- ナノ -

■ 惹かれているのはお互い様

「……あの、イルミ?」

仕事を終えて、いつものように彼女の念でゾルディック家の自室まで送ってもらう。そこまでは何も変わりなかったのだが、この日イルミは念を発動するために抱き着いてきていたフィリアを腕の中に閉じ込めたまま離さなかった。

「え、あの、もう着いたんだけど…」
「うん、知ってるよ」
「は、離してくれない?」
「やだ」

にべもなく断れば彼女はようやく慌て始め、離れようともがくがそうはいかない。

「っ…!なんで、」
「フィリアこそ、なんで離れたがるの?」

身長差のせいで彼女の顔はあまり見えなかったものの、ちらりと見えるフィリアの耳は赤くなっていてどうやら嫌悪感で暴れているのではないようだ。そしてそのことになぜか少し満足感を抱いて、イルミはストレートに質問をぶつけた。

「なんでって……だって、その、恥ずかしいから」
「いつもフィリアから抱き着いてくるだろ」
「そ、それは念を発動させるためでしょ!今はもう終わったんだから……!」

それを聞いてイルミはふぅん、と呟いた。
少しだけホールドを緩め、反論のために上を向いた彼女の顔が良く見えるようにする。至近距離で目と目が合って、フィリアの顔もしっかりと赤いことを確認した。

「今日は浮気になるって言わないんだね」
「……っ!」
「それとも、オレと浮気してみる?」

腰に回していた片手を彼女の後頭部まで滑らせ、逃げられないよう固定する。そしてそのままイルミは動揺している彼女の唇に自分のそれを重ねた。

最初は、触れるだけのお遊びみたいな口づけ。あれだけ貞操観念の固いフィリアのことだからもっと抵抗されるかと思ったが、彼女は驚きすぎたのか声すら上げず固まっている。その様子からは快楽や興奮よりも緊張が目に見えて、イルミはそれを崩してやりたくなった。これも一種の征服欲かもしれない。

煽るように脇腹を撫でるとびくりとした彼女の口が少し開いて、すかさず隙間から舌をねじ込む。今更逃れようとしたって遅かった。翻弄されるままのフィリアにイルミは内心でほくそ笑む。
こんなに『楽しい』キスは初めてだ。

やがて彼女の身体から力が抜けたことを感じたイルミは、そこでようやく唇を離す。呼吸の乱れている彼女はとろん、とした目でこちらを見たが、すぐにハッとした表情になって後ずさった。「な、なんで……」しかし、足がもつれてよろめいてしまう。

イルミはそんなフィリアを追い詰めるように歩み寄った。

「悪いけど、理由もなくキスするほど飢えてないよ。フィリアが欲しいと思っただけ」

「ほ、欲しいって……え?」

欲しい、が指すのは『フィリアの能力』だった。けれども、それをこの駆け引きの場で言ってしまうほどイルミも馬鹿正直ではない。女は皆こういう言葉を欲しがるのだということは知っていたし、現に目の前のフィリアに嫌悪の感情は見て取れなかった。

「フィリアはオレのこと嫌い?」

しかし目的とは別に、唇を重ねて満足したのも嘘ではなかった。今は動揺している彼女を目の前に、自分でも理解できない楽しさがこみ上げて来て仕方がない。逃げようとするフィリアの腕を掴んで再び近くに引き寄せると、もう一度その唇を味わおうとした。

「だ、だめっ!」

しかし今度は胸を押され、強く突き飛ばされる。とはいえフィリアの腕力でイルミをそう押しやることもできるはずもなく、実際さしたる障害にはならない。けれどもそれは紛れもない拒絶であって、イルミはすう、とあのなんとも言えない楽しさが引いていくのを感じていた。代わりにこみ上げるのは、紛れもない苛立ち。なんで。なんでなんだよ。掴んだ腕に思わず力がこもってしまい、彼女は声にならない悲鳴を上げた。

「そんなにその男が大事なの?キスぐらい、なんだってのさ」
「っ、痛いっ……!やめて!」
「勘違いしないでよ。オレが興味あるのは能力だけ。フィリアのことなんか……!」
「イルミっ!」

叫んだ声とは裏腹に、彼女の両目から静かに涙がこぼれる。きらきらと輝く涙の粒が頬を伝っていくさまはまるで映画のワンシーンのように綺麗で、イルミはそこで我に返った。

「……ごめん」

もはや自分でも何に謝っているのかわからなかったが、呟きとともに手の力を抜く。彼女の手首にはくっきりと痣が残っていて、イルミはそこから目が離せなくなった。フィリアの押し殺したようなすすり泣きだけがその場の空間を支配して、今更になって自分がとんでもないことを言ってしまったと気がつく。今までずっと回りくどいやり方をしていたのに、あのたった一言で何もかも全部台無しだ。冷静さを欠いてしまった自分に混乱する気持ちもあったが、こうなってしまっては後に引けないのも事実だった。

「……でも、そういうことだから。操作してでもここにいてもらうよ」

本当なら、今すぐにでも針を刺してしまった方がいい。イルミには次にいつ、フィリアの念が使えるようになるのか正確にはわからない。けれども取り出した針でこれ以上彼女を傷つけるのはどうしても躊躇われた。

「落ち着く時間をあげるから、考えてみなよ。何度も言ってるけどフィリアにとってもそう悪い話じゃないはずだから」

本当に落ち着く時間が必要なのはイルミの方だった。早く冷静にならなければと、こんなに乱れた思考では危険だと頭のどこかで警鐘が鳴っている。

イルミは逃げるように自室を後にすると、そのまま厳重に鍵をかけた。


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