- ナノ -

■ キッチンシンク・オラトリオ

――次のニュースは最近各地で続発しているUMA騒動の続報です。今のところヨルビアン大陸での被害に限られていますが、人語を解する非常に凶暴な生物が多数撮影されており、民間人や現役の警察官、軍においても数多くの死傷者が出ています。

 家主の許可もなく勝手につけられたテレビは、ナマエが前に消したときのまま、国営放送のチャンネルを映し出す。時間帯的にはちょうど夕方のニュースの時間だったけれど、そうでなくても今はどこの局でも突然現れた未知の生物――食物連鎖の頂点に位置していた人間の天敵となりえるかもしれない“それ”の話題で持ちきりである。
 カウンターキッチンからは料理をしながらでもテレビを見ることができたし、耳を傾けるだけでも十分だったのだが、ナマエはわざわざ野菜を切る手を止めると、食い入るように画面を見つめた。

「おや、ナマエさんもご興味あります?」
「……そりゃあね」

若い女性キャスターがテレビの中で滔々と語るその話は、モザイク処理された鮮烈な映像を伴っていてもやはりどこか現実味に欠けている。しかし虚構みたいな世界はなにもテレビの向こうだけではなく、今現在ナマエの家のソファーで当たり前のようにくつろいでいる男もそうだ。
男――パリストンは派手なスーツのジャケットをソファーの背にかけるだけでは飽き足らず、ネクタイを緩め、靴下まで脱ぎ散らかして完全に寛いでいる。型破りな行動とは裏腹にいつも恰好だけは政治家のようにきっちりとしている彼が、そんな風にだらしない姿をしているさまは何度見ても慣れなかった。

――彼女の上半身は獅子男の一噛みでこの世から消え去りました。変装した人間には決してできない芸当です。怪物は実在します!

 真剣な表情で、力強く語られる怪物の存在。しかしその対応策は見つかっておらず、結局のところ非力な一般人ではせいぜい危険を呼びかけることしかできない。それもそうだ。相手は危険生物評価リストでB判定を持つキメラ=アントで、プロのハンターですら殺されている。パリストンからもたらされた情報ではネテロ会長直々に討伐に向かったそうだが、この男の言うことを百パーセント鵜呑みにするほどナマエも世間知らずではない。ハンターライセンスを奪われ、消えた協専ハンターの一人として世間から隔絶されている今の状況では、何も知らないのとなんら変わりがなかったけれども。

「これだけの被害が出ても、協会はキメラ=アントのことを隠し通すのね」
「協会が、というよりV5の判断でしょう。キメラ=アントの存在は暗黒大陸に繋がりますからね。ある日突然、自分の世界が単なる湖に浮かぶ島だと知らされれば、大きな混乱が起きますよ」
「既に混乱は起きてるわ」
「こんなもの、“全体”から見ればごくごく一部の地域の話ですよ」
「……」

 パリストンは自分でつけたくせにニュースの内容に興味がないのか、リモコンに手を伸ばしてぷつりと電源を切ってしまった。そうなれば彼と話したくないナマエは再び手を動かすしかなく、ニンニクと玉ねぎを無言でみじん切りする作業に戻った。

「今日の献立はなんですか?」
「……鶏肉のオーブン焼きとラタトゥイユ」
「それはそれは。楽しみですね」

こういうとき、対面式のキッチンは不便だ。背後に立たれるのも鬱陶しいが、正面に居座られるのも無視ができず面倒でしかない。このキッチンはバーのようなテーブルが前面にせり出した造りになっており、ソファーから移動してきた彼は客のようにナマエの正面に陣取った。

「うーん、でもニンニクは困るなぁ。僕、明日も協会で仕事があるんですよ」
「もともと“鼻つまみ”者でしょうに」
「おや、上手いことを言いますねぇ」

 ナマエはこれを嫌味で言ったが、パリストンは少しも気にした様子はなく満面の笑みを浮かべる。それは嘘で張り付けられた笑みというよりは、本当に楽しくてたまらないといった雰囲気だった。両手で頬杖をつき、目を細めてナマエの作業を見守る。彼がここにやってきたときはいつもこうだった。料理をするナマエに向かって、彼はとりとめのないことを延々と喋り続けるのだ。協会の自販機のメニューが入れ替わったとかどうでもいい日常の報告から、ネテロが“薔薇”の使用を視野に入れているというような重要な情報まで、脈絡なく真偽も不明な情報をほとんど独り言のように垂れ流していく。その姿はバーでマスター相手に愚痴る酔客というよりも、あのねあのねと些細な出来事を一から十まで母親に報告する子供のようであった。

「これでも、僕は次の会長になれるくらいには人望があるつもりなんですよ? 実際、十二支んメンバーと副会長を兼任しているわけですし」
「図々しいわね」
「そうでしょうか? もし選挙で次の会長を選ぶことになれば必ず僕が勝ちますよ」
「……次の会長だなんて、縁起でもないこと言わないでよ。だいたいあなたのシンパは子飼いの協専ハンターでしょ。脅されてるから言うことを聞いてるだけ」
「へぇ、ナマエさんみたいに?」
「……そうよ」

 みじん切りにした玉ねぎが涙腺を刺激し、ナマエはそれを誤魔化すように手早くボウルに移した。続いて、パプリカを適当な大きさに切り、ズッキーニとナスはスライサーで薄切りにしていく。こうやってこの男に用意された隠れ家で生活し、この男の為に料理を作るのも、全部ナマエが望んでやっていることではなかった。別にナマエは美食ハンターでもなんでもないのに、なぜかたまにやってくるこの男に食事を提供することを強要されている。そんな意味不明な要求に従っているのは、ナマエが“ハンター生命”という意味で、命にも等しいものをこの男に握られているからだった。

「でも、選挙があるなら返してくれるのよね、ライセンス」
「おや、僕に入れてくださるおつもりなんですか? 嬉しいなぁ」
「寝言は寝てから言って」

熱した鍋にオリーブオイルを薄く引くと、それだけでいい香りが漂った。そこへまずは玉ねぎとニンニクを入れ、塩を振ってきつね色になるまで炒める。炒める音でほんの少しパリストンの声が聞きとりにくくなったが、元からまともな返事を期待していなかったので聞き逃したとしても構わなかった。

「別に今更、ライセンスなんかなくたっていいじゃないですか」
「はぁ? いいわけないじゃない。あれは再発行不可の一点もの。売れば人生七回遊んで暮らせるくらいの価値があるのよ」
「でも、売らなければただの板切れでしょう。ナマエさんは手放されるつもりだったんですか?」
「馬鹿なこと言わないで。あれがないとハンター専用サイトにだってアクセスできない の」
「本当のプロは他にもいくつか情報源を持っているものですよ。実際、僕はライセンスを持っていても、あまり使った覚えはありませんね。単なる記念証書みたいなものでしょう」
「……あなたって、本当に人の神経を逆撫でるのがうまいわね」

毎年、何十万人もの受験者が喉から手が出るほど欲しがるそれを、ただの記念証書とは言ってくれる。まぁ実際、その多くはライセンスに付随する特権に目がくらんだ者たちなので憐れむ必要はなかったが、今そのライセンスを質に取られて身動きがとれないナマエからすると、パリストンの発言はかなりの侮辱である。ナマエにとってのライセンスはその特権を抜きにしても、嫌いな男の言うことを聞くだけの価値がある代物なのだ。

「あんな大事なものを奪われたなんて知られたら、私はやっていけないわ」
「だから僕の言うことを聞いて、隠遁生活を送っていると。プライドばかり高いと生きづらくありません?」
「プライドが高い、ね……。確かに、私は“本当のプロ”どころかハンター失格だものね。このまま、あなたから取り返すことができなければ」

 ナマエは言いながら先ほどまで使っていた包丁を、目の前のパリストンに向かって突きだす。「おっと、怖いなぁ」両手のひらをこちらに向け苦笑した彼は、その切っ先が自分の喉仏のわずか数ミリ手前にまで迫っていても、のけぞることも避けるようなこともしなかった。その憎らしいほどの余裕が更にナマエを苛立たせているというのも、きっとパリストンならばわかっているはずだった。

「僕を殺したら、本当にライセンスの行方がわからなくなりますよ?」
「大丈夫。包丁くらいであなたを殺せるとは私も思ってないから」
「そうですか、それはよかった。僕だって最後の晩餐を頂く前には、死んでも死に切れませんからね」

料理ができるまでにはまだ煮込みの工程とオーブン調理が残っている。腕をおろしたナマエはそのまま念を纏わせ、八つ当たり気味に包丁でトマトのホール缶を開けた。周を遣えば缶詰だって、なぞるくらいの力で開封できる。現れた毒々しいほどの赤がこの男の喉から出たものだったら、一体どれほどすっきりしたことだろう。そんな詮無いことを考えながらナマエは種とヘタを取り除いたトマトを潰し、ざるで濾していく。

「そういえば、人は普通愛したり愛されたりすると幸せを感じるらしいですね」

 まるで何事もなかったかのように料理に戻るナマエもナマエだが、同様に自分勝手なことを話し続けるパリストンもパリストンだ。濾したトマトはローズマリーとバジルとともに、鍋へ投入し、十分ほど炒め煮をする。この間に鶏肉の方も下ごしらえしておけばいいだろう。ナマエが使った器具を片付けるため少し横に移動すれば、パリストンも同じように身体の向きを斜めにしてついてくる。どうやら単なる独り言ではなく、聞いてもらいたいという気持ちはあるらしい。残念ながらナマエは彼の行動に微笑ましさを感じることはできなかったが。

「でも僕は人に憎まれると幸せを感じるんですよ」
「そう、頭がおかしいのね」
「ナマエさんは僕が憎いですか?」
「あなたを幸せにできているようで何よりだわ」

 適当に相槌を打ちながら、鶏もも肉の分厚いところにフォークをグサリグサリと刺していく。これはつけだれが沁み込みやすくしているだけで他意はなかったが、力は確かに籠っていたかもしれない。きっと顔をあげればまたパリストンが嬉しそうに笑っているのだろうと思うと、堪えようとしてもますますフォークを握る手の関節が白くなった。

「あ、そろそろオーブンを温めておいたほうがいいんじゃないですか?」
「言われなくてもわかってる」
「乾杯のお酒の用意は?」
「水を葡萄酒にでも変えたら?」
「婚礼があればそうしましょう。あなたと僕で?」
「それこそ最後の晩餐になりそうね」
「そうそう、最後の晩餐と言えば、」

 ナマエは鶏肉を調味だれの入ったチャック付きポリ袋に入れて漬け込むと、オーブンを余熱設定にする。このキッチンでのパリストンの脈絡のなさは今に始まったことではないので、こうして適当に作業しながらで十分なのだ。むしろまともに取り合うとちっとも料理が進まない。あとは煮込んだトマトと玉ねぎがある程度冷めたらフードプロセッサーにかけて……と頭の中で段取りを考えていると、ナマエさん聞いてます? と小煩い声が聞こえてくる。

「聞いてる聞いてる」
「最後の晩餐と言えば、十二人の弟子たちの中に裏切り者がいるって話じゃないですか」
「そうね」
「十二支んもちょうど十二人ですよね」
「……」

 確かに言われてみればそうだが、世界中には十二という数字にまつわることが山のようにある。一年は十二か月、時計は十二で一周。星も黄道十二星座だし、一ダースも十二だ。しかし人類史に関係の深い十二という数字は、天文学――つまり地球と月の公転周期である“一年は十二か月”に由来するので、それは別に不思議なことではない。宗教も干支も人間が生み出したものなのだから、単に区切りのよい数字が重用されたというだけだろう。パリストンはとにかく波風立てて引っ掻き回したがる男なので、意味深なことを言ってナマエを動揺させようと思ったに決まっている。くだらなさ過ぎて、鼻で笑うしかなかった。

「十二支んにユダがいるとしたら、どうせあなたでしょ」
「ユダは二人いるんですよ」
「え?」
「イスカリオテのユダとダタイのユダという風に呼び分けられていますが。ちなみにヤコブという名前も二人いるんですよ。ややこしいですよね」
「……あぁ、十二使徒の話ね」
「いえ、裏切り者の話ですよ」

 あまりに軽々しく返された言葉に、部屋は沈黙で包まれた。見つめあったパリストンの表情からは、これが冗談なのか本当なのかわからない。ナマエは知らず知らずのうちに、ごくりと唾を飲んだ。

「あなた以外の十二支んは、ネテロ会長を裏切らないと思う」
「イエスを裏切ったのはユダだけではありませんよね。ペトロも我が身可愛さに、イエスとの関係を否定しますよ?」
「……何か知ってるの? もしかして今回のキメラ=アント騒ぎでわざわざ会長自身が乗り出したのも仕組まれたことなの?」
「いえ、あの人は自分の意思で楽しんで討伐に向かわれましたよ。でも、会長は神ではない。死ねば生き返ることはない。死者への忠義はいつまで持つのでしょうかね。また新たな神を信仰するのは、裏切りになるのでしょうか?」
「新たな神……? あなたが会長になろうってわけ? それで、そのためにはネテロ会長がいなくなればよくて、十二支んの中にもパリストン派ができると?」

 今はちょうど全ての工程がひと段落した待ち時間だ。鍋の中身はもう少し冷ます必要があるし、鶏肉は漬け込んでいるし、オーブンの予熱もまだ終わっていない。だから普段ならこの間に使った器具の洗い物を済ませるのだが、冗談としては流せないほどの話についナマエは真剣な顔になってしまう。
 しかし対するパリストンはくすくす笑うと、小さく肩を竦めて見せたのだった。

「嫌だなぁ、僕は会長職なんて興味ありませんよ。そもそもあれだけ“ネテロ”が好きな十二支んがパリストン=ヒル派になるとも思えません」
「……そ。つまりまんまと私はからかわれたってこと」
「そう怒らないでください。キッチンでの僕は正直者です。あなたとこうして腹を割って話せる場所を作るために、板切れを質にしてあなたを脅しつけているんですから。僕、ここで過ごす時間がとっても好きなんですよ」
「……意味がわからないんだけど、とりあえず煽られてるってことだけはわかるわ」
「わかりませんか?」

 にこにこと笑うパリストンは何も知らない子供のように無邪気で、言葉通りに幸せそうだった。人に憎まれると幸福を感じるらしいイカれた男なので、彼の反応は当然なのかもしれない。だがそれに付き合わされる側はたまったものではなかった。わかりませんか? と言われてもそんな異常者の心理を理解できるはずもないし、したくもない。

「そうか。まだもう一つ、僕の癖を教えていませんでしたね」
「知りたくもない」
「まぁそう言わずに。きっと長い付き合いになるんですから」

 長くなるのか、この関係は。その言葉を聞いただけで、ナマエの眉間にはしわが寄る。ライセンスを力づくで奪い返すのが無理ならば、パリストン自身に飽きてもらうしかないと思って茶番に付き合っていた部分もあったのだが、終わりが見えないとなると精神的につらいものがある。
 パリストンは嫌な顔をしたナマエを見ると、ますます嬉しそうに口角をあげたのだった。

「僕って、愛しいものは無性に傷つけたくなるんです」

 それはおそらく世界で一番、不幸で歪な愛の告白だろう。その“世界”に暗黒大陸が含まれているのかどうかは、それこそ神のみぞ知ることだろうが。

Kitchen-sink 現実世界をありのまま描いた
Oratorio   宗教的内容の物語を合唱や管弦楽のために劇風に構成した作品

Titled by 徒野


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