- ナノ -

■ ◆幸福のかたち

ヨルビアン大陸の南東に位置するスワルダニシティには、現在、ハンター協会の本部が設置されており、つい先日も第13代会長選のために多くのハンターが訪れるなど、世の趨勢に関わる重要な都市である。
しかし今でこそ高層ビルが立ち並び、“都市“と言えるほどに発展したものの、元を辿れば河川が山間部から平野に流れ出す谷口――“スワルダニ”付近に発達した、小さな交易の町でしかなかった。山からとれる資源と平地でとれる農産物を、ちょうどその二つの地域の接点である谷口で交換していたというわけである。

近代に進むと、列車による陸の交通やバルサ諸島を望む立地から海路も発達し、山からの資源だけでなくあらゆる原料や製品の輸送が行えるようになった。するとこれまで農地として利用されていた広大な平野は瞬く間に工業地帯へと変わり、スワルダニシティから少し南の方へ足伸ばせば、そこにはもう都会の景色は欠片ほどもなく、辺り一面様々な工場が立ち並んでいるのだった。


「今日も雨だ」

カフェ&バー『フェリチタ』。どこかの国の言葉で“幸福”を意味するこの店の名は、ナマエの母親が客に幸福なひとときを提供したい、という思いを込めて名づけたそうだ。初めて聞いたときはなんと安直な、と呆れたが、いかにも単純で直情的な母親らしいネーミングセンスだと今では思っている。
ドアについた小窓越しに窺える外の景色は、昼間だというのにどんよりと暗く、見ているだけで気分が滅入ってくるのを感じた。ナマエは客が来ないのをいいことにカウンターにだらしなく頬杖をついて、壁掛けの柱時計が奏でるリズムに思考を溶かす。

昼間に店を開けたって、誰も来ないよ。
そう言ったのは誰だったんだろう。もはや記憶がおぼろげだけれども、確かにその通りだと思う。このあたりで生活するのはほとんど単身の工場労働者ばかりで、夜に酒を飲みに来ることはあっても、昼は仕事でそれどころではない。だが、ナマエはそれをわかっていて、それでもバー『フェリチタ』をカフェ&バーにした。当然利益なんてあるはずもなく、だらだらと続けているのはただ意地を張っているだけに過ぎない。子供のナマエを置いてある日突然男と蒸発した母親に、夜だけ幸福なんてことがあってたまるかという、そんな馬鹿げた当てつけをしているのだ。

「あの、すいません」

しかし、鬱屈とした昼間の時間は、あるはずのない入店を知らせるベルによって中断された。一瞬それを幻聴か、と思ってしまうくらいには、ナマエも相当閑古鳥が鳴くのに慣れてしまっている。けれども声のしたほうに視線を向ければ、確かにそこに客はいた。いや、客というにはあまりにも幼くて、ナマエはしばし間抜けな表情を晒すことになった。

「あの……お姉さん、お店開いてるんだよね?」
「え、ええ。でも、」

――君にはちょっと早いかも。

そう言おうとして、ナマエは今は“カフェ”の時間だったと思い直して口ごもった。店にやってきたのはどう見ても十代前半の少年で、過去を含めても『フェリチタ』の客としては最年少だろう。「お店、やってるわよ。いらっしゃい」ナマエが内心慌てながらも、にっこりと営業スマイルを浮かべると、少年は安心したような表情を浮かべてカウンターの席にひょいと腰かけた。

「よかった。このあたり全然人もいないし、お店もほとんど準備中みたいで困ってたんだよね」
「そうね。ここはもう少し先の工場で働いてる人が多いから、昼間は皆お仕事に行っちゃっていないの。そうなるとお店の方も夜から営業っていうのが多くてね」
「そうなんだ。でも、お姉さんは昼間もお店やってるんだね」
「ええ。昼は簡単な軽食しかないけれど……どれにする?」

ほとんど使われていない昼のメニュー表を渡せば、少年はうーん、と考え込む。流石にお子様メニューを食べるような歳ではないだろうが、かといって一人でこのような飲食店にくるのもなんだか妙だった。工場勤務の父親を訪ねて、この街に来たというなら納得できなくもないが、それにしてはあまりにこの町のことをわかってなさすぎる。ここはお世辞にも治安のいい場所ではないので、昼間といえど子供一人でぶらつくのはあまりお勧めできなかった。

「じゃあこのホットドッグセット、ひとつ」
「わかった。飲み物は何がいい?オレンジジュースか、リンゴジュースか。あ、ミルクもあるわ」
「リンゴジュースで」
「うん、じゃあ少し待ってね」

少年のオーダーを受け、ナマエは冷蔵庫からキャベツとソーセージを取り出した。千切りにしたキャベツはカレー粉で炒め、ソーセージは小鍋でボイルする。これらを挟むパンは、ソフトタイプのフランスパンだ。一本を半分の長さに切り、縦に切り込みを入れてトースターでこんがりと焼く。そして具材を挟む前に、マヨネーズソースを薄く塗っておくのがナマエの拘りだった。「マスタード、食べられる?」うん、と聞こえてきた返事に最後のトッピングをする。赤のケチャップと黄色のマスタードは、実に食欲をそそる色合いだった。

「どうぞ」
「ありがとう」

少年が嬉しそうにホットドッグにかぶりつくのを見て、ナマエは思わず頬を緩める。それから買ったものの使う機会のなかった可愛らしい花のコースターを取り出すと、リンゴジュースを注いだグラスをそこに置いた。

「ねぇ、お姉さん、名前聞いてもいい?」
「私はナマエって言うの。君は?」
「オレはゴン」
「そっか、ゴンくんか。で、ゴンくんはどうしてこの町に?」

人は食事中、心を開きやすいのだとか。別にこんな子供相手にどうこうしてやろうという気はないが、他に客もいないし、少しくらい話し相手になってほしい。幸い、彼も人見知りするようなタイプではなさそうだった。

「えっとね、ジン――親父に、現状のお前がやれることは何か見つけるいい機会だって言われて、あぁ、それはオレが電話して相談したからなんだけど、とにかく、この町の近くの湖で最近魚の姿が減ったって聞いたから少し様子を見に来たんだ」
「……えっと、つまり環境調査とか生物調査ってこと?」
「うん。カイトに会いに行ったときに、ここの噂を聞いてさ。様子を見てきて報告したら、カイトの役に立つかなって」
「そ、そうなんだ」

全然知らない名がぽんぽんと出てきて話についていくのが難しいが、要約するとこの少年は町の西側にある“メラーレ湖”に用があるらしい。確かにあそこは昔、様々な水棲生物が暮らす豊かな湖だったらしいが、年々生き物の数や種類は減っているという。「でも、ゴンくん一人で?」ナマエはそういった学術調査に明るいわけではないものの、それでもこんな少年が一人で調べに来たというのはどうにも腑に落ちなかった。

「うん。って言っても、正直オレも詳しいやり方とかはわかってないんだ。でも生き物たちの声に耳を傾けるだけでも色々わかるかもしれないって思って」

話ながら器用にもぐもぐとホットドッグを咀嚼したゴンは、元気いっぱいにそう言う。彼の笑顔はこの町のどんよりとした空気の中では、ひと際輝いて見えた。

「へぇ、すごいなぁ。ゴンくんは。私なんてこんな近くに住んでたって、湖の生き物のことなんてろくに考えたことないよ」
「それはきっとナマエさんにはナマエさんの、やるべきことがあるってだけだよ」
「やるべきことねぇ……」

こんな小さな子供が環境のことを考えているのに、ナマエはというと彼が来るまで悪戯に時間を潰していただけだ。やるべきことがあるのならぜひとも教えてほしいが、そんなことを言ってこのいたいけな少年を困らせるわけにはいかない。
リンゴジュースも最後まで綺麗に飲み干したゴンは、美味しかった、とにっこり笑って感想を述べてくれた。

「そうだ!ナマエさん、もしよかったら、湖まで案内してくれないかな?」
「えっ、私が?」
「うん。普段から近くに住んでる人の話も聞いて、どう変わったとか聞いてみたいし」

迷ったが、時計を見ればまだようやく午後になったばかりという頃合いだ。どうせ店を開けていたって誰も来ないし、夜の客が来るのは早くても十八時以降。「いいよ。お店閉めるからちょっと待ってね」問題ないか、と考えて頷けば、ゴンはちょっと慌てたような顔になった。

「あ、ごめんなさい。ナマエさん、お仕事中だったね」
「いいの。今日はもう可愛いお客さんが来てくれたから。今の私のやるべきことは生物調査のお手伝い」
「ありがとう」

窓の外を見れば、彼が来たときよりも雨足は弱まっている。この分ならばじきに晴れるだろう。いや、きっと晴れるに違いない。
そう思わせてくれるだけの何かが、この目の前の少年には確かにあったのだ。


△▼

“メラーレ湖”に向かうには、この町の中心を通って、工場が立ち並ぶ区画を抜けなければならない。目立つ黄色の傘をさしたゴンを見ながら、赤い傘のナマエは先ほどのケチャップとマスタードの色彩を思い出していた。

「ねぇ、このあたりの地域はよく雨が降るの?」
「うーん。確かに雨は多いかな。それに雨じゃなくっても、工場から出る煙でだいたい空気にもやがかかってる」

この町の空気は決して綺麗ではない。ナマエはいつもそれを自身の鬱屈とした気持ちのせいだと思っていたが、冷静に考えればただ単にそういう環境なのだろう。なんでもかんでも気分のせいにするなんて、実に馬鹿馬鹿しい。「ゴンくん、あれ見て」町の中心地には、少し開けた広場がある。と言っても、人々の憩いの場というよりは、この町を移動するための中間地点でしかなかった。お粗末な案内板と、この町に工場を敷設した、出資者の男の銅像。確かにこの男のお陰でこの町は栄えたが、銅像の男の目からは涙が流れているようにしか見えなかった。

「このあたりの雨は少し酸性に偏っていてね。ほら、銅像も溶けてるでしょ?」
「本当だ!」
「魚が減ってるのは酸の雨のせいかもしれない。ゴンくんから話を聞いたときに思いつくべきだったのに、当たり前になっててすっかり忘れてたわ」

酸性雨、と言っても、人体には急激な障害を与えるレベルではない。肌が極端に弱い人ならば少し荒れるかもしれないが、普通に浴びるくらいならば別に溶けたりなんかしないのだ。環境には当然悪影響だろうが、林業にも水産業にも関わらないナマエにはどこか無関係の話のように思っていた。つくづく、人間とは自分勝手な生き物だなと思う。

「それも工場のせいなの?」
「うん。工場で燃料を燃やすと、硫黄とか窒素のガスが出るんだけど、それが大気の中で変化して硫酸とか硝酸になって雨と混じっちゃうの」
「うわぁ、それじゃあ魚たちは住めないね」
「うん。そのうち、誰も住めなくなるかもしれない」

もし、もしもだ。この少年の調査がカイトとかいう人物に伝えられて、深刻な環境問題であるとして取り上げられたらどうなるのだろう。原因はわかりきっている。だが、工場とともに発展したこの町が工場を失えば、きっともうここには何も残らない。労働者は職を失い、大半を占める出稼ぎの男達は故郷へ帰るだろう。工場を閉鎖したってすぐには環境もよくならないし、この町は自然の生き物もおらず、人にも見捨てられた正真正銘のゴーストタウンとなる。そうなればカフェ&バー『フェリチタ』が目指した、いや、母親が目指した幸福なひとときは永遠に失われることとなるだろう。

もちろん、このまま放置し続けていたって、環境はどんどんと悪くなっていくばかりだ。事実、喘息を持っていた隣人はここの空気に耐えかねて引っ越してしまったし、ナマエが見て見ぬふりをすることはただの迷惑な延命措置でしかないのかもしれない。それでも、この生活が失われるかもしれないと思うと、少しだけ湖を目指す足取りが重くなった。母親が唯一残したあの店を、ナマエは出ていきたくなかった。


「あっ、ナマエちゃんじゃん!どうしたの?こんな時間にこんなとこで会うなんて珍しいね!」

そんなふうに声をかけられたのは、ちょうど工場の区画を半分ほど過ぎた頃だった。作業服に身を包んだ男は、ナマエの店の常連だ。この町にはとにかく娯楽が少ないので、店をやっているナマエの顔は広く知られている。

「こんにちは。夜には店を開けますので」

ナマエはこの男が苦手だった。というか、単身者が多いこの町では、女というだけで色目を使われることが多く、酒の勢いそのままにデートに誘われることもある。バーとはいえナマエの店はそういう類のものではないので、毎回断るし正直なところ辟易していた。そしてこの男もそういう面倒な客のうちの一人だった。

「あぁ、そっか。まだ昼の営業もやってるんだっけ。誰も来ないのに、よくやるよね」
「まぁ、お客さんは多くはありませんが、のんびり気ままにやれるのが気に入っているので」
「でも、土日もでしょ?せめてそこは予定空けておいてほしいなぁ。ナマエちゃん、いつも仕事仕事って、そんなんじゃ婚期逃すよ?」
「はは……」

大きなお世話だ。たとえ地球上に異性がこの男しかいなくなっても、この男とだけは結婚しない。しかし客商売だということを差し引いても、まさかそのまま伝えるわけにもいかず、ナマエは曖昧に笑って誤魔化した。そこで男の視線が、ふと、隣りのゴンへと向けられる。

「ところで、その子は?」
「こんにちは。オレ、ゴンって言います。この先の“メラーレ湖”に用があってきたんですけど、今はナマエさんに案内してもらってる途中で」
「“メラーレ湖”?なんでまたそんなところに……よくわからないけど、ナマエちゃんも人がいいね」
「まぁ、子供一人で湖に行くのも危ないと思いますし」
「はは、そのまま、お母さんみたいに急にいなくなるのはやめてくれよ?ガキとはいえ、男連れだとドキっとするぜ」

男は冗談のつもりで言ったみたいだが、さすがにこれは笑えなかった。かといって直接怒る勇気もなくて、傘の内側に反響する雨音がじわじわとナマエの心を蝕んでいく。こうした心ない言葉は、子供の時から何度も聞いた。お前は捨てられたんだと嘲る者、母親を冷血だと詰る者。ナマエが年ごろになれば、母親の血を引いて男好きだと根拠のない噂まで流された。ナマエはずっと、そういう環境に黙って耐えてきたのだ。

「おじさん!」
「っ、なんだよ、坊主」

ナマエが黙って固まっていると、不意にゴンが大きな声を出した。元々元気いっぱいという感じの彼だったが、その声には元気だけではなくやや怒気が込められている。男のほうもそれを察したのか、驚いたような顔でゴンを見つめていた。

「おじさんこそ、女の子の気持ちがわかってないから嫌われちゃうよ!」
「はぁ?!」
「ゴ、ゴンくん!」
「だってそうでしょ!ナマエさん、すっごく悲しそうな顔してる!おじさんが変なこと言うから!」

あまりにストレートな物言いに、ナマエのほうが動揺してしまった。確かに笑いはしなかったが、悲しそうな顔をしたつもりもない。これでも客商売をやっているだけあって、表情を偽るのには慣れている。だから、ゴンがそんな風に言うなんて思いもよらなかったし、男の方もハッとしたようだった。一瞬きまりが悪そうな顔になったあと、ナマエのほうに向きなおる。

「……わ、悪かったよ。ナマエちゃん、ごめんな」
「い、いえ。
 じゃあまた。お仕事頑張ってください」

ナマエは小さく会釈すると、行こう、とゴンの手を引いて、とにかく逃げるようにその場を後にする。おそらく子供に叱られて気まずいのはあの男のほうだろうに、なぜかナマエまでいたたまれなくなってしまった。自分でやったわけではないが、あんな風に言い返すような状況になったのは初めてで、緊張と妙な高揚感で心臓がうるさい。けれども、手をひかれたゴンは勘違いしたのか、いくらもいかないうちに「ごめんなさい」と謝ってきた。

「ナマエさんのこと、よく知らないのに、あんなふうに言っちゃってごめん。あの人お客さんなんだよね?」
「うん……だけど、ゴンくんは何も悪くないよ。むしろ代わりに言ってくれてありがとう」
「ナマエさん、やっぱりあれ言われて嫌だったの?」
「そうだね、お母さんのことを言われるのは、やっぱりちょっと腹が立つかな」

自分の婚期だなんだのに、口を出されるのはまだいい。だが母親のことを引き合いに出されるのはどうしても嫌だ。不思議と昔からそうだった。自分が“捨てられた”ことを馬鹿にされるのはまだ我慢できるのだが、“捨てた母親”のことを悪く言われるのはとても辛かった。自分でもあの人は母親失格だと思うのに、他人にそう言われるのはどうしても許せなかった。

「腹が立つ?ナマエさん、怒ってたの?」

しかし、ナマエがそんなことを考えていると、ゴンが不思議そうに首を傾げる。その澄んだ瞳に見つめられて、ナマエは心の奥底まで見透かされそうな錯覚に陥った。

「オレには、ナマエさんが泣いてるように見えたんだ。さっきの銅像みたいに、黙って雨に打たれて泣いてるように見えた」
「……ゴンくんは、やっぱりすごいね」

ナマエはふう、と大きな息を吐くと、それから「ちょっと私の話、聞いてくれる?」と笑った。こんな子供に聞かせるには重くて楽しくもない話だけれど、不思議と彼なら全て受けて止めてくれる気がした。

「うん、いいよ」

あっさりとした返事とともに、繋いだ手にぎゅっと力が籠められる。あぁ、そうか。さっき咄嗟に手を握って引っぱってきてしまったのはナマエのほうだった。

「ありがとう」

小さな手のひらは温かく、子供の割にはどこかごつごつとしている。誰かと手を繋ぐのなんていつ以来だろうかと、ナマエはぼんやり考えつつ、口を開いた。

△▼


久しぶりに訪れた“メラーレ湖”は、見た目にはさほど記憶にある姿と変わってはいなかった。目立って水の色が変化しているわけでもなければ、水に触れたって指が溶けるようなこともない。しかし、湖含め周辺の生き物の数が減っているのは確かなようで、湖面に雨が波紋を作る以外、不気味なくらい辺りは静けさに包まれていた。

「ゴンくん、どうかな。何かわかる?」
「うーん……雨だと魚が底の方に隠れてるって可能性もあるけど、それにしてもアカイロオオユレカが多いね」
「アカイロオオユレカ?」
「淡水に棲息する、蚊によく似た虫だよ。幼虫はよく釣りの餌になるんだけど、普通、魚に食べられるからこれほど大量発生するはずないんだ」
「へぇ……」

確かに言われてみれば、静かだと思った湖畔も小さな虫がたくさん飛び交っている。やはりこの少年は只者ではないらしい。湖のほとりを歩き、たまに立ち止まって覗き込んでいる彼の背中を見ながら、ナマエはただ黙ってついていくしかなかった。

「ほら見て、ナマエさん。これはカラカタトゲガニって言って、固い殻をもつので有名なカニなんだけど」

ゴンはそう言って、親指ほどの赤茶色のカニを素手で掴み、ナマエの目の前に持ってくる。それから固いとされる殻の部分をそっと指の腹で押して見せた。

「殻が指で少し凹むくらい、ぺこぺこなんだ。どう考えてもおかしいよ」
「カルシウム……たぶん、水が酸性化しているせいで、殻になるカルシウムがうまく吸収できないのね」
「このままいけば、カラカタトゲガニは住めなくなっちゃう。カラカタトゲガニがいなくなれば、それを餌にする小さな魚も死んでしまうよ」
「小さな魚が死ねば、それより大きな魚も生きられない。まるで死の湖だね……」

どうやらナマエが思っていたよりも、事態は深刻なようである。しかしなぜここまで環境破壊が進んでいて誰も気づかなかったのだろう。一般市民であるナマエはともかく、工場が隣接するこの地域は年に何度か、行政の環境調査が行われているはずである。ろくに知識もないナマエでわかるのだから、それなりの試験キットでもって調査すればすぐに湖の酸性化が判明するはずではないのだろうか。

「おい!そこにいるのは誰だ!」

ゴンと二人で深刻な顔をしていると、不意に厳しい声音が飛んでくる。振り返れば作業服の上からレインコートを羽織った男が数名立っていたのだが、ナマエはどの顔にも見覚えが全くなかった。そもそもよく見れば工場で働く人々の服とも、なんだか違うような気がする。

「あ、いえ、私はこの町の住人ですが……」
「ここで何をしていた?」
「何をって……」

そんな剣幕で詰め寄られるほど、特に何も悪いことをした覚えはない。立ち入り禁止のテープを飛び越えたならともかくも、道中そんなものは特に見当たらなかった。

「おじさんたちも、環境調査の人?」

口ごもってしまったナマエに代わり、ゴンが会話を引き継いでくれる。なるほど確かに彼の言う通り、男たちはデイパックを背負い、カメラやクリップボードなどそれなりの装備をしている。しかしゴンがそう言ったことで、男たちの表情はますます険しくなった。

「おじさんたち“も”?いや、まさかこんなガキと女が……」
「よかった、ちゃんと早くなんとかしないとね!ほら見て、これカラカタトゲガニなんだけど、」
「ゴンくん!」

ナマエは止めようとしたが、ゴンの指はそれよりも早くカニの甲羅をぺこりと凹ませた。これがまともな業者だったなら、きっとゴンの観察眼を褒めたことだろう。しかし男たちはナマエの予想通り、沈黙した。沈黙して次の瞬間、ゴンとナマエを邪魔なものでも見るかのように目を細めた。

「本当だな、カニの甲羅が台無しだ。お前、それ見てどうしようってんだ?」
「知り合いに生物調査を生業にしてるハンターがいるんだ。カイトにこの状況を相談すれば、きっといい案を出してくれると思う」
「そうか、ハンターか。確かにここから北東に行けばお偉いハンターさんたちの本部があったなぁ」
「うん。だから、」
「だから、あんたらには黙っててもらわないと困るんだよ。俺たちはそうやって金を貰ってるんでな」
「え?」

じりじりと詰め寄ってくる男達に、ゴンの表情がさっと強張る。やはり、そういうことだったのか。この町は工場によって成り立っている。もしも環境調査の結果によって閉鎖になれば、たちまち大きな負債を抱えることになるだろう。湖がこんな風になるまで事態が明るみにならなかったのは、裏で手をまわして嘘の調査報告を上げていた人間がいるからだ。そしてそういう輩にとって、ゴンとナマエの行動は目障りでしかないだろう。

「ゴンくん、逃げて!」

ナマエはゴンを背に庇うようにして、一歩前に進み出た。別にこれは子供の彼を守るためにとったその場しのぎの行動ではなく、ナマエは自分が戦えることをちゃんと知っている。

「ナマエさん!?」
「威勢のいい姉ちゃんだが、あんたに何ができるってんだ?あんたのことは噂に聞いてるぜ。あの町でバーを経営してる女だろ?いくら男の相手が得意だからってなぁ?」
「ははは、そっちのほうならぜひお願いしたいぜ」

下卑た笑い声に胃がむかむかとする。正直、あまりこの能力は好きではなかったが、お陰で発動条件は満たせそうである。増大したオーラが全身をぐるぐると巡り、ナマエは心の中で呟いた。

――“耐え難き感情(クラウドバースト)”

傘を投げ捨て、ナマエは男たちの方へと突っ込む。ナマエが環境問題に無頓着だったのは、ただそれに慣れきっていたからではない。むしろ、ゴンに説明できるくらいには人より詳しいほうだと思う。だがここで過ごすうちにいつのまにか目覚めた自分の力が、自分の感情が、有害なものだと認めたくなかったのだ。

「な、なんだ!?う、うわぁああ!!」

来るときにはぽつぽつと降る程度だった雨足が、ナマエの周囲だけものすごい豪雨へと変わっている。しかしこれはナマエのオーラを液状化させているだけなので、普通の人間には見えていない。ナマエの周囲に降る雨は、ナマエの負の感情を発散させたもの。その性質はこの町に降る雨よりも、もっとずっと強力な酸である。

「なんなんだ一体!?」
「ぎゃあぁああ!!」

雨の範囲はナマエがちょうど両手を広げたくらいの狭いものだ。変化系のナマエは、オーラを身体から離すのがそれほど得意ではない。しかし、接近戦となればナマエに触れることは難しいだろう。男たちは突如として焼け付く自身の肌に悲鳴を上げ、混乱したまま逃げ惑う。もはやそれは一方的な蹂躙だった。自然の力が生き物を残酷なまでに踏みにじるように、ナマエの雨には容赦がない。望んで得たものではないからこそ、恐ろしい能力だと思った。自分では大人しい性格だと思っているのに、内側にはこんな狂気を抱えているなんて。

「ナマエさん!!ストップ!!!」

激しいオーラの雨はナマエの耳元でごうごうと唸りを上げていた。けれどもそれすらもつんざいて届けられた少年の声に、ナマエは振り返って彼を見る。きっと彼にはこの雨が見えていないだろうが、ナマエの近くにいた男たちが苦痛に悲鳴を上げているのだ。恐れられたとしても不思議はない。しかも、彼は環境のことを考えてここにきたのだ。酸性の雨を降らせる能力だなんて知られたら、絶対に軽蔑されるだろう。「……ごめん」男たちはもうみんな逃げたようだった。あの程度の暴言では酸の程度もたかがしれている。この念の発動条件はナマエの負の感情だが、酸の強さはその感情の強さに依存するのだ。

ナマエは今更ながら、自分が雨に打たれていることに気が付いた。オーラの雨はもう止めていたけれど、傘を投げ捨てたのは自分だ。ここには本物の酸性雨も降っている。

「ごめん、ごめんね。怖がらせたよね」

一応、念能力の概念は調べたので知っている。それでも上手く彼に説明できる自信がないし、説明したところでこればっかりは受け入れてもらえるとは思えない。ナマエがこの念を使ったのは実に十年ぶりくらいだったが、目の前で恐ろしいことを見た彼に信じてくれというのはあまりに難しいだろう。
ナマエは早口で謝ると、特に説明も無しにこの場から逃げ去ろうとした。

「待って!ナマエさん、泣かないで!」
「え」
「ナマエさん、泣いてるでしょ。オレ、ナマエさんにそんな顔してほしくない!」

驚いて自分の頬に手をやるが、これは涙ではなく雨だ。しかしゴンの表情は真剣で、もしかしてまたナマエの心が泣いているとでも言うのだろうか。
固まるナマエに彼は少しも怯えの色を見せず、どんどんと近づいてくる。それどころか、傘を捨ててナマエの手をぎゅっと握ったので、ナマエのほうがオーラの残りで彼が溶けやしないかと慌ててしまった。

「な、ゴンくん離して!」
「いやだ!」
「見たでしょ、さっきの。何が起こったかわからないと思うけど、私は、」
「確かに見えなかった。オレ、今オーラが見えない状態だから、ナマエさんが念能力者だってことも全然気づかなかった。だけど、ナマエさんがオレを守ろうとしてくれたのはわかったよ」
「ゴンくん、君は……」

彼は念能力を知っていたのか。確かにハンターの知り合いがいると言っていたし、ハンターともなれば不思議な力くらい持っているだろう。彼が念を知っていたとしても変ではないのかもしれない。しかしナマエの念はそれにしても悪質だった。もっと素敵な能力だったなら、素直に彼に話せたかもしれないが、やはりこの能力では“守る”という言葉は相応しくない。
ナマエはゴンの手を振り払おうとしたが、彼の力は思っていた以上に強く、逆にぐいっと引っ張られた。

「ナマエさん、オレね。この前、友達にすごく酷い事しちゃったんだ」
「……」
「オレ、自分の感情でいっぱいいっぱいになっちゃって、それで手を差し伸べてくれた友達のこと“関係ないって”突き放しちゃって。おまけに一人で無茶したせいで迷惑までかけて……。
 だけど、その友達は――キルアは、オレがどんな状態でも友達でいてくれたんだ」

同じように顔に雨がかかっているのに、不思議とゴンは泣いているようには見えなかった。それはきっと彼の瞳が、力強い輝きを放っているからだろう。言葉こそ、後悔に満ちているものの、彼は正しく前を向いている。
ナマエは何も言えず、ただただ彼の勢いに呑まれていた。

「だから、オレもナマエさんにどんなに突き放されたって、離さない。だって、ナマエさんすごく悲しそうな顔してるから。一人でいっぱい抱え込んで、無理してるってわかるから」
「私は……」
「ナマエさんはとっても我慢強くて優しい人だよ。怒ったり悲しんだりするのは、お母さんが悪く言われた時や、さっきみたいにオレを守ろうとしたときだもん。怖いなんて思うわけない!」
「……っ」

そんな風に言われて、ぽとりと感情が一滴、頬を伝った。ナマエの感情はいつもしとしととしつこく止まないものか、反対に念を遣うときのように激しい驟雨のようなものだったが、今は不思議と心が澄んでいく。たったの一滴で長年耐え忍んでできた胸のしこりを溶かされたような、そんな錯覚にすら陥った。

「ゴンくん、ありがとう……」

自分の能力も嫌いだし、それを生んだ自分の性格も、この環境も全部好きじゃなかった。けれどもそれを全部ひた隠しにして、見ないようにして、ナマエはこれまで生きてきた。人と深く関わらなければ、自分を偽るのはそう難しいことではない。こんな感情で“幸福なひととき”を提供したいだなんて、自分がどれほど馬鹿なことをしていたかよくわかった。わかったけれど、いつもみたいに惨めな気持ちにはならず、代わりにナマエは口角を上げて微笑んだ。

「本当にありがとう、ゴンくん」
「うん!やっぱりナマエさんには笑顔が似合うよ。お店で食べたホットドック、ほんとに美味しかった。お店やってるときのナマエさん、すっごく幸せそうだったし、オレ、ナマエさんにはそうやって笑っててほしいな」
「私もそうしたい。お店をやって、私自身も、店に来てくれた人も幸せにしたい」
「それがいいよ。お母さんのお店は、」
「……畳むわ。ここの環境について、もっとちゃんと訴えましょう。工場は閉まるかもしれないけれど、遅かれ早かれそうなったのよ。この町を出て、私はまた新しく店を開くわ」

ナマエは母親への当てつけみたいに昼間の営業をしていたけれど、母親に抱いているのは憎しみだけじゃない。店でお客さんのために働く母の姿に憧れていたし、“幸福”を提供したいという母の理念には共感もしている。ナマエがいつまでもこの店に拘っていたのは、ただナマエの知る“幸福”のビジョンがここにしかなかったからだ。でも、今のナマエなら他の場所でも、未来を描ける気がする。母親の真似事ではなく、ナマエの想像する“幸福”を形にするのだ。

「私、なんだか頑張れそうな気がする」
「うん、オレもナマエさんが元気になってくれて嬉しい。
 オレ、ほんとはちょっと自信無くしてたんだ。自分には何もできないんじゃないかって」
「そんなこと、」
「うん。わかってる。できないかどうかはやってみなくちゃわからないし、何が正解かもわからない。大事なのは全部に全力を尽くすこと!それから道草も楽しむこと!」

励まし返そうと思ったが、どうやら彼には不要だったらしい。「そうね!ゴンくんの言う通りだわ」ナマエは今度こそ、声をあげて笑った。こんなに愉快な気持ちになったのは久しぶりだ。何がおかしくて笑っているのかはもはやわからないが、なんだかこれまでにため込んだ感情が爆発したみたいで、何もないのにたまらなくおかしい。そしてゴンもそれにつられたのか、あはは、と無邪気に笑った。

「じゃあ、戻ろうか。ちょうど雨も止んだみたいだし」
「うん!あ、そういえばいつのまにかカラカタトゲガニどっかやっちゃった!」
「きっと逃げたんだよ。カニは陸でも移動できるし大丈夫」
「そうだね。よし!」

ゴンは落とした傘を拾い上げて畳むと、両手を口の周りにあて、湖に向かって大声で叫ぶ。

「待っててねー!時間はかかるかもしれないけど、きっと元みたいに住みやすい湖にしてあげるからねー!」

死の湖には似つかわしくない喧騒が、湖面をささやかに揺らした。それを見たナマエはまたどうしようもないおかしさがこみあげてきて、どうしたものかと自分の感情に戸惑う。いっそ、正の感情はアルカリ性のオーラにしてみようか。もちろん環境問題はそんな単純な話ではないけれど、そんなふざけた思い付きをするなんてこれまでのナマエには絶対考えられないことだった。

「ところでゴンくん、お腹空かない?帰ったらおやつでも食べよう」
「やった!」

満面の笑顔が返ってきて、幸せな気持ちで胸が満たされる。そうそう、ナマエが形にしたかったのはこういう“幸福”なのだ。当たり前のように繋がれた手に、心がほんのりと温かくなる。

何を作ろうかと考えながら帰る道のりは、行きよりもずっと短く楽しい時間だった。


MARKER MAKER様に提出


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