- ナノ -

■ なにもかも捨てておしまい

荷物はなるべく少ない方がいい。
リスクを考え、一か所に留まることのできないフィリアはいつだってそんな生活を送っていた。決まった家も持てずにあちこちのホテルを転々とし、仕事が軌道に乗るまでは野宿だって平気でしていた。
フィリアが落ち着いて留まることができたのは、犯罪者として絶状態にされ、ハンター協会に拘留されていた時くらいのもの。とはいえその当時はフィリア自体が念も制約もまったく知らない状態だったので、罪は不問にされ代わりにきちんと念のいろはを教わることになった。上手く移動できるようになってからは協会の仕事を手伝わせてもらったり、まだ子供だったフィリアの身元引受人になってくれたりと、本当に教会や会長にはお世話になって心から感謝している。
ゾルディックとの仲介だって、会長のお蔭だったのに。

今後の仕事のことは考えさせてと言ったが、フィリアはもうイルミにどんな顔をして会えばいいかわからなかった。きっとイルミは今までと変わらぬ態度で仕事を依頼してくれるだろうが、フィリアの方が知らぬふりなどできない。一方的に恋をしている状況は変わらないとしても、気持ちを相手に知られていて一方的なのと、知られずに一方的なのとでは全く辛さが変わってくる。
制約も知られてしまったことだし今まで以上にドライな付き合いになるのかと思うと、いっそ会わないほうがマシだと思った。


フィリアはパドキアから出るために、空港へと向かった。
移動系の念を持っていながらも、実際は仕事の時以外使わないようにしている。お金を稼ぐためには必要だけれど、フィリアは自分の念があまり好きではなかった。長距離の飛行は心配なため、ひとまず隣の国にでも。何回乗り継ぎをしてもいいから、ここから、イルミのいる国から離れよう。

飛行船のチケットを購入して、出発時間までロビーのソファに腰かけていた。周りには別れを惜しむ家族や恋人たちがいて、少しだけ羨ましくも思う。とりあえず今後仕事は受けられないという謝罪だけは伝えなければいけないと考えて、フィリアは沈んだ気持ちで携帯を取り出した。するとその瞬間、画面が明るく点灯する。

「え……」

表示された番号は、紛れもなくイルミのもの。ちょうど電話をかけようとしていたところだからタイミングがいいといえばいいのだが、思わず出るのを躊躇ってしまう。だがやっぱり出ないわけにはいかなくて、フィリアは通話ボタンを押すとそっと耳にあてた。

「……もしもし」
「フィリア、オレだけど」
「うん」
「今どこ?」

相変わらずイルミの電話は強引だが、フィリアには答える気がなかった。どうせもう関係ない。「あ、あのね、イルミ」ロビーの喧騒が煩くて、携帯を耳に当てたまま外へ出る。

「私、もう仕事は、」
「今どこ?」
「仕事ならもう受けられない、ごめん」
「……オレの質問聞こえてる?今どこって聞いてるんだけど」

若干いらだちを含んだ口調に、フィリアはバツの悪い思いに駆られる。「どこ?」どうせ答えても別に何も変わりはしないだろうと思いなおして、小さい声で居場所を告げた。

「……空港、パドキアの」
「わかった、行く」
「えっ、なんで?だって私もうあと5分後には経つよ」
「乗ったら飛行船ごと落とすから。話があるんだよ、仕事じゃなくて」
「話って……」

なんだろう。聞きたいけど聞きたくない。でも先に『仕事じゃない』と言われてしまっては断ることもできなかった。

「いいからそこから動かないで。すぐ行くから」
「……わかった」

フィリアは電話を切ると、深い溜息をついた。こんな状況でも最後にイルミに会えるかと思うと、少しだけ嬉しくなっている自分がみじめで仕方がなかったのだった。





「フィリア、」

空港のロビーは多くの人間でごったがえしていたが、フィリアを見つけるのはそう難しいことではなかった。ぽつんと一人でソファーに腰かけ、両手で携帯を握りしめている。名前を呼べばすぐにこちらに気づいて、彼女はなぜか困ったような表情になった。

「……話って?」
「フィリアに頼みたいことがあるんだ」

イルミがそう言うと、途端にフィリアの表情は翳りを見せた。おそらく、勘違いしているのだろう。案の定彼女は仕事なら……と言いかけたので、イルミはそれを遮るように彼女の目の前に小さな箱を差し出した。

「なにこれ」
「ねぇ、フィリア。オレのことまだ好き?」
「えっ、な、なに言ってるの?」

「オレのために念を失う覚悟はある?」

そう言って、イルミは箱を開いてみせた。中を見たフィリアは驚いたようにイルミを見つめ、唇を震わせる。中には彼女のために特別に作らせた指輪が入っていて、それを嵌めると強制的に絶状態になるものだった。

「これがあればフィリアは念からも制約からも解放される。もっとも、これだって永久的なものじゃないから定期的に作り直さなきゃ効果は薄れるけど」
「……どういう、意味?」
「だからそういう指輪なんだよ。フィリアの念を封じる指輪」
「そうじゃなくてこれを私にくれる意味だよ」

なんでイルミがこんなことしてくれるの?

向かい合ったフィリアの瞳は、ゆらゆらと揺れていた。不安そうに握りしめられた拳は目の前の箱を手に取ることを拒んでいるようにさえ見える。正直、もっと喜んでくれるかと思っていたイルミにとって彼女の反応は少し意外だったが、やがて肝心なことを言い忘れていたと今更になって気が付いた。

「それはフィリアが……フィリアが欲しいからだよ」
「え……?」
「今のままじゃ一緒にいられないけど、これがあれば大丈夫でしょ。だから……ちょっ、フィリア?」

揺れていた瞳に、みるみるうちに涙の膜が張っていく。彼女が俯けばぽと、と音がしそうなくらい大粒の涙が落ちて、イルミはどうしていいかわからなくなった。

「……んで」
「え?」
「なんで?そんなことしたら私、なんの価値もないよ……?」
「それでもいい」
「っ、意味わかんない」

「意味なんてないよ。わかったんだオレ、フィリアのこと好きだって」

イルミがそう言った瞬間、ばっと顔を上げるフィリア。見つめ合った時間が永遠のように長く感じられ、周りの音は何も聞こえなかった。「だから、傍にいてほしい」イルミは再度指輪を彼女に差し出すと、受け取ってくれる?と尋ねた。

「フィリアにはたくさん酷いことを言った。フィリアを利用することばっか考えてた。だけど今は違う。念なんかなくてもいいよ、フィリアがいてくれたらそれでいい」
「……っ、本当にいいの?」
「うん」

イルミが頷くとおそるおそる指輪に伸ばされたフィリアの手。それを掴んで引き寄せると、彼女はバランスを崩してイルミの胸に飛び込む形になった。「嵌めていい?」涙に濡れながらも初めて微笑んだ彼女に、イルミも自然と口角が上がっていた。


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