- ナノ -

■ 不束者の二日

 
 勢いよく立ち上がったナマエの頬は、抑えきれない怒りの為に紅潮していた。いつもは優し気な印象をたたえている目じりがきゅっと吊り上がり、微笑んでばかりだった唇は拒絶を表すように真横にきつく引き結ばれている。しかし彼女はその場で感情をまき散らすようなことはせず、ぷいとそっぽを向いて足早に扉の方へと向かった。

――ナマエ、待つんだ
――いいよもう。話し合ったって、どうせクラピカは意見曲げないでしょ
――それはナマエが無理なことばかり言うからだ。だいだい、そうやってすぐ逃げようとする君の態度にも問題があるんじゃないのか?

 華奢な背中に言葉をかければ、彼女はノブに手をかけぴたりと動きを止めた。クラピカの声に呆れだけでなく、険のある響きを感じ取ったからかもしれない。事実、その時のクラピカは自分でも驚くほど彼女に苛立っていた。急き立てられるような焦燥を感じ、つい責めるような態度になる。

――だって、私はただ……
 
 くるりとナマエが振り返って、クラピカはさらに彼女を糾弾しようとした。今となってはもう何を言おうとしたのか、そもそもの喧嘩の原因がなんだったのか、クラピカは思い出せない。覚えているのはこちらを向いたナマエが今にも泣きだしそうな顔をしていた、それだけだった。

――クラピカのばか! もう知らない!



 ぱちり、と目を覚ましても視界はまだ薄闇に覆われていた。のろのろとソファーベッドから身を起こし、携帯に手を伸ばせば、画面に表示された時刻は午前三時を少し過ぎたところ。クラピカは新年だろうが祝いの席だろうが羽目を外すタイプではなかったが、さすがに連日の疲れが出たのだろう。ネオンから占いの能力が失われた今、ファミリーの若頭として社交もおろそかにはできない。
付き合いで飲んだ酒がまだ残っているようで悪心がした。しかし気分が優れないのは酒のせいだけではなく、今見たばかりの夢のせいだろうと思った。

――あけましておめでとう。この前連絡したばっかだけど、代わりに挨拶するようゴンから頼まれてたから一応な。オレも試験が終わったらまたすぐG・Iに戻る。ま、クラピカも頑張れよ。今年もよろしく。

――あけましておめでとう。全然連絡よこさねーけど、ちゃんと飯食って寝てるか? こっちは受験に向けていよいよラストスパートってとこだが、試験が終わったら少しそっちに遊びに行くことも考えてる。絶対朗報を届けてやるから待ってろよ。それから、今年はちゃんと電話に出ろよな。

 昨日届いたメールは、どちらも実に彼ららしい内容だった。ゴンだけは新年をG・Iの中で過ごしたようだが、そうでなければきっと元気いっぱいの挨拶が届いていたことだろう。
 クラピカはもう一度眠る気にもなれず、届いたメールを読み返す。不精なのはわかっていたが、元旦当日は何かと忙しくて返信はまだしていなかった。普段の連絡ならともかくも、こうした節目の挨拶まで蔑ろにするのは流石に呆れられただろうか。

――あけましておめでとう。忙しいのはわかるけど、あんまり無理しないでね。イズナビ師匠も口では素っ気ないことを言いつつ、なんだかんだクラピカのこと心配してます。またいつでも連絡ください。今年もよろしくね。

 受信箱に入っていたナマエのメールは、夢で見た彼女の様子とは違って実に控えめでこちらを気遣う内容だった。そもそも姉弟弟子にあたる彼女とは念の修行のために半年ほど共に生活したが、その中でクラピカは彼女が怒るのをただの一度も見たことが無い。それは二人の関係が進んでも変わらず、ノストラードに入ったクラピカがどれだけ彼女を放置しようとナマエはクラピカの薄情さに愛想を尽かしたり責めたりするようなことはなかった。
 しかしだからこそ、先ほど見た彼女と口論する夢が、泣き出しそうな顔をした彼女が、脳裏にこびりついて離れない。しかも深夜とはいえ今日は一月二日なのだから、あれが初夢ということになるのだろうか。放っておいたのは自分のくせに、縁起でもないと焦燥がこみ上げる。
 気づいた時には、クラピカはメールを閉じて彼女に電話をかけていた。

 長く繰り返されるコール音は、時間を考えれば当たり前だろう。しかし焦れてしまうのはとめられず、クラピカは指でソファーの肘かけ部分をとんとんと叩く。ぷつ、と繋がる音がしてもしもし? と彼女の声が聞こえるまで、物凄く時間がかかったように思えた。

「もしもし? クラピカ? 何かあったの?」
「いや……」

 けれどもいざ彼女に要件を聞かれると、クラピカは返事に困ってしまった。こんな夜中に電話をかけるなんてただ事ではないと思われただろうし、現に彼女の声はやや不安そうな響きをはらんでいる。それだけでなくすぐさま“何かあったの?”と言われるのは、コミュニケーションとしての連絡を、他愛のない恋人同士の会話を、普段のクラピカが怠っていた証拠に他ならない気がしたからだ。

「すまない、こんな時間に」
「ううん、いいけど……どうしたの?」
「メールをくれただろう、それで……それで新年の挨拶をしようと思って」

 我ながら苦しい言い訳だった。案の定、電話の向こうでナマエが戸惑っている気配がする。しかし彼女はそっか、と呟くと、それから元気そうでよかった、と笑った。

「でもびっくりしたよ。こんな遅くまで仕事だったの?」
「いや、ふと目が覚めてしまったんだ」
「そう。さすがに師匠はもう寝てると思うから、とりあえずクラピカから連絡あったって伝えておくね」

 じゃあ、となんとなく終わりそうになった会話を、ナマエ、とクラピカは呼びかけて引き止める。短いやり取りを寂しく思ってしまうのは身勝手に違いなかったが、あの夢は思った以上にクラピカを不安にさせたようだった。

「その……もう少し声が聞きたい」
「えっ!? あの、やっぱり何かあった?」
「……久しぶりに恋人と話がしたいと思うのはおかしいか?」
「お、おかしくはない……」
「……」

 自分で言っておいて、じんわり顔が熱くなる。今更恋人面をするのも少し決まりが悪かったし、気恥ずかしくもあった。いっそナマエがそう言ってくれればクラピカも開き直れたが、ナマエはいつにないクラピカの様子にすっかり呑まれてしまっている。緊張はいやでも伝わってきて、クラピカは持っていた携帯を握りなおした。

「ナマエのな、夢を見たんだ」
「うん」
「君と喧嘩する夢だった。私は君を泣かせてしまったと思う」
「……喧嘩の内容は?」
「さぁ、わからない。とにかく君も私も真剣に腹を立てていて、君は私の前から去ろうとした。そこで目が覚めた」

 怒りと焦りと胸を突かれるような痛みは鮮明に覚えているのに、肝心の喧嘩の内容は思い出せない。だが、夢というのは得てしてそういうものだろう。話してしまうとくだらない内容だったが、不思議と気持ちが落ち着いた。「それで、」ナマエはそこでやっと少し笑った。

「それで、こんな時間に電話してきたの? 私が怒っているかもしれないと思って?」
「……君は笑うかもしれないが、正夢になるのは避けたかったんだ」
「初夢だし?」
「あぁ」

 今更になって恥ずかしさがこみあげてきて、クラピカはそれを誤魔化すように力強く頷く。声しか聞こえてなくてよかったと思った。今の表情はあまり見られたくない。
 ナマエはまだたっぷりとおかしさを残した声色で、大丈夫だよ、と言った。

「恋人と喧嘩する夢は逆夢だから、これからもっと分かり合えたり今の関係から進展したりするって意味だよ」
「そうなのか?」
「うん。だってその夢のおかげで、こうやってクラピカの可愛い一面を見られたんだし」
「な! か、可愛いって!」

 まさかそんな反応をされると思わず、何と言っていいのかわからない。可愛いと言われるのは心外だった。ましてや一番男として見られたい相手に、女子供のように愛でられるなんて。

「ナマエ、」
「ん?」
「これからも忙しくて、連絡はとれないかもしれない。あまり恋人らしいこともしてやれないだろう。ただ――」

 身勝手なのは百も承知。本来ならば不束者ですが、とこちらが頭を下げねばならないくらい至らない恋人だったが、それでも彼女を手放したくないと思うのはどうあがいても本心だった。

「好きだ、それだけは伝えておく」

 電話の向こうでナマエがはっと息を呑んだのがわかった。あまりこうしてはっきりと愛情を口に出す機会はなかったが、夢の通りならばもう少し関係の進展を望んでもいいだろう。夢を見たときはつらかったが、あれが逆夢なら何も心配することはない。

「うん……私も。だから今年もよろしくね」

 恥ずかしそうなナマエの声に、可愛いのはそっちだろう、と言いたくなる。けれどもクラピカは微笑みを浮かべると、当初の言い訳通り、ひとまず新年の挨拶を送ることにしたのだった。

「あぁ、今年もよろしく、ナマエ」


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