し出された。

「……ありがとう」

そっとその手に自分の手を重ね、引っ張られるままに身を委ねる。彼は最近フィリアの仕事のお得意様で、かの有名な暗殺一家の長男だった。ひやりと冷たい手は汚れてはいなかったが、ついさっきこの手で人を殺してきたのである。

「じゃあ、失礼するね」

おそるおそる彼の背中に腕を回し、身体を密着させた。暗殺者である彼が他人を容易に懐に入れるのは、これがフィリアの念を発動させるために必要なことであり、フィリア程度は彼がその気になればすぐにでも殺してしまえるからだろう。それでも、フィリアは彼と抱き合うこの瞬間がとてつもなく幸せで、とてつもなく不幸だった。
この抱擁に熱はなく、あくまでただの仕事なのである。


「……着いたよ」
「どーも、流石だね」

そっと身体を離せば今フィリアとイルミがいるのはターゲットの屋敷ではなく、床も大理石から毛の長い上質なカーペットへと変わっていた。
全体的に物が少なく殺風景だったが、そこに置かれたひとつひとつの家具が豪華で機能的ながら、優雅ささえも感じさせる。もう何回も訪れたここはイルミの部屋であり、今日の仕事の出発地点だった。

「フィリアさ、本当にうちで雇われる気ない?」

イルミは部屋の中を見回すと、長い髪をさらりと片手でかきあげながらそう言った。初めて会ってフィリアの能力を知ってから、彼は毎回のようにその台詞を言う。

「悪いけど、どこかの専属になるつもりはないの」

しかしフィリアが返すのもまたいつもと同じ台詞であり、イルミはちょっと肩を竦めて見せた。

「そ、残念だな。フィリアが手伝ってくれると、すごく助かるんだけど」
「そういう人がたくさんいるからね」
「うちなら安定して仕事があるし、支払いも悪くないと思うのに」
「だけど飽きちゃうから」

フィリアは誤魔化すように片頬を上げると、ゆっくり2、3歩後ずさる。フィリアの念は移動系の念能力で確かにイルミの仕事にはうってつけだったが、生憎制約で3日に1回1往復までしか使えない。その他、3日経ってリセットされるまで必ず行先と同じ場所にしか帰ってこられない、一度に移動できるのは自分を含めて二人まで……等々、様々な決まり事があったがイルミにはほとんど話していなかった。

「ま、いいよ。次また頼みたいんだけどいつなら空いてる?」
「1週間後かな」
「そ、じゃあまた予約ね。入れておいて」

イルミは頭の中で自分の予定を組み立てているのか、少し黙り込んだ。「わかった、それじゃあね」なのでその隙にフィリアはさっさと退出しようとする。一刻も早くこの場を去りたいのだ。
しかしフィリアが扉に手をかける前に、後ろからイルミが呼び止めた。

「もう帰るの?」
「……うん、次の仕事もあるし」
「…ふぅん」

一瞬ドキリとしたが、フィリアは努めて平静を装って返事した。そしてノブに手をかけ、もう一度別れの挨拶をしようと口を開く。

「嘘だね」

イルミの声は相変わらず平坦なままだったが、それを無視して出て行くほどの勇気はなかった。

「これはあくまで推測だけど、連続でその念は使えないんだろ?」
「……」
「フィリアが依頼を受ける時、いつも絶対に空白期間がある。それにそれだけ便利な能力に制約が無いとも思えない。見たところフィリアは元気で何かを犠牲にしているわけでもなさそうだし、そうなると使用回数に制限があるとしか考えられないんだよね」

イルミはゆっくりとこちらに近づいてくると、扉に手を置いて開かないようにした。「制限が無いなら念を使って逃げれば?」背の高い彼に見下ろされ、どうしてこんなことになっているのかとフィリアは動揺する。
彼の推測は当たっていて、フィリアは逃げたくても逃げられないのだった。

「……当たってる、って言えば満足なの?」
「別に。自信はあったし」
「嘘をついたのは悪かったけど、念のことを明かしたくないのは普通でしょ。
……その手、退けてもらっていい?」

見た感じ軽く手を置いているだけのようなのに、扉は固められたみたいにびくりとも動かない。もしかして彼はいつまでも色よい返事を返さないフィリアに、強硬手段を取るつもりなのだろうか。
そうなれば今のフィリアに勝ち目はない。捕まって手荒く扱われることは無いだろうが、フィリアにはここに長居できない理由があった。

「そんな怖がらないで欲しいんだけど」
「……私、急いでるの」
「仕事じゃないんでしょ」
「待ち合わせしてるから、彼と」

仕方なくいない恋人との待ち合わせを口実にすれば、そこでイルミは少し驚いたように眉をあげた。普段無表情な彼が驚くなんて、どれほど意外だったんだろう。なんだか失礼な気もするが、ようやく退けてくれたのでまぁよしとしよう。そもそもここに長居できないのと同様、フィリアには特定の相手が作れない理由もあるのだった。

「へぇ………いるんだ?知らなかったな」
「まぁね。そういうことだから、じゃ」

イルミが何かを言いかける前に、フィリアは扉を引いてするりと廊下に出た。この屋敷は広すぎて迷子になりそうだが、そのうち執事にでも会えば出口まで案内してくれるだろう。

少し進んで、それから恐る恐る後ろを振り返る。
イルミの部屋が閉ざされたままであることに、フィリアは少しほっとして同時に落胆した。

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