- ナノ -

■ 初恋は味わって食べましょう

纏を知り、絶を覚え、練を経て、発に至る。
これすなわち、念の修行――。


当座の旅費調達と打倒ヒソカの修行を兼ねて、ほぼ6年ぶりに訪れた天空闘技場は相変わらず野蛮な人間たちの集う場所だった。ハンター試験とは違い、特にふるいにかけられていない自称力自慢の雑魚ばかりでは、飛ぶように上階へと進めてしまったのも無理のない話だろう。
しかし、昔来た時は2年もかかった200階に到達して、キルアはなぜ父親が最上階を目指せと言わなかったのか、嫌でも理解することになった。
ここから先は別の世界だ。兄やヒソカの強さの秘密――つまり、念能力者の世界。

だが、幸運なことに、ゴンとキルアは良い師匠と良い友人に巡り合うことができた。
当初、外法を使うのはあまり気が進まない、と渋っていた心源流の師範代であるウイングは、知らず知らずの間にキルアが“さん付け”で呼ぶほど、師匠としても、人としても良い人物である。そんな彼との約束を破って試合に臨んだゴンは2か月の謹慎を申し付けられてしまったけれど、旅はまだ始まったばかり。焦ることはないと、抜け駆けしないでキルアはただ“点”の修行と試合観戦に明け暮れることにした。そんな折だった。

「あーっ!!あんた!!」

ヒソカVSカストロ戦のチケットを大枚はたいて手に入れた帰り道、突然、キルアの後ろで馬鹿でかい女の声が響き渡る。日中ということもあり、通りにはたくさんの通行人が行きかっていたが、みな女の声につられて足を止めるほどだった。
かくいうキルアも、何事かと振り返った。そして同い年くらいの少女が指をさしている相手が自分だとわかると、困惑と衆目を集めてしまった羞恥心で固まった。

「やっぱりそうだ!!間違えっこない!キルア!」

少女は困惑するキルアにぐいぐい詰め寄ってくると、無遠慮に間近で顔を覗き込んでくる。普通なら、そんな攻撃可能な間合いに入られたことを警戒すべきなのだが、キルアはただただ彼女の勢いに呑まれていた。彼女に敵意がなかったこともそうだが、単純に同じ年ごろの女の子という存在に慣れていなかったのだ。

「な、なんなんだよ、お前いきなり!」
「ひどーい!あたしのこと覚えてないの!?」
「はぁ?お前なんか知らねーんだけど」
「最低!あたしのこと弄んだのね!」
「はぁああ?」

記憶を辿るが、何度も言うように同年代の少女の知り合いなどキルアにはいない。そもそも基本的に家か仕事場の往復で、キルアは家出をするまでろくに外の世界になど出たことがなかった。しかし、少女の方はキルアをよく知っているような口ぶりだ。「この女ったらし!」冤罪もいいところな台詞に、周囲の人間の眼差しも厳しくなる。とにかくこの女は馬鹿みたいにうるさいので、キルアはかぁっと恥ずかしさで身体が熱くなった。

「知らねーって言ってんだろ!誤解されるようなこと言うな!」

変な奴に絡まれたものだと思いながら、キルアはとにかくその場から立ち去ろうとする。しかし彼女は逃がさないと言わんばかりに、キルアの腕をむんずと掴んだ。「なっ、」いくら動揺していたからとはいえ、そこらの相手に容易く掴まれるようなキルアではない。すぐさま警戒を強めて睨みつければ、今度は手を離した彼女のほうが困惑したように眉を下げていた。

「ほんとに覚えてないの?6年前、あたしと戦ったでしょう」
「6年前……?ってことは、ここで?」
「そう」

その時キルアはまだ6歳。目の前の少女も、おそらくそう変わらなかっただろう。子供の参加者というのは皆無ではないものの、それほど幼い子供が上階まで登るのはほとんどないに違いない。すぐさまキルアは記憶の引き出しを底の方まで漁って、ひっくり返して逆さに振って、ようやくそれらしい記憶を掴みだした。
掴みだして目の前の少女の成長ぶりに、一瞬ぽかん、と口をあけた。

「まさか……ナマエ?」
「そう!やっと思い出してくれた!」

記憶の中の彼女は、胴着に身を包み、髪も短く切りそろえられていたので、はっきり言って見ただけでは男か女かもよくわからない相手だった。しかし目の前の彼女は当時と違い、随分と――有り体に言ってしまえば“女の子”なのである。戦いなんて知りません、と言わんばかりに花柄のワンピースから伸びる手足は細く、唇はリップかなんだか、淡い桜色にぷるりと染め上げられていた。「ウソだろ」思わず本音を漏らすと、彼女の目尻はわかりやすくきゅっと吊り上がる。

「ウソとは何よ!失礼な!」
「だってお前があのナマエ?信じらんねー!詐欺だろ!」
「あの時は修行の邪魔だからああやって髪も切ってたし、おしゃれもしてなかっただけで……!ていうか、詐欺ってあたしがなにしたってのよ」
「うわー女って怖ぇ!こんなの、気づくわけねーじゃん」
「なんなの!?可愛くなったね、とか言えないワケ!?」
「か、かわ!バッカ!誰がそんなん言うかよ!」

実際、衝撃が過ぎ去ってしまうと、彼女が“女の子”であるということがやけに強調されたように感じた。もちろん、次兄の部屋でこっそり見つけたムフフな作品の女性たちとは比べるまでもない貧相さだが、それでもやっぱりキルアやゴン、ズシとはまた違う、独特の雰囲気がある。末の弟も女物の服をよく着させられていて、少女と見間違うような顔立ちをしているが、なんというかナマエの周りの空気はふんわりしている。上手くは言えないが、纏うオーラの質が――

「っ、待て、お前も“遣える“のか!?」

油断した、というか、さっきまではこんなわかりやすくオーラを纏っていなかったはずだ。驚くキルアに、ナマエは悪戯が成功したかのようににっこりと笑う。しかし、キルアにしてみれば笑えない話だった。熟練の念能力者は自身がそうであることを巧妙に隠すらしいが、このような不意打ちはまだ念初心者のキルアの心臓によくない。「あったりまえじゃん!」えっへん、と胸を張ったナマエは、キルアもやっと遣えるようになったんだね、と続ける。

「キルアと会った頃は、ちょうど精孔を開く修行してたの。ちゃんと発まで作ったのは10歳かそこいらだったけどね」
「マジ!?」
「で、あのときキルアに負けて、キルアはてっきり念能力者なんだって思った。だって、普通のガキんちょに負けるなんておかしいもん」
「ガキってそれはお前もだろ」
「何言ってんの!あたし、キルアよりお姉さんだよ!」
「は?いくつ?」
「14」
「マジか」

確かにそれなら、ナマエのほうが年上だ。が、身長のせいか、言動が頭悪そうだからか、とても年上だとは思えないし認めたくもない。たかだか2歳年上というだけで、ナマエが謎に勝ち誇った顔をしているのも面白くなかった。「でも、ちゃんと念を遣えるまで2年もかかってんだろ?俺なんて一瞬で精孔開いたぜ」くだらない対抗心からそう言えば、向こうもまたむっとした顔になる。こいつ、わかりやすいくらい顔に出るタイプだな、と思った次の瞬間には、ナマエはまたぱっと笑顔になっていた。

「じゃああたしの技、くらってみなさいよ。行くわよ、」
「は、何言って、」
「“腹ぺこ吸引鬼(エナジーヴァンパイア)”」

ナマエがそう口にした瞬間、ものすごい勢いで全身から力が抜けていく。それはまるで、最初に精孔を開いたときみたいだった。「お〜大漁、大漁。きっとキルアは変化系なのね」初心者相手に説明もなく専門用語を使うな、と思うものの、どんどん奪われていくオーラに焦りばかり募る。

ナマエは何をした?わからない。怖い。どうすればいい?

キルアはまだ、念というものの存在を知り、オーラを感じ取れるようになったばかりだ。他者のオーラから身を守るには纏を使えばいいのはわかるが、この場合、オーラを纏っても纏ったそばから奪われていくだけだろう。見たところナマエに害意はないようだが、このままではまずい。
こうなれば攻撃もやむなし、か……。

「ナマエ!!!」

そのとき、ぐわん、と地面が揺れるような大声が飛んできて、今度こそ町中の人がひっくり返った。と、同時に、キルアを苦しませていたオーラの流出も止まる。ナマエが念を遣うのをやめたのだ。

「ウ、ウイングさん……」

大股でこちらに歩み寄ってくる男は、キルアもよく知っている。相変わらずシャツの裾がはみ出ただらしのない格好だが、キルアが信頼を寄せ始めている、キルアにとっても先生にあたる男である。
ナマエは彼の姿を見るやいなやばつの悪そうな顔になったが、そんな彼女とは対照的にキルアは内心ほっとしていたのだった。


△▼


「いいですか、ナマエ。念というものは、むやみやたらに遣うものではないと教えたはずです。使いようによっては恐ろしい力なのだから、念能力者は己の力に責任を持たなくてはなりません。特に、あなたの念は加減を間違えると相手を死に至らしめる可能性が高い。わかっていますか?」
「……はい、調子に乗ってしまいました」
「私が止めたからよかったものの、キルアくんはまだ精孔を開いたばかりの初心者です。心源流を学んだ者としてあなたがお手本とならねばならないというのに、無防備な彼に向かって念をかけるなど何事ですか」
「はい……ごめんなさい。もう試合以外で相手の同意なく念は遣いません」
「いいでしょう。あなたが悪意をもって他人に念をかけるような子ではないことくらい知っていますからね。
しかし、謝るのは私に対してではないはずです」
「はい……」

こってり絞られてうなだれたナマエは、そこで「ごめん、キルア」とこちらに向き直る。ズシやゴンが叱られる様を見たことがあるが、ウイングという男は見かけによらず怒るととても迫力がある。しかし、兄のように威圧して言うことを聞かせるのではなく、それはあくまで指導者としての態度だ。生徒を正しい道に導こうという思いが、言葉の端々に溢れている。

「あーまぁ、別にいいよ。っていうか、ナマエもウイングさんの弟子だったなんてな」
「正確には私の弟子ではなく、私の師匠の弟子を一時的に預かっていた、という繋がりなのですが……」
「そうなの、だからあたしは実質ウイングさんと兄弟弟子なの」
「しかし、まだまだ未熟なままのようですね」
「うっ……」

眼鏡の奥で、ぎろりと睨まれ、ナマエは肩をすくめる。しかしウイングはまたいつもの柔和さを取り戻すと、説教は終わりだと言わんばかりに眼鏡を押し上げた。

「それで、ナマエはなぜ急にこちらに?あの人はどうしたんです」
「えーとね、師匠はまた宝石ハントに出かけちゃったの。だからしばらくウイングさんに面倒見てもらえって」
「はぁ……またですか」
「って、それより!あたしの方がびっくりした!なんでキルアがウイングさんに教わってるの!?キルアのお兄さん、とうとう念を覚えるの許可してくれたの?」
「兄貴!?」

なぜそこで急に兄の話が出てくるのか。キルアには上に兄が二人いるが、仕事人間と引きこもりで、どちらもナマエと接点があるようには思えない。そもそも当のキルア自体が、ナマエと会ったことをすっかり忘れていたくらいなのに。

「キルアと試合後、あたし念のこと聞こうって思ってキルアのこと追いかけたんだ。そのとき師匠は精孔を開くのが先って言って全然詳しい事教えてくれなかったし、同い年くらいのキルアがすっごく強かったのが悔しくてさー。絶対この子、念能力者なんだって声をかけようとしたら、いきなり知らない男の人に隅に連れていかれて……」

場面だけを想像すれば、立派な児童誘拐である。キルアはおそらく長兄のほうだろうと予想を付けたが、絵面的にはそちらで助かったのかもしれない。とにかく、ナマエはそのときキルアの兄を名乗る男から、“キルアに念能力の話は一切するな”、“あれはまだ早い”と釘を刺されたそうだ。もしかすると執事くらいは様子を見に来ていたかもしれないとは思っていたものの、まさかイルミが見に来ていたとは……。
キルアはそこまで考えて、いや、ありえるな、と思い直した。本人にその自覚はないみたいだが、ナマエはわりと危ない橋を渡っていたようである。

「で、念のことは聞けなかったけど、その代わりあたしたち約束したでしょ」
「いや、そう言われても覚えてねーし……」

この場合、普通に考えれば再戦の約束だろう。ナマエは負けたことを悔しく思っていたようだし、十分にあり得る話である。「ま、ウイングさんから許可が出たらもう一回戦ってやってもいいけど」ゴンには小言を言ったものの、自分だって早く念ありの戦闘をしてみたいのが本音である。キルアが伺うようにちら、と見上げると、ウイングは笑みを浮かべたまま駄目です、と首を横に振った。

「違うよ!再戦じゃなくって!味見させてくれるって言ったじゃん!」
「味見?なんだよそれ」
「……ああナマエ、まだあなたの悪癖は直っていなかったのですか」
「だって、オーラを食べちゃだめなら本体いくしかないじゃない!」

本体、と言いながらびしっと指をさされ、キルアは話が見えずに困惑する。先ほど、オーラを吸われた感覚からしてナマエがそういう念の持ち主であることは理解できるが、本体を味見とはなんだ。まったく意味が分からない。しかも約束したと思われる当時は、まだ彼女も念が遣えなかったはずなのに。

「キルアくん、すみません。彼女のことは私がなんとかしますので気にしないでください」
「なんで!?ウイングさんは関係ないのに!」
「あのさ、さっぱり話が見えないんだけど……」

ぎゃあぎゃあ騒ぎ始めるナマエに、ウイングはとうとう大きなため息をつく。それから、申し訳なさそうな、同情するような眼差しをキルアに向けた。

「ええと、なんというかその……カニバリズムほどではないのですが、彼女には気に入った人間を“噛みたがる”癖がありまして」


△▼


「あ、キルア遅かったね!」

割り当てられた個室に戻ると、全身あちこち骨折していたはずのゴンがまるで何事もなかったみたいに筋力トレーニングに勤しんでいた。「な……お前の身体どうなってんだよ」確か医者には全治4か月と言われた怪我のはずだが、キルアが機転を利かせてウイングには2か月と申告してある。それだけでも大幅な短縮であるのに、1か月でのこの治りようはどう考えてもおかしい。つくづくゴンという生き物は規格外だな、とキルアは複雑な気持ちでドアを閉めた。

「いだだだだ!!!キルア、挟まってる!挟まってる!」
「挟んでんだよ。ついてくんなって言っただろ!」
「約束したのにぃ」
「だからしてねーって!」
「えっと……その子は?」

中に押し入ろうとするナマエとくだらない攻防をしていれば、戸惑ったようなゴンの声が聞こえてくる。「そこの少年、助けてぇ!」またナマエは人聞きの悪いことを……。仕方なしに力を緩めれば、彼女はそのまま中へなだれ込んでくる。「ぐへっ」キルアがさっとかわしたせいで、勢いそのまま地面に激突することとなったが。

「大丈夫?」
「う、うん……キミは優しいね。あたしはナマエ」
「オレはゴン、よろしく」

差し伸べられたゴンの手をとり、ナマエは打った鼻を抑えながら立ち上がる。二人の自己紹介を隣で傍観していたキルアだったが、彼女の瞳がきらりと輝いたのを見た瞬間、嫌な予感に身を震わせた。

「ゴンね、うん。キミもすっごく美味しそう」
「だーっ!!ゴン!その女から今すぐ離れろ!」
「えっ?」

強引に二人の間に割り込めば、ゴンがきょとんとし、ナマエはぺろりと舌を出す。さっき簡単に聞いた話では、彼女の念は対象者に触れるだけで発動し、半径5m以内にいる間はオーラを吸収して奪うことができるらしい。しかも一度“マーク”されれば効果範囲に入るたび吸引は再開される。キルアはゴンを背に、彼女から庇うようにして向き合った。

「お前さっきウイングさんに叱られたばっかだろ!」
「遣ってないって。ただ美味しそうだなぁって思っただけ」
「だからそれがタチ悪いって言ってんだよ!誰でもいいのか?」
「あー、もしかしてキルア妬いてる?」
「はぁ!?誰が!ふざけんな」

びしっ、とまたもや指をさされ、キルアは思わずその指を掴んで曲げる。「いででででで!!」女らしい格好に似つかわしくない声を上げたナマエは痛みに軽く涙目になっていたが、その様子に反省の色はちっとも見られなかった。

「あのさ、2人は知り合い……なの?」

おずおずと尋ねてくるゴンに、キルアはぐしゃっと頭をかく。知り合いといえばそうだが、正直ナマエの見た目が違いすぎて、キルアとしては懐かしさよりも戸惑いの方が大きい。そもそもの記憶だって朧気なのに、味見だのなんだのと訳の分からないことを言われたのも、さらに彼女の扱いに困る理由となっていた。

「えーと、6年前、俺がここに来たことあるって話はしただろ?ナマエとはその時に戦ったんだ。で、こいつはウイングさんの兄弟弟子にも当たるんだってさ」
「えっ、じゃあナマエも念を遣えるの?」
「そうだよ!でもウイングさんからキミたちにはまだ話しちゃダメって言われてる」
「うん、それはいいんだ。オレ、今度はちゃんと約束守るから。ただ、ナマエみたいな可愛い女の子でも念能力者で戦うんだってちょっとびっくりしただけ」
「か、かわっ!可愛いって……!」

褒められてぱっと頬を桜色に染めたナマエに、キルアはなんだか面白くない気持ちになる。「ゴンに変なことしたらただじゃおかねーからな」一応先手を打って忠告しておくが、この胸のもやもやはなんなのだろう。ゴンもゴンだ。この女のどこが可愛いって言うんだろう。確かに見た目はそれなりに少女然としているが、声もでかいし趣味もおかしいし一般的な可愛さからは程遠い存在だ。

「もう!そんな心配しなくても、あたしが一番食べたいのはキルアだよ。なんてったって6年も探してたんだから」
「探してたって、」
「そうだよ。あたし、あれ以来キルアを探して定期的にここに来てたもの。それくらいしか手がかりなかったし、いつか念を覚えたら、キルアなら200階以上も挑戦しに来るだろうと思って」
「……」
「だから、こうやってまた会えて嬉しい」

そう言ってにっこり屈託のない笑みを向けられれば、なんだか毒気が抜かれてしまう。キルアはナマエの笑顔を直視できなくなって、ふい、と目を伏せた。

「ナマエはキルアのこと大好きなんだね」
「うん!」
「バ、バッカ、騙されんな!この女はな、」
「はいはい、キルア照れてるんでしょ。ごめんね、ナマエ。キルア素直じゃないからさ」
「わかってるよ」
「違ぇって!」

どいつもこいつも好き勝手言いやがって。しかし、キルアが言い返そうとした矢先、ゴンの視線が別の場所に注がれていることに気付く。「そういや、さっきから気になってたんだけど、キルアが手に持ってるそれは何?」握りしめたチケットは1枚15万もした代物だ。ナマエとの攻防でくしゃくしゃになってしまっていたそれを、キルアは慌てて広げて伸ばした。

「あーそれ、ヒソカVSカストロ戦のチケットね」
「ヒソカの?」
「そ。あいつの試合、先に見て情報を得ておこうと思ってさ。だけどゴンと行くつもりで2枚買ったのに、さっきウイングさんにそれも念を調べることに該当するって言われたから売るしかねーんだよなぁ」
「だったらナマエと行ってきなよ」
「は?」
「だから、せっかくなんだし2人で見に行ってきたらいいよ」

ゴンの提案に面食らっていれば、行く行くー!とナマエが隣で飛び跳ねる。なんでこんなことになったのか。目的は敵であるヒソカの力量を少しでも知ることのなのに、これではまるで……。

「デートだー!やだ、どんな服着ていこう?」

はっきりと言語化されたことでさらにいたたまれなくなったキルアは、ぐしゃぐしゃのチケットを1枚、彼女に押し付けるようにして渡す。「チケット代、ちゃんと払えよな!」今から転売先を探すのも面倒だし、かといって無駄にするには惜しい額だし、手っ取り早く捌くためには都合が良かっただけだ。ナマエも一応念を学んでいるのなら、一緒に行けば解説付きで試合観戦できるかもしれない。

「いいよー!あたしのほうがお姉さんだし、ジュースも奢ってあげちゃう〜!」
「はぁ!?年上面すんな、ジュースぐらい俺が奢ってやるよ!」
「やったー!」

別にこれはデートなんかじゃない。ジュースを奢ってやるのも、念について色々教えてもらう講師料みたいなものだ。断じて、かっこつけたいとかそういうんじゃない。

試合日を確認して今から楽しみだなぁ、とはしゃぐナマエを尻目に、キルアの脳内は色んな言い訳で埋め尽くされていたのだった。


△▼


始まったヒソカVSカストロ戦は、意外にも0−4というカストロの一方的な展開で進んでいた。彼は虎咬拳の遣い手らしく、おまけに能力は分身(ダブル)という厄介な物。これでは実質ヒソカは二人の格闘家を相手取って戦わねばならないようなものだ。しかもヒソカはポイントの失点だけでなく、現在右腕も失っている。予想以上に白熱した試合に、キルアは思わずごくりと唾を呑んだ。

「ちょっとやる気、出てきたかな……?」

リングの上のヒソカはそう言って、自分の右腕の皮をべり、っと食い千切った。たとえそれがパフォーマンスの一環だとしても、常軌を逸した行動に会場内がざわつく。「うわぁ、自分って美味しいのかな」けれども隣から見当はずれな感想が聞こえてきて、キルアはがくっとずっこけそうになった。

「お前なぁ、もっとまじめに見ろよ」
「だってどうせヒソカが勝つんだし」
「……なんでそう思う?」

今日のナマエは”デート”だからか、一段と女の子らしい服装に身を包んでいた。ふんわりと裾が広がり、フリルのあしらわれたワンピースはどことなく母親を彷彿とさせたが、実際彼女によく似合っている。ナマエはうーんとね、と人差し指を自分の唇に当てた。

「念って一口に言っても、能力によって向き不向きがあるの。実はあたし、過去にカストロが戦ってるところを見たことがあるんだけど、彼はあんな分身(ダブル)なんて神経遣う能力を遣うタイプじゃなくって、もっとガッツリ肉体派だと思うんだよね」
「……つまり、あいつは不向きな能力のせいで全力を出せてないってことか?でも、今まではヒソカ戦に備えてわざと分身(ダブル)を遣ってなかった可能性もあるだろ?」
「それはまぁそうなんだけど、なんて言うかなぁ……あたしってほら、人のオーラを食べるじゃん?だから、なんとなく相手の得意ジャンル――系統が分かるんだ」

彼女が言うには念には6種類の系統があり、彼女が人から奪う際も自分の系統に近いほうが吸収しやすいらしい。そして流石にカストロのオーラを吸収したことはないものの、ナマエの受ける印象では、彼自身の系統と分身(ダブル)の能力の間に大きな乖離があるそうだ。

「それにね、正直どっちが本物なのかすぐわかっちゃう」
「え?」
「だって偽物のほう、キレイすぎるんだもん」

ナマエがそういった瞬間、とうとうヒソカの左腕までもが飛ぶ。しかし当のヒソカは余裕の表情のまま、自身の”復活した”右腕を掲げて見せた。

「予知しよう。キミは踊り狂って死ぬ」

そこから先の結末は、奇術師ヒソカの名に相応しい戦いだった――。



「もー、初デートで死人が出るってどうなの?」

そう言ってぶすくれるナマエはやはり、見た目とは違って血や死体にも慣れているようである。キルアは彼女の後ろに続きながら、先ほど見たばかりの試合を一人振り返っていた。
ヒソカが戦うところを見るのは、ハンター試験の時以来だが、前回とは何もかもが違う。観戦することで少しでも情報を得ようと考えていたが、キルアは生で試合を見ても何が起こったのかさっぱりわからなかった。

「なぁナマエ、お前にはヒソカの能力がわかったのか?」
「……んー、だいたいね」
「じゃあ、」
「だめ。それは自分で考えないと意味がないもん。教えたらあたしがウイングさんに怒られちゃうよ」
「……そうだな、悪い」
「ていうかさ、」

そこまで言って、ナマエは急にくるりと振り返った。それにより彼女の髪がふわりと靡いて、シャンプーの香りがキルアの鼻腔をくすぐる。振り返ったナマエはちょっと怒ったような、それでいてどこか悲しそうな、複雑な表情をしていた。

「……キルアはやっぱ、あたしのことなんて興味ないんだね」
「え、」
「いいよ、別に。わかってたもん」
「あ、いや……」

別にこれはデートだったわけじゃない、と思う。しかしナマエがものすごく楽しみにしていたということは知っていたし、キルアだって昨日の夜はどきどきしてあまりよく眠れなかったくらいだ。それなのにいざ試合が始まってみると、ついついそちらにばかり夢中になってしまっていた。

「まあ、こればっかりはしょうがないよね。むしろ、再会できただけでも奇跡みたいなものだし」
「ナマエ、」
「うん、ありがとう。今日は楽しかった」
「おい、待てってば」

自分でもよくわからない焦燥に突き動かされて彼女の腕を掴めば、ナマエはびっくりしたように大きく瞬きを繰り返す。やっぱり掴んだ腕は到底戦う人間のものとは思えないほど細く華奢で、触れたところが熱を帯びたように感じられた。「昔の俺は味見させてやるって言ったんだろ?」覚えてないけど、という言葉を飲み込んで、キルアはそのまま顔を近づける。

至近距離で目が合って、彼女のまつ毛が震えるのが見えた。少し首を傾けた今、互いの吐息の温度まで感じられる。淡い桜色に色づいた彼女の唇は、確かにキルアから見ても美味しそうだった。そしてそのまま吸い寄せられるようにして、もう少し。
もう少しで――

「な、な、な、な!!!何すんのよ!!?」

不意にがくっと体中から力が抜けるような感覚に襲われ、キルアは慌てて足を踏ん張った。この感覚は知っている。ナマエの念だ。なんでこのタイミングでと恨めしい気持ちで彼女を見れば、ナマエは桜色どころか耳まで真っ赤に染まっていた。

「ナマエ、おまえ……相手の同意なしに遣わないってウイングさんと約束してたじゃねーか!」
「どどど同意なしに女の子の唇を奪おうとするほうがどうかしてるもん!!」
「い、今、完全にオッケーの雰囲気だったろ!」

ナマエの赤い顔を見ていると、それが伝染して自分の顔にもぶわりと熱が集まる。確かに今のは少し強引だったかもしれない。でも、ナマエだってこれまで何度も思わせぶりなことを言っていたし、してきてもいた。それなのに、今更駄目だなんてそれはちょっとずるいんじゃないだろうか。

「キ、キルアにはまだ早い!!!」
「はぁ!?ガキ扱いすんなよ!っていうか、いい加減これ解けって!」
「この女ったらし!マセガキ!」
「お前な、人の話を、」
「あんたなんか、まだこれで十分なんだから!」

そう言って真っ赤な顔のままの彼女は、キルアの頬にその柔らかい唇をぶつけた。それはキスというにはあまりに乱暴だったけれど、キルアのオーラどころか思考力すらも奪ってしまう一撃だった。

「な……」
「あ、あたしに1本取られるようじゃまだまだだね!もっと修行して出直してきなさい!次こそちゃんと”噛んで”やるんだから」

捨て台詞まがいの言葉を残して走り去る彼女との距離が5mを越えた時点で、身体からのオーラの流出は止まる。しかしそれでもキルアはまだ動けなかった。自分の頬を抑えて、放心状態でそこに立ち尽くしているのが精いっぱいだ。さっきはもっとこれ以上にすごいことをしようとしていたはずなのに、たった、たったこれだけでこんなにも心臓がうるさいとは。


「あーキルア、少し急ぎすぎちゃったね……」
「っ、ゴン!お前、いつから!?」

ぽん、と慰めるように肩に手を置かれ、振り返ればいつの間にかゴンが苦笑している。「駄目だよ、女の子はもっと段階を踏んでムードとか大事にしてあげなくちゃ」色恋に関しては自分と同程度だと思っていたはずのゴンの一言は、キルアに更なる衝撃を与えた。
こいつ、一体なんなんだよ……。

「うるせー!そもそも、お前のせいで俺の修行も止まってんだからな!!」
「ごめんってば。でも、これでキルアにも目標できたね」
「……」
「早く念をマスターして、ナマエにまだ早いって言われないようにしなくっちゃ」

正直言って、まだ恋だのなんだのはよくわからない。友達自体、できたのがつい最近のことなのだ。
しかし6年もの間、ナマエはキルアのことを探していたと言う。ちょっと異常な性癖はあるけれど、彼女の明け透けなほどまでの好意はくすぐったかったし、成長して女の子らしくなった彼女はとても……。
まぁ、認めるのは悔しいが可愛かった。

「別に……ナマエのことはどうでもいいっつうの」

彼女の真っ赤な顔を思い出したキルアは、再び自分にそれが伝染する前に、行くぞ!とゴンに声をかけた。「とりあえず今は”点”の修行。お前、ぜってー今のままじゃヒソカには勝てないからな」知ろうとすればするほど、念能力に対する謎は深まっていくばかり。家から広い世界に出て、これまでの自分はスタートラインにも立っていなかったのだということを嫌というほど思い知らされた。

「味見だけしてさよならって、そうはいかねーからな」
「味見?」
「いや、なんでもねー」

しかし不思議と、落ち込むどころかキルアの胸は高揚感で満たされていた。
どちらかと言えばキルアは好物を真っ先に食べる派だったが、ナマエのことはじっくり時間をかけてお楽しみにとっておくのも悪くない。自分にそんな変な趣味はなかったはずだが、確かにナマエの唇はとっても美味しそうだった。

「なににやけてんの、キルア」
「にやけてなんかないって」
「にやけてるよ。だって、ヒソカみたいだったもん」
「げ……あいつと一緒にすんのだけはやめろ」

青い果実とは実によく言ったものである。
キルアは盛大に顔をしかめたが、”じっくり味わう”という点に関しては、ヒソカの気持ちもわからなくもない。

認めるのは悔しいが、今より成長した彼女もきっと可愛いんだろうなぁと思った。


MARKER MAKER様に提出


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