- ナノ -

■ あたらよの殉情

 夜は暗いから嫌いだ。そう言うと、だから都合がいいと鼻で笑われた。
 夜は寒いから嫌いだ。そう言うと、寒いのは季節のせいだろと呆れられた。
 夜はすぐに終わるから嫌いだ。そう言うとわずかに眉を動かして、それなりの付き合いだからこそぎりぎり察せられる程度に怪訝そうな顔をされた。

 嫌いな夜がすぐに終わるのは喜ばしいことだろう。矛盾している。そう指摘されれば、ナマエは曖昧に苦笑するほかなかった。笑って、誤魔化して、肩を竦めて。そのうちに他愛のないお喋りは夜の静寂に吸い込まれ、冷えきった、もはや作業にも等しい散文的な仕事が始まる。そうなれば沈黙を埋めるためだけの会話はさっさと思考の外へと追いやられ、二度と顧みられることはない。わざわざ深堀りするほどの重要な話題でもなければ、取り立てて興味や関心を引く内容でもないからだ。いや、彼が真に関心を持っていないのは、話の内容ではなくナマエそのものなのだろう。仕事が終われば彼はじゃあね、と短く言葉を残して闇に溶ける。ただそれだけだ。今日はたまたま味方だったが、商売柄いつ敵対してもおかしくない。お互い、明日生きているとも限らない身だ。そう考えるとまたね、よりもじゃあね、の方が挨拶としては相応しい。だからナマエもごくあっさりとじゃあね、と返すのだ。
 いつもこうしてナマエの嫌いな暗く寒く短い夜は、何の余韻も残すことなくすぐに明けてしまう。
 嫌いな夜が終わってしまえばあなたに会えないから、だから嫌いなのだと、告げる勇気を固める時間も与えずに――。



「これで終わり?」

 栗皮色のプレジデントチェアに腰かけた男は、まるでうたた寝でもしているかのように穏やかに絶命していた。一滴の血も流さず、断末魔の悲鳴すらもあげることもなく訪れた終わりは、大金を積んで殺し屋を差し向けられるほど恨まれた人間にしてはむしろ贅沢すぎるほど安楽で迅速な死だっただろう。
 ナマエは冷ややかに男の死体を一瞥すると、一転してこの死体を作り出した暗殺者に熱の籠った視線を向けた。それは初めは尊敬や憧憬と言ったごくごく無害な感情だったのかもしれないが、今は意識して水晶体の奥底に封じ込めねばならないほど大きく危険なものへと育ちきっている。
 悟られてはいけない。気づかれれば、おそらくこの関係は終わるから。ようやく手にした糸のように細い信頼を、僅かな夜を積み上げることで得た気安さを、ナマエは手放したくなかった。だからこの感情は危険でしかなかった。

「終わりだね。ナマエの手を借りるほどでもなかったな」
「今更キャンセルは効かないからね」
「はは、わかってるよ」

 イルミは湿度を感じさせない声で言葉の上だけ笑った。が、実際これまでにナマエの手が本当に必要だった依頼があるかと問われれば微妙なところだろう。慎重で完璧を求めるイルミだからこそ石橋を叩くための槌としてナマエを呼んでいるのかもしれないが、仮にナマエがいなくてもイルミは失敗したりしないと思う。しかしそれを言ってやるほどナマエは親切ではなかった。イルミは必要に応じてナマエを呼び、幾ばくかの報酬を払う。ナマエはそれを受け取り、望まれたとおりに依頼の補佐をする。双方が納得していればそれで万事問題のない関係だった。これまでずっとそうだったように、今日も終わり。夜はいつだってナマエの気持ちを斟酌してはくれない。はぁ、と今にも零れそうなため息を呑み込んだ時、送金の為に携帯を取り出したイルミが、あ、と珍しく声をあげた。

「ねぇナマエ、この後予定空いてる?」
「え、空いてる……けど、」

 動揺と僅かな期待がナマエの唇を震わせ、絞り出すように返事した。視線を画面に落としたままのイルミは、ナマエの緊張には気づかず言葉を続ける。「あーよかった。じゃあちょっと付き合ってくれない?」当然イルミの誘いをナマエが断るはずなかった。思いもよらず延びた夜に内心で浮足立つ。冷静に考えれば今の二人の関係性やイルミの性格から考えて、これがプライベートな誘いであるはずがないのに、だ。

「今更追加で注文があってさ、この男の指でしか開かない静脈認証の金庫が見つかったらしい」
「……あぁ、それで一時的な“蘇生”が必要ってこと」
「うん。死体を操作するだけじゃ不十分みたいなんだよね」

 イルミの操作能力の対象はあくまで生きている人間だ。針を刺されたことにより廃人になり、結果的に死ぬとしても、操作する段階でその人間は必ず生きていなくてはならない。しかしターゲットはもうとっくに絶命していて、今更この死体を生きている人間のように操ることはできなかった。ましてや死体を死体のまま動かすだけでは、血流をも感知する静脈認証は突破できない。

「でもナマエならできるよね? 金庫は別の場所らしいんだけど」
「うん。この状態なら問題なく動かせるのは二、三時間ってとこかな。私が直接手を下したわけじゃない死体は死後硬直の進行には逆らえない」
「それだけあれば十分だよ」
「……」
「どうしたの? 他に何か懸念でもある?」

 いや、とナマエは口ごもった。ナマエの能力はイルミとは逆で死体専門。“蘇生”させて傀儡とするのだから、前提条件として対象は死んでいなければならない。そして傀儡を自由に長時間動かすためには自ら命を奪ったほうが都合がいいというだけで、金庫を開ける程度のことならば何も問題なかった。

「……大丈夫。任せて」
「そう? じゃあよろしく」

 ナマエは頷くと同時に面を伏せた。お門違いの失望をイルミに気取られたくなくて、すぐさま死体に向き直る。勝手に期待するくらいなら、自分から誘えばいいのだ。その勇気もないくせに落ち込むのは図々しいというものだろう。
 男の死因である米神の穴に手をかざし、ナマエはオーラを流し込んだ。疑似の命は延べることができるのに、夜ひとつ延べられない自分が酷く惨めで情けなかった。



 結局、金庫の中身は財産や男の会社の経営に関わる書類など、部外者からすればごくありふれた面白みのないものだった。しかし目的は金庫を開けること自体ではなく、開けて中身の書類を改ざんし、元通りに戻しておくこと。ゾルディック家の本業はあくまで“殺し”だったが、操作系の能力を持つイルミはこうした注文つきの依頼にも対応することがある。ナマエが一時的に蘇生させた男が必要な“身辺整理”を終えるのを見守った二人は、今度こそじゃあね、とお定まりの挨拶を交わして別れるだけだった。いつもそうだからそうなるものだと、ナマエはイルミがこちらに手を伸ばす瞬間まで思い切っていた。

「え、」

 すっと伸ばされたイルミの左手は、動揺して固まるナマエの頬に添えられ、もう片方の手は額に当てられる。背の高いイルミは少し腰を曲げ、ナマエの顔を覗き込むようにした。

「熱はないね」
「っ、な」
「脈は少し早いけど、貧血もない」

 勝手に下まぶたを引っ張られ、そこでようやくナマエは我に返る。羞恥から咄嗟にイルミの手を振り払ったが、彼の方は特に気にした様子もなかった。

「なに、なんなの?!」
「それはこっちの台詞。体調が悪いわけでもなさそうなのに、今日のナマエ変だよ」
「……別に、変じゃない。何でもないよ」
「嘘だね。だったらどうしてずっと目を合わせないの? 何か隠してるだろ」

 そう言って腕を組んだイルミは、珍しく不機嫌さを隠しもしなかった。いつも何事にも関心の薄い彼がナマエの言葉を待つようにじっと見つめてくる。その視線に耐え切れずにまた目を伏せれば、それ見たことかと言わんばかりにため息をつかれた。

「言って」
「……何もないってば。だいたい、イルミには関係ないでしょ」
「関係ないって言うってことは、やっぱり“何もない”わけじゃないんだ」
「……」
「ナマエ、」

 イルミが一歩踏み出し、さらに距離が縮まった。おそらくイルミが想定しているような隠し事はナマエにはないのだが、それを証明する術もなく壁際に追いつめられる。「夜が、」いつの間にかすぐ目の前に迫る想い人に、ナマエは完全に頭が真っ白になった。

「よ、夜が、終わってほしくなかったの」
「……は?」

 元から大きな目を更に見開いたイルミの反応は、至極当然のものだったと思う。かあっ、と顔面に血が上るのを感じたナマエは、それでも一度発した言葉を取り消せずに黙り込む。「夜が終わってほしくない?」確認するように繰り返したイルミは、そうすることで意味を理解しようとしているようだった。

「また夜の話なの?」
「……お、覚えてたの?」
「まあね。夜は暗くて寒いから嫌いなんでしょ。それと、すぐ終わるから嫌いだとも言ってた」

 過去に話した他愛のない発言を完璧に記憶されていて、動揺すると共に嬉しさを感じてしまう。てっきり彼はナマエの話なんて忘れていると思っていた。しかしこうなるといよいよ、イルミはこの話をやめる気がないようだった。再びどういう意味? と詰め寄られ、ナマエは息をのむ。
 だが正面から見つめあって先に口を開いたのは、意外にもイルミの方だった。

「ねぇナマエ、このあと予定空いてる?」
「……へ?」
「空いてる?」
「う、うん、空いてるけど……」

 突然の話に戸惑いながらも頷けば、イルミはじゃあ決まりね、と言った。何が決まったのかわからないナマエは、ただただぽかんと間抜けな顔を晒すしかない。ナマエは口下手で言葉が足りない方だが、イルミは自己完結して言葉が足りないタイプだ。今度はナマエのほうが慌てて、くるりと身体の向きを変えた彼の腕を掴む。

「待って、どういうこと?」
「オレは夜が好きだよ。暗闇は仕事がしやすいし、熱いよりは寒い方が得意だな。あとそれから、ナマエにも会えるし」

 それは――。それは、どういう意味なのか。
 期待を裏切られたくないナマエは喜びだしそうになる心を押さえつけ、イルミの次の言葉を待つ。

「ナマエは夜が嫌いだって言うけど、どうする?」

 けれども、イルミはただ与えてくれるだけのつもりはないみたいだった。いっそあざといと思えるくらいに小さく首を傾げ、ナマエの返事を待つ。そこまでされてようやく、ナマエは夜を延ばす一言を告げる勇気をかき集めたのだった。

「……もう少し、一緒にいたい」

 それは自分でも情けなくなるほど小さな声だったが、正直に望みを告げればイルミが微かに笑ったような気がした。腕を掴んでいた手はいつの間にか解かれ、文字通り彼の手中にある。夜は相変わらず暗かったが、ちっとも寒くなかった。むしろ、火照るように熱い。

 イルミもう一度、じゃあねの代わりにじゃあ決まりね、と頷いたのだった。


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