- ナノ -

■ 春の到来

 
 春の夜は、あらゆるものがぼんやりと霞がかっている。
 頬を撫でる風はしっとりと濡れており、強く吹きつけても冬のそれとは違ってどこか柔らかい。ついでとばかりに鼻孔を擽った甘酸っぱい香りは、沈丁花だろうか。香りにつられるようにして辺りを見回し、イルミは夜闇に白い花の姿を探す。今まではその毒性にしか興味がなかった花だ。そもそも花を愛でるという発想すら、これまでは思いつきもしなかった。
 イルミは自身の変化の理由を思い浮かべ、自然と表情を緩める。残念ながら沈丁花はかなり遠くでほころんでいるらしく、イルミの目を愉しませることはなかったが、確かに春はここまでやってきていた。
 この標高の高いゾルディック家の屋敷まで、春はその足を伸ばしていたのだ。
 
「ただいま」

 イルミが帰宅したとき、バルコニーの窓は開け放され、ふわりふわりと白いカーテンが夜気をはらんでは膨らんでいた。その誘うような揺らめきにはそこはかとない艶めかしさがあって、不用心を注意する言葉はひとまず胸の奥に留め置く。まるで天女の羽衣みたいだという感想が、頭の中に浮かんだせいかもしれない。
 もっとも、イルミの住む世界には、そんな伝承は存在しなかったのだけれども。

「派手にやったね。どう? 気は済んだ?」

 イルミの部屋はもともと物が少ない。そこへ身一つでこの世界にやってきたという彼女が一人増えたところで、殺風景なのは相変わらずだ。それなのによくもまあこれだけ散らかすことができたなと思うほど、部屋の中のあらゆるものがひっくり返されている。クローゼットにしまってあった衣類はそこらに打ち捨てられ、書棚の本たちは天災にでも見舞われたか、見開いた無様な格好で床に雪崩れていた。ベッドのマットレスは頭から足先まで真っ直ぐに切り裂かれ、全ての引き出しを抜かれた机はもはやその外枠を残すのみである。
 この光景には、きっと本職の空き巣も度肝を抜かすことだろう。どうやら彼女は目的の物を見つけられなかったらしく、スプリングの半分飛び出たソファーの端っこに項垂れて座り込んでいた。そしてイルミの帰宅に気づくと、錆びついた音のしそうな動きでゆっくりと顔を上げた。

「……別に、むしゃくしゃしてやったんじゃない」
「知ってる」
「いい加減、返してよ」

 イルミはそれには何も応えず、器用に床の障害物を避けてクローゼットにたどり着く。空っぽのそこへ一着だけ上着を仕舞うのはどうにも滑稽な感じがしたが、だからといって床に落とすのもおさまりが悪い。どのみちこの部屋を片付けるのも衣類をクリーニングするのも執事の仕事なのだが、イルミはいつもの習慣できちんと上着をハンガーにかけ、クローゼットの扉をぴったり閉めた。

「返してってば」

 そしてバルコニーの方へと踵を返すと、こちらもまたぴったりと閉めてクレセント錠を下ろした。彼女が逃げることができるとは思わなかったが、やはり開いたままの窓というのはどうにも落ち着かなかったからだ。

「ねぇイルミ、お願いだから、」
「いい加減、諦めなよ」

 立ち上がり、追いすがるように後をついてきていた彼女は、イルミの素っ気ない返事に表情を歪めた。怒りと言うには乾いていて、絶望と言うには諦観が入り混じった顔だ。お願い、と再度繰り返された言葉がどれほど無意味であるか、彼女だって馬鹿ではないからわかっているだろう。お願いしても無駄だから、彼女はイルミが留守の間に部屋中をひっくり返して探したのだ。しかもこの家捜しは別に初めてのことでもなんでもない。

「あれが無いと元の世界には帰れないの」
「別に、ここにいればいいだろ」
「私は帰りたいの、帰らなくちゃいけないの」

 彼女はできる限り深刻そうに訴えたが、イルミは聞き飽きたそれに耳を貸すつもりは毛頭なかった。

「オレは帰ってほしくない」

 理由はそれだけで十分だ。彼女にどんな事情があろうと、彼女がどれほど望郷の念にかられようと知ったことではない。もっと言うとイルミは異世界の存在など信じてはいなかったが、彼女がそれに固執するおかげでイルミの元を離れられないのだということだけは理解していた。

 彼女が自身のいた世界に戻るには、羽衣≠ェ必要なのだ。そしてイルミは彼女を拾ったと同時にそれを手にしている。彼女が教えてくれた物語の代物とは違ったけれども、イルミは確かに彼女の大事な物を手に入れた。そしてそれを返すどころかまだもう一つ、彼女から手に入れたいものがあった。

「でもそうだなあ。交換ならいいよ、お前の心臓≠返してあげる」

 血液循環の原動力となる器官を無くして、目の前の彼女は一体どうやって生きているのか。おかしな話だけれども、現に彼女はその衣服で覆われた左胸に、ぽっかりと大きな空洞を抱えている。呼吸もするし、会話も、思考も、食事も、睡眠もする、生者と何一つ変わらない身体のくせに、彼女には最初から心臓が欠落していた。敷地内で倒れていた彼女を発見したイルミが一瞬死体だと見紛うほど、それはそれは鮮やかな風穴が開いていたのだ。

「……交換って、何と?」

 躊躇いがちに見上げてきた彼女の瞳は、硝子玉のように透き通っていた。髪も肌も唇も全体的に色素が薄く、春の朧を思わせる風情だ。もしかすると彼女本来の色ではなく、心臓≠ェない弊害なのかもしれないが、イルミは密かにその美しさに舌を巻いていた。むしろ精巧に作られた人形なのだと言われたほうが、納得できる気さえする。
 そして彼女曰く、身のうちに空洞を抱えていると感覚や感情といったものが希薄になっているらしかった。だから彼女の怒りはいつだって乾いているし、悲しみは形をなぞっているだけだし、絶望はどこか他人事の雰囲気がある。
 あの心臓≠ヘ循環器官というよりも心≠ェ具現化されたものなのかもしれない。そう思いつつ、真実がどうであるかなどイルミはどうでもよかった。結果として彼女が生きて動いてこの場にいるのなら、異世界のことも彼女の身体の謎も興味がない。イルミが気にかけているのは、どうやってこの先も彼女を手元に置いておくか、その方法だけだ。そしてイルミは既に、彼女を縛るための手段を知っている。

「それはもちろん、お前の名前と。名前を教えてくれるなら、心臓≠ヘ返してあげるよ」
「っ、でも名前は……」
「言霊信仰の一種なんだっけ? オレは名前で人間が支配できる≠セなんて信じてないんだけどね。今のお前が持っていて、大事にしてるものなんて他にないだろ? それに曲がりなりにも世話になっていて、いつまでも名乗らないのはどうかと思うんだけど」

 本当に支配したいのなら、イルミの場合は針一本で解決する話だ。真名が相手を縛るだなんて前時代的な呪術は欠片も信じていないし、彼女の名前など知らなくても生活の上で不便は感じていない。ただ、彼女自身が名前を知られることで縛られると考えるなら話は別だ。彼女にとって名前を告げることは、自分の意思でイルミの物になることを選ぶこと。そういう意味では、まさにイニシエーションの一種であると言えるだろう。
 彼女は逡巡するように、ゆっくりと視線を落とした。

「私の名前を知ったイルミは、帰るなと命令するんでしょう? だったら心臓≠返してもらっても意味がない」
「名前が支配権を持つと思っているのはお前だけさ。現にお前はオレの名前を知っていても、心臓を返せ≠ニ命令できない」
「……」

 そう言ってみても、彼女は頑なに名乗らなかった。イルミが散らかった部屋でも習慣通りに上着を仕舞ったように、彼女も染み付いた考え方を容易に捨てることができないらしい。
 とぼとぼと元のソファーに引き返すと、途方に暮れたように腰を下ろした。硝子玉の視線は部屋中を彷徨い、心臓≠フ幻影を探し求めている。

「……一体どこへ隠したの? まさかこの家にはないの?」
「さあね。言うわけ無いだろ」

 イルミは鼻で笑うと、シャワーを浴びるために脱衣所の方へ向かった。ここでも扉をぴったりと閉め、脱いだインナーはカゴに放り込む。鏡の前で晒された肉体は、見た目にはただ鍛えられた男のそれだった。イルミはそっと自身の胸の中央、やや左寄りのところに手をあてる。そして今度は右≠ヨと手を動かすと、もう一つの拍動に耳を澄ませた。

「やっぱり、聞こえるわけ無いか」
 
 それでも、確かに彼女の心臓≠ヘここにある。
 彼女を初めてこの目で見た瞬間から、イルミは景色に色を、風に香りを、生きることに幸福を感じることができるようになった。
 感情なんてとっくに捨てたはずのイルミの胸に訪れたのは、紛れもない春だったのだ。

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