- ナノ -

■ 君は可愛い夜の女王

その日は雲一つなく、空気の澄んだ月の綺麗な夜だった。
おかげで夜でも比較的明るく、襲撃にはあまり相応しいとは言えなかったが、戦闘を避けたがらない幻影旅団にとっては大した問題ではない。
今日のお目当てはとあるマフィアのボスが抱える収集物の中にあり、血気盛んな蜘蛛のメンバーはマフィア相手に暴れられることを楽しみにしていた。

「ねぇ、団長。既にセキュリティーが解除されてるみたいなんだけど」

しかし、いざ侵入するぞという段になって、シャルが疑問の声をあげる。たとえ最終的には暴力で解決するとしても、下調べを欠かさないのは彼の癖だった。

「なんだぁ、先客か?」
「ハ、行けばわかるよ」
「そうだな」

クロロは頷いて、仕事の始まりを告げる。全員でかかるほどの大仕事ではなかったので、参加はあくまで任意だった。結果的に情報担当のシャルを除けば、フィンクス、フェイタン、ノブナガ、ウボォーと戦闘員がメインだ。

今夜はきっと可哀想なことになる。
けれども、そんな柄にもない感傷に浸りながら屋敷に足を踏み入れたクロロが見たのは、既に血濡れで横たわるスーツの男たちと、闇夜の中でもはっきりそうとわかるほどの美貌を持った女だった。

「お前、何者ね?」

女の髪は発光して見えるほど白に近い銀髪で、こんな凄惨な現場にいながらもその身体のどこにも返り血を浴びてはいない。怖いほどに落ち着きを払った態度と、何よりも人間の物とは思えない膨大なオーラ量は、フェイタンの警戒が正しいものであることを証明していた。

「誰?ここのマフィアの人?」
「聞いてるのはこちよ。お前これやったか?」
「うん、仕事なの。だからもしあなたたちがマフィアの人なら、あなたたちも殺さなきゃいけないんだけど……」

女は優雅な仕草で顎に手をやると、品定めするみたいにこちらを見た。喧嘩っ早い戦闘員たちは殺気を隠そうともしなかったが、女は微塵も恐怖を感じていないようである。化け物のようなオーラからしても、相当の手練れだと言えるだろう。

クロロは別に強者を求めるタイプの戦闘狂ではなかったが、技術や能力には興味を持つほうである。床に転がる死体はどう見ても素人同士が殺しあった結果の産物に見え、女が直接手を下したわけではないらしい。となると、彼女は操作系と考えるのが妥当であり、団員が敵に回ってしまって同士討ちとなるような事態は避けたかった。

「まぁ待て。俺たちはマフィアじゃない。ここへある物を盗みに入ったんだ」
「そうなの?あーよかった。じゃあ殺さなくていいね」
「お前、随分と自信があるみたいだなぁ。ちょっと手合わせしてくれや」
「えー。やだよ。お金にもなんないし疲れるだけなのに」

彼女がそう言い終わるのと、メンバーが動くのとどちらが早かったのだろう。
しかし空気を切り裂くように素早く繰り出された攻撃が彼女に届くことはなく、桁外れに分厚い堅の壁がすべてを阻む。しかし戦闘の構えさえとらないその姿はかえって挑発的に映り、フェイタンは聞こえるほどの大きさで舌打ちをした。

「こいつ、人間か?異常に固えな!」
「ウボォーのパンチが通らないってどんだけだよ……」
「いいぜ、おもしれぇ!!おい、ビッグバンインパクトも試してみていいか?」
「やだやだ、やめてよ。私もう帰りたいんだけど。
ていうか、もしかしてだけど、あなた達って幻影旅団?」

困ったような表情になりつつも、相変わらず攻撃はちっとも通らない。反対に彼女が攻撃してくるようなこともなかったが、聞かれた問いにクロロはあぁと頷いた。別に隠し立てするようなことではない。それよりも女の正体のほうが気にかかっていた。

「うわーやっぱり。どうしよ、幻影旅団には関わるなってパパに言われてるのに」
「お前は何者だ?」
「んー、ゾルディックって言ったらわかる?」
「ゾルディック?ということはイルミの兄妹か?」

思いがけずビッグなファミリーネームに驚いたが、なんとなくその説明だけで腑に落ちたような気もする。女はイルミには似ていなかったものの、その髪色や瞳の色は3年ほど前に8番を殺ったゾルディックの男に似ていた。ひとまず団員に手出しをやめるように言う。

「あれ、イルのこと知ってるの?あの子ったらこっそりこんな悪い人達とつるんでるわけ?感心しないなあ」
「殺し屋に言われたくねーっつの!」

イルミの名前を出すと、女は元から大きな目をさらに大きく見開いた。実際、ゾルディック家における蜘蛛の扱いがどういったものなのかは知らないが、あまり関わりを推奨されていないようである。けれどもその数秒後には自分の中で納得したのか、女は一人でうんうんと頷いた。

「ま、いいや。イルと繋がってるってことはそれだけお金持ちってことでしょ?じゃあ営業しといて損はないよね」

そう言って懐から名刺を取り出すと、彼女は床に置いた。手渡ししないのは、互いの間合いに入る気はないということなのだろう。

「私は夜しか仕事しないけど、もし機会があったらよろしくね。初回は特別に3割引きにしてあげる。じゃ」
「あ、おい!なに勝手に話終わらせてんだ」

そもそも他のメンバーは肉体言語でしか会話していなかったように思うが、誰の声にも耳を貸さず女は去っていく。その間ももちろんじゃれるように追撃されているが、彼女はイルミの血縁だというのが納得できるくらいのマイペースさですべてかわし続け、まんまと逃げられてしまった。

「あー行っちゃったね。お陰でこっちの仕事は楽になったけど……」
「あの女マジでつえーな。オーラ量も相当だし、ガチで攻撃されたら変化系のフェイだとやばかったんじゃねぇか?」
「ハ?ノブナガお前、ワタシ舐めてるか?ちょど暴れ足りないと思てたところね。殺てもいいよ」
「うっし、俺も混ぜろ」
「俺もだ」
「ちょっと、ほどほどにしなよねー」

盛り上がる男たちを尻目に、シャルは大きくため息をつく。それから、クロロが拾った名刺を覗き込んできた。

「どうする団長?一応貰える物は貰うけどさ、その顔はもうお宝なんて興味ないって顔でしょ」

名刺に書かれた彼女の名前はナマエ=ゾルディック。あの家の人間は”非常識”な強さを持っているが、一方でこうした妙に”常識的な部分”も持ち合わせているのが実にアンバランスで面白い。

「あぁ。ゾルディックというのが少し厄介だが……それだけで諦めるのは実に惜しい」

宝としてか、能力としてかは自分でもはっきりしないが、とにかくナマエという人間を知りたいと思ったのは確かだった。


▲▽


仕事を終えて帰宅すると、ちょうど本邸の玄関を通り抜けたところで後ろからただいまーと声がする。
イルミはぴたりと足を止めて振り返り、もはや条件反射のようにおかえり、と返答した。

「姉さんもちょうど仕事終わり?」
「うん!」

とは言うものの、お互いそうとは思えぬほど服装の乱れも汚れもない。特に、髪も肌も透けるように白い姉は血生臭い仕事とは対極に位置する存在に見えた。しかし、実際のところ彼女はイルミに負けず劣らず仕事のことしか……いや、仕事そのものより、お金や損得にうるさい合理主義者である。

「今日はファミリー全員殺っていい太っ腹な仕事だったの」
「それは確かに姉さん向きだね」
「でも暗殺に見せかけたくないって注文だったから殺し合いしてもらうことにしてさぁ、思ったより時間がかかっちゃった。だからコスパ面で若干の減点かな」

そう言って、ぺろりと舌を出した彼女の念、"繰り夜の月下美人(クイーン・オブ・ザ ナイト)"は放出寄りの操作系能力だ。術者の円の有効範囲に香りが拡散し、一晩の間、嗅いだ者の精神や神経系統に作用する。
香りは完全には防ぐのが難しいうえに、遠隔から広範囲、大人数を操ることができるので、陽動から撹乱、殺しまで応用が効く優れものだ。欠点としては、味方にも香りが舞ってしまうのでチームプレイに適さないというところだが、今回のような暗殺対象が多い仕事は姉が一人で担当することが多かった。

「あ!そうだ!イル!私あなたにお説教しなくちゃいけないんだけど!」
「……なに?」

いきなりそんなことを言われて、ほとんど無意識のうちにイルミは今何時だっけ?と考える。
相変わらず目の前の彼女のオーラは化け物じみているが、これもまた姉の念に理由があるのだ。"月下美人"の名前を冠するだけあって、彼女の能力は夜限定。日没から1時間ごとにオーラ総量が指数関数的に増大していく。ピークは夜の12時で、そこからはまた日の出に向けて減衰していくのだ。

体感時間では日の出まではあと2時間ほどあった。夜の姉相手だと、イルミでも正面切っての戦闘では勝ち目がない。もし深夜の姉が本気で殺しにかかってきたら、家族総出でも酷く苦戦するかもしれないと思うほどだ。
だから改まって"説教"と言われ、幼い頃から訓練で色々と身にしみているイルミは年甲斐もなく身を固くしたが、当のナマエはお構いなしに距離を詰めてきた。

「イルったら、お姉ちゃんに黙って幻影旅団とつるんでるでしょ!」
「あぁ……そのことか。別にビジネスでしか絡んでないから問題ないよ。っていうか、なんで知ってるの?」
「だって今日会ったから」
「それ本当?」

本当なら厄介この上ない。戦闘狂のヒソカも駄目だが、クロロもナマエに会えば間違いなく興味をそそられるだろう。それだけ夜の姉のオーラはすさまじく、同時に人を惹きつける。逆に、制約で昼間は一般人レベルのオーラしかなくなってしまうが、姉はもともと仕事以外での外出をしなかった。

それは彼女が日光過敏症という体質のせいで、太陽光はおろか照明のような人工の光でさえも、アレルギー反応を起こしてしまうというハンデを背負っているからだ。ひとたび可視光に晒されれば、15分もしないうちに肌に赤い蕁麻疹が浮かび上がる。光を避ければ1時間ほどで腫れは収まるが、酷い時には頭痛や吐き気も併発するらしい。

こればっかりは生まれつきの体質の問題だから、訓練うんぬんではどうにもならなかったそうだ。
だから昼間はこの分厚いコンクリートに遮られたゾルディック家の屋敷に、吸血鬼よろしく引きこもるのが一番。合理主義の姉は自分の境遇を悲観することもなく、仕事は基本夜だし夜さえ強ければ良いわと割り切った結果、さらに昼間の活動が難しいような制約を設けてしまったのだ。

夜の姉は恐ろしいほど強いけれど、逆に昼間は死ぬほど弱い。それが分かっているから、外部の人間を姉に近づけたくなかった。イルミはすっかり自分が説教されていることを忘れて話に食いついたが、姉の方も別段そこまで怒っているわけではないようである。

「一応聞くけど何もされてないよね?」
「うん、夜なら負けないって。どっちかって言うと営業しちゃった」
「は?営業って、まさか名刺渡したの?」
「うん。だってイルだけずるいもん。幻影旅団なんて絶対いいお得意様でしょ」
「そうだけど、そうじゃなくて……」

自分が関わっている手前、危険な奴らだから手を引けというのはおかしな話だ。しかしイルミは男で、姉は女。命以外の心配もある。
これらについてどう説明しようかとイルミが考えあぐねていると、当のナマエは呑気にぐいと伸びをした。

「んーじゃあ私、日の出までにシャワー浴びたいから、もう行くね。おやすみ」
「あっ、ちょっと」

引き留めようとしたが聞いちゃいない。
イルミは彼にしては珍しく大きなため息をついた。昔から姉は自分のペースで生きているので、言うことを聞かせるのは難しい。ただ単にイルミが姉には強く出られないというのもある。弟にとって姉というのは、下手をすると兄よりも超えにくい存在なのである。

しかし、そんなイルミの悩みはかかってきた電話によって一時中断された。早速クロロかと思ってドキリとしたが、画面に表示された相手は暇なことで有名な道化師の方である。

「もしもし、何の用?」

イルミも出来れば日の出までにはシャワーを浴びたかったし、くだらないことだったらすぐに切ろうと決めていた。

「何の用、って酷いなぁ。おまけにキミはボクに大事なことを黙っていたし」
「は?何の話?」
「クロロから聞いたよ。キミ、とっても強い妹がいるんだって?」
「……情報回るの早くない?妹じゃなくて姉だけど」

結局、一番バレたくなかった奴にバレた。一瞬シラを切ろうかどうか迷ったが、姉がクロロに名刺を渡しているのならそれも無駄だろう。なんとなく妹に間違われるのは心外で訂正してしまったが、ヒソカはそれよりも愚痴りたくてたまらないようだった。

「あーあ、今日の仕事サボらなきゃよかったよ。解散の頃合いを伺って顔を出したんだけどさ、クロロったらずっと上の空で、殺気飛ばしてもボクに見向きもしないんだ。他の旅団員も相当な遣い手だって言ってたし、おまけにお姉さんはとびきりの美人だって話じゃないか」
「安心しなよ。クロロにもお前にも関係ないことだから」
「そう言わずにさぁ」
「しつこい」

こいつは本当に節操がなくて困る。クロロにだけ熱を上げていればいいものを、隙あらば姉にまでちょっかいかけるつもりでいるのだ。

乱暴に話を切り上げたイルミは、やっぱり警戒を強めたほうがよさそうだと考えた。姉の念は昼間に大きな制約を背負うが、クロロがコピーして任意のタイミングで能力を使用できるのならデメリットゼロの破格の能力だし、ヒソカはヒソカで夜の姉と戦えさえすれば昼間のことなんて気にしないだろう。

とりあえず連絡先を知ったクロロのほうをまず何とかしなければならなかった。仕事と言われると接触自体を妨害するのは難しいが、二人きりにはさせたくない。もしもクロロからの依頼があれば、あれこれ理由をつけて自分も同伴しよう。

イルミは何としてでも害虫駆除をするぞ、という決意を固めると、ようやく自室に向かって歩を進めた。


△▼


「相変わらず、目を見張るほどのオーラと美貌だな」
「ありがと。でも褒めたって3割よりはまけないからね」
「おや、世辞のつもりはなかったんだが」

はは、とにこかやに笑ったクロロは、普段と違って前髪を下ろし、黒のスーツに身を包んでいる。ドレスコードがあるので当然といえば当然なのだが、そもそもイルミからすればこんな高級レストランを仕事の相談の場に指定してきたこと自体がもう疑わしい。

「で、なぜお前がいる?俺は二人も雇ってやれるほど金を持て余してるわけではないんだが」

イルミがじっとクロロを睨んでいると、彼はわかりやすいくらいに笑みを消して訊ねてきた。

「姉さんが心配だったからついてきたけど、案の定という他ないね。仕事には手を出さないから安心しなよ。ほんとに仕事があるならだけど」

夜景の見える個室なんて、どう考えても女受けを狙っているとしか思えない。生憎、姉は実家がかなりの高所にあるため景色に興味はないようだったが、こういう小細工めいたところが癪に障るのだ。
もともと二名だった予約を金の力で無理矢理三名へと捻じ曲げたイルミは、隣で何も気にせず料理に舌鼓を打っている姉を見てどっと疲れたが増した気がした。

「それにしても、こうやって並ぶとあまり似てない姉弟だな」
「私はパパ似でイルはママ似だし。あ、そういえば依頼って?誰を殺してほしいの?」
「悪いが暗殺の依頼ではないんだ。今度潜入するパーティでのパートナー役をお願いしたい」
「うーん、暗殺以外の仕事もしないわけじゃないけど……」

迷う素振りを見せる姉に、断ればいいのにと内心で苛立つ。ゾルディックを便利屋扱いしてもらっては困る。自分の小遣い稼ぎは棚に上げて、イルミは不機嫌さを隠しもせずに腕を組んだ。

「そんなの、旅団の女にやらせればいいだろ。わざわざ姉さんに頼む必要がない」
「あいつらにはあいつらで他の仕事をしてもらう都合があるんだ。あと今回は少し格式の高いところで、マナーだのなんだの言われるのはごめんだそうだ」
「だったら適当にそのへんの女でも落とせば、」
「いいよ。乗った」
「ちょっと、姉さん」

ばっ、と隣の姉のほうに向き直ったが、彼女はイルミの非難するような視線にも首を傾げただけ。相変わらず食事の手を止める素振りはないし、順調に皿の上のものは片付けられていく。

「なに?何か問題でもあるの?これは私に来た仕事。ビジネスに口を挟むなんて野暮なことしないよね?」
「そんなつもりはないよ。でも来る前にも説明したけど、こいつは他人の念を盗む。警戒して当然だ」
「おいおい、勝手に顧客の情報を流すなんて信用問題に関わるんじゃないのか?」
「家族間での情報共有は別におかしなことじゃないよ」

そもそも顧客と言っても、十分ターゲットになり得る相手だ。自分の首にも相当な金額かかけられているようだが、それは目の前の男も同じだろう。
クロロは肩をすくめると、やれやれとこれみよがしに呆れて見せた。

「お前がブラコンなのは聞いていたが、まさかシスコンも併発してるとはな」
「お前たちは悪い虫の域を超えて完全な害虫だからね。駆除して当然でしょ」
「俺としては花の香りに引き寄せられた蝶だと言って欲しいところだが」
「蝶だって?一万歩譲ったとしても蛾でしょ」

「今日のイルはよく喋るねー」

途中でマイペースな姉に割り込まれ、一瞬虚を突かれたイルミは口を噤む。人の気も知らないで。一体誰のためだと思っているのか。しかし、苛立ちのあまり冷静さを欠いていたのは認めざるを得なかった。

「……とにかく、オレはこの依頼受けるの反対。姉さんも考え直して」
「やだ」
「いい加減にしないと怒るよ」

別にこんなところで喧嘩をしたいわけじゃなかったが、思わず口をついて出た言葉に姉がぴたりと動きをとめる。
中座の形にナイフとフォークを置いた彼女を見て、イルミはようやくしまった、と思った。姉は怒ると怖いし、厄介なことに頑固である。

「あのさ、それはこっちの台詞。一体何の権利があってイルは私の邪魔をするわけ?旅団に関わるなって言うパパの言いつけを先に破ったのはイルのほうだし、私のこれもビジネス。自分の裁量内でできる仕事しか受けないんだから、イルにとやかく口出しされる筋合いはない」
「……それはそうだけど、オレは姉さんの為を想って、」
「余計なお世話。そういうのは私に勝てるようになってから言って」
「……」

普段はのんびりしているが、こういう理屈っぽいところは流石に姉弟だなと思わざるを得なかった。完全に言い負かされた形のイルミを、面白そうな顔で見てくるクロロが心底鬱陶しい。
だが、口で負けたから次は力づく、というわけにはいかない相手であるのは明白だった。

「……わかったよ。今回の件に関しては姉さんに決定権がある」
「当然」
「でもクロロ、その代わりお前には絶対に守ってほしいことがあるんだ」
「ほう、一応聞こうじゃないか」
「ヒソカだけは姉さんに近づけないで」
「あぁ……」

イルミの切なる願いを聞くと、クロロはいかにも得心したというふうに頷いた。「そうだな。俺としてもこれ以上余計な邪魔が入るのは望ましくない」ヒソカのストーカーに関しては彼が一番害を被っているので、何かしら思うところがあったのかもしれない。


「まったく酷いなぁ、みんなしてボクを除け者にして」

その時、ノックも無しに扉が開いて、ウエイターの格好をした男が許可もなく部屋の中に入ってきた。一応手には美しく盛られたデザートの盆こそ持っているが、普通ならばまずありえない礼を欠いた行いである。

「わー、美味しそう!」

姉はというとすっかり男がテーブルに置いたデザートに目を奪われているようだったが、こちらはそれどころではなかった。
生憎、イルミもクロロもこの逆スッピン詐欺をかましてくる男のことは嫌という程知っている。

「……なんでお前がここにいるの。ストーカーも大概にしてくれる?」
「だいたいなんだその格好は。気持ちが悪い」
「結構似合ってるだろう?まあ初めからボクも誘ってくれれば、ボーイ君も身ぐるみはがされるようなことはなかったんだけどねぇ」

髪を下ろし、いつもの奇抜な服やペイントをしていないと、容姿の良さだけが残るので非常にタチが悪い。クロロといい、ヒソカといい、こいつらはわざとやっているのかとイルミは内心やきもきした。

「やぁ、初めまして。ボクはヒソカ。キミがイルミのお姉さんだよね?」
「え、うん。そうだけど……」
「会えて嬉しいよ。それにしてもほんと、聞いてた通りのいいオーラで、ボクさっきからもうビンビン」
「はい……?」

そう言ったヒソカの言葉通り、ウエイターの制服の上からでも股間部分が隆起しているのがよくわかった。たとえどれだけ顔が良かろうとも、これは完全にアウトである。しかもヒソカは立って、こっちは座っているから距離的にもまあまあ近く、最悪としか言いようがない。
うっかりソレを視界に入れてしまったらしい姉は、ぎこちない動きで助けを求める視線をイルミに向けた。

「……え?誰?なにこの変態……」
「今はこんな格好をしてるけど、ボクも蜘蛛のメンバーさ」
「そ、そうなんだ……」

ここへきて初めて、怖いもの知らずだった姉の表情が強張る。いくら戦闘に自信があったとしても、興奮したヒソカのまとわりつくようなオーラは生理的な嫌悪感を与えるらしい。
イルミはがたりと席を立つと、姉を庇うようにヒソカとの間に入った。

「うちの姉さんに汚いもの近づけるのやめてくれない?」
「キミにだってツイてるくせに」
「ほんとに気持ち悪いから。死んで」

いっそ不能にしてやろうかと針を取り出せば、怖い怖いと笑いながらヒソカが盆で股間を覆う。隠されてしかるべきものなのに、隠した方が卑猥で下品というのは逆に才能なのではないだろうか。

「あの……団長さん、こういう部下がいるなら今後のお取引はナシの方向で……」
「い、いや待ってくれ!確かにこいつは変態だが、変態なのはこいつだけだ」
「それ、何のフォローにもなってなくない?」

しかし、ヒソカ登場のお陰で、姉が仕事の話を無かったことにしたいと言い出したのは良い流れだった。確かに旅団は金払いの面で上客だが、中に一人変質者がいるだけであらゆるメリットが相殺される。損得にうるさい姉は損切りも大得意だ。リスクがあるなら絶対に請け負わないだろう。

「やだなぁ、こんな美人で強い子を前にして、勃たないほうが失礼ってもんじゃないか」
「どう考えても失礼の感覚バグってるでしょ。ほら、姉さん、」
「うん、ごめん。イルの言う通りだった。パパが旅団はダメって言った理由がよくわかった」
「やめろ、蜘蛛を変態集団みたいに言うな」

イルミの促しに従い、姉は席を立つ。まだ少しデザートへの未練は感じられたが、やはり身の危険には代えられないようだ。

「ごめんなさい。ここのお代はうちが持ちますから、勘弁してください」
「おい、待ってくれ」
「ん〜ダメダメ。逃がさないよ」

ドアの前で通せんぼするように立ちはだかるヒソカはニヤニヤと嬉しそうな笑みを浮かべている。思わず舌打ちをしたイルミが窓のほうに視線を走らせると、そちらにはいつの間にかクロロが立っていた。

「悪いが、不名誉な誤解をされたまま帰すわけには行かないな」
「……はぁ、よっぽど死にたいみたいだね」

まさかこんな形で蜘蛛と殺り会うことになるとは思っていなかったが、どうせ最後にはどちらかがどちらかを殺すと思っていた。それが少し早まったところでなんの問題があるというのだろう。

「イル、やめて。お金にもならない戦闘は損だよ」
「でもこの場合やむを得ないよね」
「ククク……いいね。いいよ、キミ達。お姉さんの方も口ではそう言いつつ、どんどんオーラが強まってるじゃないか」

そういえば、コース料理も終盤のデザートに差し掛かるほど時間が経っている。日没を概算で17時と見積もっても、4時間は経っている計算だ。つまり、今の姉は平常時の16倍のオーラ量を持つ。そしてまだまだこれから強くなるのだ。

「イル、」
「……わかった。任せるよ」

ついつい姉を守らねばと気負ってしまったが、冷静さが戻ってくると正面衝突は避けたほうがいいのはわかる。あっさりと構えを解いたイルミに、ヒソカもクロロも一瞬怪訝そうな顔になったが、余裕をかましていられるのは今のうちだ。悔しいけれど、夜ならばイルミの出番はない。
代わりに前へと進み出たナマエは、その技の名に相応しい美貌でもって微笑んだ。

「繰り夜の月下美人(クイーン・オブ・ザ ナイト)!」

瞬間、甘く優雅な香りが鼻孔に広がる。効果範囲は狭めたようだが、それでも余裕で店内を覆うレベルだろう。あちらこちらで人や物の倒れる音が聞こえ、不意を打たれたヒソカやクロロまでもが膝をつく。もちろん、それはこの場にいるイルミも例外ではなかった。だからこそ過度に危険な操作は行っていないはずだが、意思に反してすうっと力が抜けていく。

「ごめん、イルミ。とりあえず眠らせる。運んであげるから許して」
「わか……った」

これでも並みの人間よりは眠気にも耐性があるほうだ。姉の腕が自分を支えるのをぼんやりと感じながら、わが身の情けなさに屈辱を感じる。昔から姉には、特に夜の姉には勝てない。その分昼間はイルミが彼女を危険から遠ざけているが、本当はいつだって守りたいのだ。

「ちょ……」

しかしイルミの屈辱はここで終わりではなかった。なんと数ある運び方の中で、姉が選んだのはお姫様だっこ。これにはさすがに抵抗しようと試みたが、動きの鈍い身体ではそのまま抑え込まれて終わる。

「大人しくして。大丈夫だよ、落としたりしないから」
「そ、じゃなく……て……」
「うんうん、イルはおっきくなっても可愛いね」

昔からよく言われていた台詞だが、本音を言えば可愛いよりも格好いいと言われたい。しかしイルミは最後には諦めて力を抜いた。姉が蜘蛛と関わらないのなら今のところはそれでいい。今後もずっと家族として、一番近くにいられるのはイルミだ。

姉の香りに誘われるのは自分だけでいい。

「姉さ……んのほう、が、」
「いいから寝てなよ」

夜の女王はそう言って、大輪の花のような艶やかな笑みを浮かべる。黙っていると冷たい印象の美人だが、こうして笑えば随分と可愛らしい雰囲気になるものだ。

「おやすみ、イル」
「……うん」

そのとき脳裏に浮かんだのは、はるか昔に植物図鑑で見た月下美人の花だ。闇夜に浮かぶ白い花の神秘的な美しさと、限られた開花時間の儚さがまるで姉みたいだと言うと、彼女は驚いた顔をしていたっけ。

――ええー。夜、しかも年に数回しか咲かないなんて、愛でるには損じゃない?

あの日は雲一つなくやたらと日差しの強い日で、いつにもまして体調が悪そうな姉はベッドから出られないでいた。そこへそれなら暇つぶしを兼ねて座学でも、と様々な図鑑をもって押しかけたのがイルミである。植物の有毒、無毒を知っておくのもためになることで、可能な限りの暗がりで二人して図鑑を眺めていた。

――でも、限られた時間しか咲かないほうが、独り占めできるから結果的には得かもしれない
――なるほど、得ね……。イルはこの花好き?
――うん。
――そっか。うん……そっか。

考え込んだ後、一瞬、照れくさそうな顔になった姉はドキリとするほど可愛かったし、あの時言った気持ちは今でも変わっていない。

夜咲く花を知るのは自分だけでいいのだ。
そう思いながら、イルミはようやくまどろみの中に落ちていったのだった。


MARKER MAKER様に提出


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