- ナノ -

■ あとは真心を持て余す

 第一王子私設兵の朝は早い。特に数か月後に控えている暗黒大陸への渡航――すなわち王位継承戦を控えて、カキン王国の上層部が緊張状態にある現在は尚更だ。一応、セレモニー以前に候補者が死亡するようなことがあれば継承戦は即中止とされている。そのため表向きはどの派閥も目立った行動は起こしていないようだが、水面下では熾烈な情報戦が繰り広げられていたのだった。

「まさか兵隊長殿の口から美人局の注意まで出るとは思わなかったな」

 朝の定例会を終えて廊下に出た途端、同僚のヒュリコフがそう言って皮肉気に口元を歪めた。同僚と言ってもここの私設兵は単なる仕事だけの繋がりだけでなく、もはやベンジャミン様を親とした一つの家族と言っても過言ではない。だから彼が軽々しい口調を装いながらも、心の中で不満に思っている気持ちはよくわかった。

「同感だ。そのような心配をしてもらわなくとも、ベンジャミン様の勝利に水をさすようなことはしない」

 第一王子の私設兵は選び抜かれた精鋭ばかりだ。忠誠心と誇りの高い我々が、今更そんなわかりやすい罠に引っかかるわけがない。リハンがむっつりとそう返すと、バビマイナが振り返って少し呆れたように肩を竦めた。

「物の例えだろ。それくらい気を引き締めろってことさ」
「そうか? 俺は案外兵隊長も流行に詳しいんだなと思ったよ。例に挙げていた話、最近流行ってたサスペンスドラマにそっくりだっただろう」
「ドラマ?」

 首を傾げるバイマイナとは違い、ウショウヒの言葉にあっ、と思ったが既に遅かった。制止する間もなく、録り溜めてまだ見られていなかったドラマの内容が滔々と彼の口から語られる。

「あぁ、完全犯罪をテーマにした話だ。最初は他愛ない美人局かと思いきや、実は女の狙いは金じゃなくて暗殺することだったってオチでな。あれにはオレも騙されたぜ。主演女優の獲物をじわじわと追い詰めていく演技が迫真で……ふふ、最後に獲物殺すシーンがたまらなく好きだったな」

 ウショウヒよ、そこまで説明されるとオレの楽しみは激減する……。
 軍属であるがゆえ有事の際には容赦なく呼び出されるが、ベンジャミン様は部下の休息も大事に考えてくださる方だ。実は次の非番に溜めていたビデオを消化しようと思っていたのが、これはもう別のことをしたほうが有意義だろう。

「へぇ、お前もそういうの見るんだな。意外だった」
「確かリハンも見ると言っていたはずだ。はは、推理好きなお前も、まさか主人公が自分の兄に罪を着せてまんまと逃げおおせるなんて思わなかっただろう?」
「……」

 さて、今日も一日、訓練や通常業務に精を出そう。
 リハンは黙ってほんの少し、廊下を歩く足を速めたのだった。



 そういうわけで、リハンの休日の予定は見るも無残に崩壊してしまった。もちろん、ただじっとテレビに向かっているのは勿体ないのでトレーニングをしながらの予定ではあったが、トレーニングだけが残るとあまりに休日らしくない過ごし方になってしまう。身体を鍛えるならいっそ訓練場に顔を出すのもアリだが、“休みなのに予定がないのか? 寂しい奴だな”と周りに思われるのはなんとなく避けたかった。思われるだけならともかくも、ヒュリコフあたりが口笛を吹きながらストレートに揶揄してくる図が容易に想像できる。事実、今のリハンには予定がなくて手持無沙汰ではあったものの、わざわざあいつらにからかいのネタを提供してやる義理はないだろうと思った。

 となれば残るは市中をぶらつく、これ一択だ。宿舎にいれば、結局“することがないのか”と思われる可能性が高いが、とりあえず外出すれば休日を満喫した感じが演出できるだろう。もはや自分でもなぜここまで意地になっているのかはわからない。しかし、男には理屈では説明できない面子というのが確かに存在する。時折、女と思われる相手から電話がかかってきて“悪いが忙しい”と断っているようなバビマイナにはきっとわかるまい。

 リハンはふん、と勝手に腹を立てると、宿舎の自室を後にした。次の王位は国民たちにとっても他人事ではないはずなので、市井の彼らがどのように思っているか直に探るというのも“私設兵の休日”としては正しい使い方だろう。
 街に出て手始めに立ち寄った本屋で――これは趣味と実益を兼ねている。印刷物の検閲具合は如実に政治権力を反映するのだ――リハンはしばし有意義な時間を過ごした。メディアで取り上げられて話題になった本ではネタバレに戦々恐々とする必要があるが、そこまで売れていない作家ならばその心配はなく、帯の煽り文句や背表紙のあらすじを見ているだけでも想像がかき立てられて実に楽しい。

 しかしリハンの穏やかな休日はまたしても長くは続かず、本屋には相応しくない男の怒声と女の悲鳴によって妨害されることになったのだった。

「おいてめえ待てよ! お前の鞄がさっき俺に当たったんだよ! 謝れよ!」
「ご、ごめんなさいっ」
「はぁ? 聞こえねーんだよ、それで本気で悪いと思ってんのか?」
「ごめんなさい! 悪気はなかったんです、許してくださいっ」

 一つ向こう側の通路から聞こえてきたやり取りは、どう考えても女性がろくでもない男に絡まれている状況だ。夜の歓楽街ならいざ知らず、こんな白昼に、しかも落ち着いた雰囲気の人間が集まる本屋で厄介な人間に遭遇してしまうとは随分と運がないのだろう。
 リハンは手に取っていた本を棚に戻すと、声の聞こえてきた方へと向かった。ベンジャミン様ならきっとこのような横暴をお許しにはならないだろう。あのお方は少し直情的なところはあるが、民草や国を想う気持ちはとても強い。だからこそ、私設兵はみなベンジャミン様の他にはカキンの王を考えることができないのだ。
 
「そこまでにしておけ」

 音もなく現れたリハンが騒いでいた男の肩に手を置くと、彼は先ほどの威勢のよさもどこへやら、ぎょっとした顔してそれからすぐに青ざめた。「な、なんなんだ、アンタ……」流石に今は私服だが、軍人特有の威圧感は隠せないしこの場において隠す気もない。リハンはそれ以上男を諭すことも注意することもせずただ無言を貫いたが、もはや男は絡んでいた女に見向きもせず脱兎のごとく逃げて行ったのだった。

「あ、あの、ありがとうございます……!」

 突然の闖入者に驚いたのは、何も男の方だけではないらしかった。怒鳴られて怯えていた女はリハンを見上げて瞬きを繰り返し、ややあってからハッとしたようにおずおずと礼を述べる。その動きがどこか小動物を思わせる雰囲気で、非常に愛らしかった。別に下心があって助けたわけではなかったが、彼女を守ることができてよかったと思うくらい……そう、有り体に言ってしまえばかなり、いや直球で好みのタイプだったのである。「気にするな、災難だった……な」しかしいくら可憐な容姿に見とれても、リハンは別にこれ以上彼女に関わるつもりはなかった。なかったけれど、立ち去る寸前に視界の端に奇妙な影を捉えて、踏み出しかけた足がぐっと地面を掴んだ。

 (なんだあれは、小人か? いや、小人の形をした念獣……!?)

 サイズはちょうど、彼女の膝丈くらいだろうか。一見したところ老人のような風貌だが、見る者にどこかあどけない印象を与える小さな生き物が、彼女の足元にまとわりついてぽかぽかと脛に小さな拳を当てている。その頬はぷくりと膨らみ、明らかに“怒っている”表情なのだが、彼女は攻撃されていても特に痛みも不都合も感じていないようだった。もしかすると彼女は“自身が何者かによって念をかけられている”ことに気づいていないのかもしれない。
 しかし、リハンがそう思ったのも束の間、彼女の視線はリハンの視線の先を追うように下へと向けられる。そうして今度ははっきりと驚いた顔をして、信じられないことを口にした。

「あ、あの、もしかして私の“怒りんぼう”が見えるんですか?」
「……」

 念能力者――。
 その単語は素早く、リハンの脳内で“刺客”の文字に置き換えられる。もちろん全ての念能力者の数を把握しているわけではないが、カキン王国における念能力者は他国に比べて極めて少ない。それはカキンがこれまで近代五大陸V5にも数えられない後進国であり、なおかつ他国との関係や干渉を避けて独自の文化圏を築いてきたが故である。カキン統一、その後に世界統一を目指してはいるが、カキンはまだまだ念能力においては発展途上と言わざるを得なかった。現に今のところ、候補者の王子達ですら念能力を知る者は、ベンジャミン様とおそらく第二王子カミーラ様の派閥くらいだろうと見当をつけている。そして肝心の第一王子と第二王子の仲は、継承戦のあるなしに関わらず最悪だった。

「“怒りんぼう”? いや、靴紐が解けかかっているのが目に留まっただけだ」
「え、あ、ほんとだ! す、すみません、変なこと言っちゃって! 忘れてください!」

 しかし、リハンはここでわざとしらばっくれ、即時戦闘に入ることを避けた。それはリハンの能力が戦闘向きというよりは暗殺向きであるというのもあったが、目の前の彼女がもしも第二王子の勢力下だった場合、表立って事を構えるわけにはいかないからである。繰り返すが、セレモニー以前の候補者殺しはご法度。そうでなくとも王子の暗殺企図など極刑は避けられない。ここでリハンが彼女に危害を加えれば、その背後に控える第二王子に対する反逆行為とみなされ身柄を拘束される恐れもある。流石に部下に攻撃を加えただけで第一王子私設兵であるリハンの首が飛ぶようなことはないだろうが、あれやこれやと裁判を引き延ばされて肝心のB.W号に乗船できなくなるようなことがあれば開始前から大きな失点だ。それは絶対に避けなければならない。

 だが、大っぴらに手出しができないという状況は相手の方も同じはずだ。ならば彼女の目的は何か。継承戦を控えた現状、できることは限られている。敵を法的に拘束することで戦力低下を狙うこと。リハンのような能力者で敵の情報をあらかじめ収集し、有利な状況を作ること。それから最後に操作系の能力で第一王子に容易に近づける私設兵を操り、開戦と同時に“暗殺”できる手札を揃えておくこと。

 見たところ、念獣の小人をあれほどはっきり作り出している彼女は具現化系の素養が強いということであり、それならば同時にイレギュラーな特質や、操作能力の付与にも気を付けなければならない。加えて“怒りんぼうが見えるのか?”というあからさますぎる質問は、より一層“要請型の操作系能力”である可能性を高める。あれにもしも“見える”と答えることが彼女の念の発動条件だった場合、リハンは既にかなり危ない橋を渡ったことになるのだ。
 そう考えると、背筋に冷たいものが流れる。もう既に継承戦は始まっているのだ。こちらも全力で彼女の無力化に努めなければならないし、幸いにもリハンの能力はそれができる。ならばそれを使わぬことこそ罪だろう。全ては我らがベンジャミン様の築く、カキン王国の未来の為に――。

「あ、あの、大丈夫ですか? 聞こえてます?」
「……すまない。何の話だったか」
「お礼をしたくて、その……今からお時間とかありますでしょうか……?」

 ついつい自分の思考の深みにはまってしまったが、状況を整理すると可憐な少女のお誘いを受けているというところだ。なるほど、兵隊長殿が美人局に気をつけろと言ったのはこういう女を武器にした刺客の存在を警告していたのかもしれない。ベンジャミン様に直接取り入ることができないのなら、近づくきっかけはその私設兵でもいいということか。考えれば考えるほど、彼女が変な男に絡まれていたのも全て茶番に思えてくるから恐ろしい。

「時間はある」
「本当ですか、やった」

 リハンは頷くと、あえて相手の思惑に乗ってやることにした。この分ならば相手の能力もいくつか条件を満たさねば発動できないタイプなのだろう。わかりやすく喜色を浮かべる女を見下ろし、決意を固くする。

 (この限られた“お礼”の時間の中で彼女の能力を探り、異邦人プレデターにて継承戦前に敵の戦力を削ぐ……!)

 それは絶対に負けられない戦いが、突然リハンの休日にもたらされた瞬間だった。


 △▼

 まるで最近流行っていた恋愛小説みたいな展開だ、とナマエは隣を歩く男の姿をちらちらと盗み見る。別に流行りに限らず、ヒロインが窮地に陥ったところをヒーローが助け、結果的に結ばれるというのは古今東西古くからある恋愛物の王道だ。そんなナマエのヒーローである彼の名前はリハンというらしく、詳しくは語らなかったけれどその立ち居振る舞いからして軍に籍を置いているのかもしれない。見上げるたびにあまりのかっこよさについつい頬が緩みそうになり、ナマエは意識してぐっと口元を引き締めなければならなかった。今日はたまたまお休みだったのだろうか、こんな普通の本屋で軍属の方に出会えてしまうなんて、変な男に絡まれたのもどうでもよくなるくらいラッキーだ。

 ここカキン王国においてお国を守る兵士様というのは、男性のみならず女性からも憧れられる花形の職業である。何より皆が見て見ぬふりをする中、颯爽と現れて妙な男を撃退してくれたところも乙女心にクリーンヒットだった。
 カキンの伝統的な髪型であるべん髪もとてもよく似合っていて、寡黙であり全体的には硬派な印象。しかしその心は正義感に厚く、親切で頼りがいのある男性なんて、まるで物語の中から抜け出してきたみたいだ。

 つまり何が言いたいかと言うと、ナマエは実にあっさりとリハンに心を奪われてしまったのだ。元が王子様とお姫様の出てくる童話を好む、夢見がちな恋愛体質であったせいだというのも否定しないが、とにかく彼の厳めしい容姿や物静かな雰囲気もナマエの好みをよく押さえている。そんなドストライクな男性から危機を救ってもらって、運命だと思わないほうが難しいだろう。やっぱり七人の小人たちイッツマイスモールワールドはナマエに幸運をもたらしてくれるのだ。幼少期から寂しがりなナマエにだけ見える、ナマエの心のお友達。“怒りんぼう”が出たときはトラブルに巻き込まれやすいのであまり嬉しくはなかったけれども、こんな素敵な出会いがあるなら大歓迎だ。

 さて、ナマエはいっそ挙動不審なまでにそわそわしながら、これから彼とどうやって仲を深めていけばいいのだろうかと頭を悩ませていた。とりあえずお礼としてカフェに誘ってみたはいいが、その道中ずっと無言というわけにもいかない。こっちは彼の横顔を盗み見るだけで楽しかったけれども、それではきっと彼が退屈してしまうだろう。でも初対面だし盛り上がれるような共通の話題というと……。
 ナマエは二人が出会った場所を思い出して、忙しい仕事の休日に本屋に来るくらいなのだから、きっと彼も本を読むのが好きなのだろうと当たりをつけた。

「リ、リハンさん」
「なんだ?」
「えっと、その、リハンさんはどういう小説を好まれるんですか?」
「……そうだな。推理小説などを少し。ただあまり有名ではないものの方が好ましいな」
「そうなんですね、私はついつい話題作ばかりに手を伸ばしてしまうので、何かおすすめがあれば是非教えてほしいです」
「いや、悪いが正直そこまで詳しいわけではなくてな……オレのことはいいから、君のことを教えてくれ」
「わ、私ですか?」

 ほんの軽い話題振りのつもりだったのに、予想外の切りかえしがきて泡を食ってしまう。けれどもそんな風に言うなんて、リハンの方もナマエに興味を持ってくれているということだろうか。でも、なんて答えれば? ナマエが好きなのは主に恋愛小説だが、リハンがそんなものを読むとは思えないし会話が広がらない気がする。かといって嘘をついてもしょうがないし、あぁ、こんなときこそ“先生”が出てくれれば……!

 そう願った瞬間、ナマエの心の呼びかけに応えるようにぽん、と足元に小人が出現する。彼らは全員で七人いてそれぞれ性格が違うのだが、ナマエが必要だと思ったときにランダムで現れてその性格にあった“特殊な幸運”をもたらすのだ。効果の規模や範囲、得られる結果は様々だけれども、効果が終わるまでは消えないし効果が終われば勝手に消える。先ほどの“怒りんぼう”はリハンとの出会いという素敵なプレゼントをもたらしてくれたので次は出ないだろうが、はてさてお次の小人さんは……。
 
「あ、あの……リハンさん、もしかして見えてます?」
「いや」

 口ではそう言ったものの、彼は細い目をさらに細めて、食い入るようにナマエの足元を見つめている。出てきた小人は“照れすけ”だったが、リハンのあまりに熱い視線にもはや照れを通り越して怖がって隠れてしまった。「え、見えてます……よね?」これまでナマエ以外に小人の存在に気が付いた者はいない。言っても信じてもらえないし頭がおかしいと思われるのがオチだから、他人に話したこともなかった。けれどもリハンの様子は明らかに“見えないはずの何か”が見えているようだし、運命で結ばれた関係性ならナマエの心のお友達も見えてしまうのかもしれない。そう思うと初めての理解者の登場とそのロマンティックさに、心臓が恐ろしい勢いでどくどくと脈打つのを感じた。

「あ、あの、私にも見えているので……! 頭おかしいとか思いません! 私、昔から童話が好きで、それで今でも小説は恋愛ものが好きで、あ、この子は“照れすけ”っていうんですけど、」
「危ないっ」

 混乱しすぎて好きな小説の話と小人の説明がごっちゃになって自分でも何を口走っているのかわからなくなり始めた矢先だ。不意にリハンに強く腕を引かれて、ナマエはそのまま彼の胸の中に飛び込む形になる。「え、あ……」どうやらすっかり運命に気を取られていたナマエは信号が赤になっているのに気づかず、横からやってきて来たトラックにあわや衝突というところだったらしい。しかし自分が死にかけたことよりも今この状況の衝撃の方が強く、ナマエはぷしゅうと湯気が出そうなほど真っ赤になった。そしてリハンのほうも助けるためとはいえ、結果的に大胆な行動になってしまったからか、酷く気まずげな、苦々しい表情をしていた。

「……っ、なぜオレは……」
「あ、あ、ありがとうございます! すみません、私ったら……え、えっとその、もう大丈夫なので……」
「あ、あぁ、すまない」

 足元で“照れすけ”が、役目を果たしたとばかりにすうっと消える。確かに非常に嬉し恥ずかしい幸運をもたらしてはくれたのだが、一歩間違えばナマエは死んでいたのではないだろうか。“怒りんぼう”のときもそうだったが、リハンが絡むとなんだかトラブルの規模が大きいような気がする。もっとも恋に障害はつきものだと思っているので、リハンが慌てて身を離した後もナマエはしばらくふわふわとした夢見心地であったのだけれど。

「君はあまりこの手の事に向いていないようだな。“周り”のことももっとよく見たほうがいい。何がカキンの為になるのか、今一度考えるべきだ」
「え? は、はぁ、気を付けます」
「明日の同じ時間に、さっきの本屋で会えるか? オレは君を救えるかもしれない……いや、これは単なるオレのエゴか。とにかく明日、あなたを待っている」
「は、はい、わかりました! 必ず!」

 ナマエにはリハンの言っていることが全然理解できなかったが、そもそも心が浮ついて頭が回っていないのだから仕方がないのかもしれない。それよりも明日も彼に会えるのかと思うと嫌でも顔がにやけてしまうし、“君を待っている”なんてすごく素敵な響きだ。こんな口説き文句を言われて、どきどきしないほうがどうかしている。

「あれ、でも、カフェは……?」

 早足で去って行く彼の背中が雑踏に紛れて消えた頃、ナマエはようやく我に返って一人ぽつりとそう呟いたのだった。

 ▼△

 ナマエという女は果たして本当に敵なのだろうか。仮にそうだとしても、彼女は騙されて上手く利用されているだけなのではないだろうか。
 
 昨日からそんな益体もない考えが浮かんでは消え浮かんでは消え、リハンをずっと悩ませている。もちろん、真実がどうであれ異邦人プレデターはリハンの体内で育ち、既に獲物を狩りとる瞬間が来るのを待ち構えているのだが、それでもやはり心情的な問題で彼女のことを悪く思いたくない自分がいるのだ。
 
 こんな相談は当然他の仲間にはできなかった。それどころか冷静な自分がいくらなんでも腑抜けすぎではないか? と脳内で冷笑している。何が誇りだ、何が忠誠心だ。昨日知り合ったばかりの女に――しかも警戒すべき念能力者に、心を動かされてしまっている自分が情けない。昨日だって、別に彼女が車に轢かれるところを助ける義理はなかった。リハンの正義はベンジャミン様と彼を慕うカキンの民へと向けられるものであって、ベンジャミン様に仇なす相手やその覇道の障害になりえる者共には一片の慈悲すらも必要ないと思っているのである。それなのに危機に瀕した彼女を見るとつい勝手に身体が動いてしまって、おまけに“周りのことをみたほうがいい”などと絆されかけているのが丸わかりな忠告までしてしまった。あれがもしも第二王子の派閥の人間だったなら、リハンの甘すぎるやり方に内心で腹がよじれるほど笑ったことだろう。刺客として王子から派遣されるような人間が、敵に忠告されたところでそう簡単に寝返るわけがないのだから。
 
 しかしリハンは何もナマエの可憐さに惑わされ、彼女が継承戦に無関係、もしくは関わりの浅い人間なのでは? と埒もないことを考えているわけではない。共に過ごした時間はほんの僅かだったが、彼女の身のこなし、纏うオーラ、発言、そのどれをとっても訓練された人間のもののようには到底思えなかったからである。もちろん、それらすべての素人臭い振る舞いはリハンを油断させ、欺くための行動なのかもしれない。けれども感謝と憧れを含んだ眼差しや恥じらう表情、嬉しそうな声色は単に偽りであると切り捨てるにはあまりに……そう、あまりに心がこもっているように感じられたのだ。ただそれが己の希望で歪められた印象なのかどうかは、もはやリハンの優れた洞察力を持ってしても推し量ることはできなかったが。

「……我ながら、随分と情けない」

 とはいえ、いくらあれこれ頭を悩ませようと、約束の待ち合わせの時間までもうあと十五分ほどしかなかった。リハンは本屋にはおらず、ちょうど本屋の入り口が見通せる斜向かいの薬屋から彼女が現れるのを今か今かと待っている。彼女が来たらリハンはもう、自身の能力を使用するのだと決めていた。彼女が本当に敵なのかどうかは、無力化してから考えればよい。ベンジャミン様に脅威が及ぶ可能性がある以上、リハンはどんな些細な疑いの芽でも摘み取るべきなのだ。

 そしてナマエの念能力を推測することは、彼女自身がヒントをぽろぽろとこぼしていたため――むしろ聞きすぎて異邦人プレデターが使えなくなるのではと焦ったくらい――そう難しいことではなかった。能力はおそらく具現化系で、小人の形をした念獣を作り出すこと。彼女が童話好き、小人の名前が“怒りんぼう”“照れすけ”であることから、西側の大陸で描かれた“しらゆきひめ”の童話をモチーフにした念能力なのだろう。もしそうならば、小人はあれら以外にあと五人。そして“怒りんぼう”で彼女が怒り狂った男に絡まれていたこと、“照れすけ”でリハンに庇われ真っ赤になっていたことを考えるに、童話になぞらえた小人の性格に合わせた事柄が彼女の周囲にふりかかるのだと思われる。

 ただそこでひとつ引っかかるのは、もしかすると彼女は小人の種類やそれによっておこる結果を自分の意思では選べないのではないだろうか、ということだ。“怒りんぼう”も“照れすけ”での結果も、リハンがいなければ彼女にとっては喜ばしくない事態になっていただろう。前者は刺客として出会いのきっかけが必要だったということなのかもしれないが、それにしてもリハンが仲裁に入るかどうかは運任せ。継承戦絡みの謀略だとすれば、随分と杜撰な印象を受ける。戦闘向きではないのはわかるが諜報向きでも暗殺向きでもない。失敗が許されない任務に運の要素を取り入れるなど、愚の極みでしかないからだ。そしてそういう点も、彼女は無関係なのでは? とリハンに思わせる理由の一つなのであった。

「来たか……」

 やがて、時計の針が待ち合わせのきっかり五分前を指したころ。リハンは昨日以上に華やかな可愛らしい装いで本屋の前に立った彼女の姿を視界に捉えた。おあつらえ向きに彼女の足元には昨日の二体とはまた異なる眼鏡をかけた小人がくっついていて、リハンの推測が正しいのならあれは“先生”という名前のはずだ。効果は助言か、忠告か。本来ならば厄介な効果の小人だが、既に異邦人プレデターが完成している今、いかなる能力だろうと捕食から逃れる術はない。これで全て終わりだ。この、くだらない迷いや悩みも何もかも……!

 (いでよ、異邦人プレデター……!)

 リハンの能力は、相手の能力に対する“天敵”を作る。そのため、ナマエの“しらゆきひめ“の小人をモチーフにした念獣に対し、生まれた異邦人プレデターが醜悪な色を帯びた毒リンゴの形状を取ったのはある意味正しい結果なのだろう。リハンの腰丈ほどもある巨大なリンゴには化け物じみた大きな口と鋭利な牙を幾本も持ち、ごろりごろりと転がって彼女のほうへ向かう様はまさに恐怖映像だ。そして念能力者である彼女には、リハンの出した異邦人プレデターがしっかりと見えてしまう。

「きゃああぁああ!!」

 白昼響いた女の金切り声は、待ちゆく人々の足を嫌でも止めさせた。しかし、彼女以外の誰にもあの光景は見えていないのだから、それこそ突然発狂した頭のおかしい女にしか思われない。勢いよく転がってくるリンゴに彼女も彼女の小人も慌てふためいたが、決着は一瞬。ばくりとあっけなく飲み込まれてしまった。そして一体の小人が飲みこまれて消えてしまうと、入れ替わるようにして次の小人が具現化される。「いやっ! だめ! だめよ!」これは彼女の意思で具現化されているわけではない。リハンの想定が“七人の小人”であるために、このリンゴは七人全てを問答無用で引きずり出し、全てを完全に平らげるまでその暴虐の手を緩めることはないのだ。

「いやぁ……どうして……だめよ、だめなの」

 次々と目の前で小人が捕食されていき、ナマエの混乱と絶叫は傍目にも痛々しかった。念獣を作るタイプの能力者は無機物を具現化する者より、自分の作り出した相棒に愛着を持っている場合が多い。それは形状が変わるとはいえ、同じように念獣を作るリハンにも理解ができる心情だった。が、同情で見逃すことはできない。得体のしれない念能力者の存在はカキンでは大きな脅威だ。せめてもの救いは異邦人プレデターが小人を襲うことはあっても術者のナマエを害することがないということで、念能力さえ失えばリハンは彼女を“敵”として危険視しなくてもよくなる。そして仮に彼女がどこかの王子の派閥に利用されていたのだとしても、念がなくなればこの厄介な戦争から一足先に離脱することができるのではないか。彼女には継承戦に関わらず、念能力も知らず、ごく普通の人生を歩んでほしい。もはや最後のそれは完全なるリハンのエゴだったが、そう思わずにはいられなかった。

「いやだ、助けて、リハンさん!」
「……っ」

 しかし突然叫ばれた自身の名に、リハンは柄にもなく動揺した。自分がこうして死角になる位置から事の一部始終を見届けていることなど彼女は知らないはずである。まさかこれが全てリハンの仕業だと気付いたのだろうか? でももしそうなら敵に助けを求めるのはどう考えてもおかしい。「助けて……私の小人さんたちを助けてよぉ」彼女の悲痛な叫びは信じられないくらいリハンの胸を締め付けた。今まで数多の任務で様々な人間を闇に葬り去ってきたときには抱かなかった胸の痛みが、確かに自分にも心はあったのだと気付かせる。ウショウヒほどではないがリハンだって自分の推測が見事に当たり、標的を排除できた瞬間は言いようのない達成感と充実感に包まれるのが常だったのに。

「う、ううっ……みんな……みんな食べられちゃった……“先生”、“怒りんぼう”、“照れすけ”、“ねぼすけ”、“くしゃみ”、“おとぼけ”、“のんきや”……みんな、みんな……」

 今やそうして悲嘆にくれ、往来に蹲るナマエに近づく者は誰もいない。彼女の悲しみの原因を作り出し、その結果を全て見届けたリハンの他には、誰も彼女に声をかける者はいなかったのだ。「ナマエ……」しかし、当のリハンとて、名前を呼んだっきりその先彼女にどんな言葉をかけていいのかわからなかった。そもそも敵かもしれない相手に声をかけるという発想からして間違っているのだが、リハンに近づいた目的や王族との関わりを問いただす前に、何か一言、慰めの言葉をかけるべきなのかと迷ってしまった。

「……リハンさん? あの……私、」
「オレがやった」
「え?」
「オレがやったんだ。ナマエの小人を襲わせたのはオレだ」

 リハンの口から出た言葉は、涙にぬれた頬を晒す彼女をさらに絶望に叩き落とす内容だった。実際、よく考えなくてもリハンが彼女を泣かせたのだから、今更慰めなど片腹痛い。それならばせめて、罪を明らかにすることこそがリハンできる精一杯の誠意であると思った。敵ならばそれでよし。そうでなければ、憎んでもらって構わない。「……どうして?」呆然としたように疑問を零した彼女はきっと、いや、悲しいことに本当に“無関係”のようだった。

「どうして、どうして、そんな酷いことをしたんです! あの子たちは、何も悪いことなんてしていなかったのに!」
「……オレは第一王子殿に仕える身。カキンの国はこれから王位の継承をめぐって荒れる。そんな中、近づいてきた特殊な能力持ちのナマエを刺客だと思ったんだ」
「そんな……」

 確かに内乱に乗じられることがないよう表向きは仲のいい王家を演出しているが、あれだけ兄弟がいれば不和があること自体は想像がつくだろう。ナマエはリハンの言葉を聞いて苦しそうな表情になったかと思うと、聞いてくださればよかったじゃないですか……と呟いた。しかしそれが無茶な話であるというのは、彼女もきっとわかっているのだろう。声は小さく、かすれるようなものでしかなかった。

「私は、第一王子様に敵意を持つ者ではありません。どの王子様とも関わったことはありません……あの子たちは、私が物心ついたときには存在していました。私の、両親が早くに死んで親戚中をたらいまわしになっていた私の、心の友達、心の家族でした」
「……」
「今日、ここに来る前に“先生”に言われたんです。『誤解があってはいけないから、正直に話しあうことが必要だよ』って。あの子は……あの子はいつも私に素晴らしい助言をくれました……今となっては、もう遅いけれど」

 静かな糾弾は、激しく叩きつけるようなものよりも一層深くリハンの心に沁み込んだ。とうに捨てたはずの罪悪感から、ついつい謝罪が口をついて出そうになる。だが今更謝ったところで彼女の小人がかえってくることはないし、自分のこの選択が第一王子私設兵として間違っていたとは思わない。彼女とはきっと、歩む道が違ったのだ。開き直りと言われればそうだが、リハンの胸を占めていたのはどうしようもないやるせなさと一抹の寂しさだった。彼女を笑顔にできる男であれば、一体どれほどよかったか。

「……憎んでくれて構わない。ただもう、君と関わることはないと思う」
「いやです。まだ話は終わっていません」
「わかった、気が済むまで君の話を聞こう」
「違います。私も正直に話しますから、あなたも正直に話してください!」

 正直に、と言われて、リハンは一瞬たじろいた。そう言われても軍の機密や自身の能力に関することは明かせないし、一体彼女は何を知りたいというのだろう。彼女の小人を消した理由は先ほども述べた通り、“彼女を刺客だと判断した”からだった。疑わしきを罰しただけでそれ以上でも以下でもない。
 ナマエはごし、と乱暴に袖口で目元を拭うと、泣き腫らした瞳で真っすぐにこちらを見た。

「私は本屋で男の人に絡まれた時、リハンさんが助けてくださって本当に嬉しかったんです。それこそ、王子様だって思ったんです」
「お、王子……」
「だから、カフェにお誘いしたのもお礼の気持ちもあったけど、本当はもっとあなたに近づきたくて……車に轢かれそうになったときも助けてくれて、すっごくすっごくどきどきしたんです!」

 おそらく彼女は今や遺言と化した“先生”の助言を守るつもりなのだろうが、いきなりそんなことを言われてリハンが面食らわないわけがない。明け透けな彼女の言葉はこれまで謀略の中にばかり身を置いてきたリハンには圧倒的な暴力そのものであったし、これと同等の正直さを求められるのかと思うと既に眩暈がしそうだ。「あと、純粋に見た目がものすごく好みでした!」混乱と羞恥で、体温がぐんと上昇するのが自分でもわかる。とにかく何か言わなければ――。そう思ったとき、口から自然に漏れていたのは「オレもだ!」という熱い共感だった。

「オレも、一目で君に心を奪われた。だからこそ余計に、刺客なのかと……! 出会い方もまるで物語のようだった。こんな出来た話があるわけないと、そう思った!」
「あります! 私の“怒りんぼう”はトラブルを呼び寄せるけど、最終的には私に幸運をもたらしてくれるんです!」
「だが……! だが、あそこでオレに出会わなければ、ナマエは家族を失わずに済んだのだぞ!?」

 この出会いが彼女にとって“幸運”なはずがない。それが自分の信念に基づく行為だったとはいえ、リハンは彼女の大事な友人を、家族を奪ってしまったことには変わりないのだ。その事実は想像以上にひどく胸にのしかかかり、もはや後悔をすることさえ自分には許されないのではないかと思う。

「謝ることはできない……だから、憎んでくれていいと言っている」
「ずるいです」
「……わかっている」
「いいえ、わかっていません! だって、憎むだけでは私ばっかりあなたのことを忘れられないじゃないですか! そんなのってずるいです!」
「なにを……」

 それまで真剣な表情だったナマエは力強い言葉とは裏腹に、そこで不意にふわりと笑った。「償ってください」まだ長いまつ毛が乾ききってもいないくせに、つい先ほど大事なものを失ったばかりだというのに、それはそれは儚げで綺麗な笑顔だった。

「私の大事なあの子たちを消した代わりに、あなたが私の大事な人になってください」
「……だが!」
「言ったでしょう、あの子たちは私に幸運をもたらしてくれるって。あの子たちがくれた最後の幸運はきっとリハンさんだと思うんです」
「っ……!」

 それを聞いた瞬間、負けた、と思った。任務は完璧に遂行した。それなのに完敗だと思った。彼女がどこかの王子の手の者でなくて本当によかったと思う。これほど強く美しい意思に彩られた瞳は見たことが無い。儚さの中に強さを併せ持っているなど、こればかりはリハンの洞察力でも見抜けなかった。
 
「……っ、わかった。まずは君の心の友人にならせてほしい。それでどうだろうか」
「ええ、喜んで」

 再び泣き笑いのような表情を浮かべた彼女に、リハンはまた焦った。まさか真っすぐにぶつかられたほうが対処に困るなんて……。


 結局、その後に聞いたナマエの能力はリハンの予想でほとんど正解だったそうだ。ただ一点だけ彼女の説明に異議を唱えるならば、それは小人が術者の彼女に幸福をもたらすという部分。以前は行けなかったカフェに行き、冷たいおしぼりで目元を冷やしたナマエを見ながら、リハンは自分の中にしっかりと芽生えた新たな感情に心地よく浸っていた。偽りや飾りの要らない語らいはくすぐったくてまだ少し落ち着かなかったが、決して不快なものではない。そして彼女が望むのなら、一生かけて彼女を幸せにしようと思う。

 しかしそうなるとやはりナマエの小人たちは、彼女だけでなくリハンにも幸福をもたらしたことになるのだった。
 別にこの予想外れに関しては、まったくもって嬉しい結果でしかなかったけれども――。


[ prev / next ]