■ ◆きみは盲目
酷薄そうな月が沈み、素知らぬ顔して太陽が昇るころ、私の好きな人は今日も一仕事終えて帰ってくる。残念ながら私にはその足音も気配も掴むことはできないけれども、彼の自室でいずれは開く扉の前に陣取っていれば、帰宅を見逃すことはない。
「イルミさん、おかえりなさい!」
その日も私はそう言って、満面の笑みで彼を出迎えた。「今日は早かったですね」ずっと寝ないで待っているというのも暇だったので、彼が早く帰ってくるととても嬉しい。イルミさんはそのイメージ通り、部屋も随分と殺風景で、私が暇を潰せるような娯楽の類は何も置かれてなかった。
「そうそう、さっきミルキくんがイルミさんのこと探してましたよ。過去にイルミさんに送られてきたお見合い写真をどこにやったか知りたいんですって」
返り血ひとつ浴びていないイルミさんは、無言のまま上着を脱ぐ。「おっと」いくらイルミさんが気にしないとしても、流石に乙女である私は男性の着替えを見ることには慣れていない。慌てて後ろを向けば、イルミさんは上着だけ脱ぎ捨て、そのままバスルームへと向かったようだった。
「でも、どうしてお見合い写真なんて探してるんだろう。もしかしてイルミさんのお嫁さん候補の中に、ミルキくんの想い人でもいたんですかねぇ。
ほら、数年に一度、同業者同士の集まりがあるでしょう?そこでどこかのお嬢さんに一目ぼれしちゃったとか」
あはは、と声に出して笑ってみたが、それはまさに自分のことだ。
私は三年前、同業者の横の繋がりや情報交換を狙いとしたパーティーでイルミさんに出会い、一目で彼のことを好きになってしまった。
一目惚れなだけあって、見た目がものすごくタイプだったというのがひとつある。でも必死で彼のことを知ろうとするうちに、容姿だけでなく仕事に対する真面目さとか、家族に見せる厳しい優しさとか、そういうものも含めて大好きになった。
もっとも、それはあくまで憧れであって、こうして彼の帰りを待てるようになるとは想像もしていなかったけれど。
「ねぇ、イルミさん」
シャワーの水音が、だだっ広い洗面所に反響する。私は鏡の前に立って、特に美人でもなんでもない自分の顔を見ようとした。自分の顔が好きじゃないなら見なければいいのに、鏡の前に立つとつい癖で覗き込んでしまう。無駄なあがきとは知りつつも、少しでもよく見せたいと思ってしまうからなのだろう。
「私、本当はわかってるんです。イルミさんには、もっと素敵な女性がふさわしいって。私みたいに身体が弱くて家に引きこもるしかできない女じゃなくって、もっと強くて美人で暗殺の上手い人がいいって。だからイルミさんの前にそういう人が現れるまでの間だけでも、私、少しでもあなたの役に立てたらいいなって……」
独り言と片付けるにはあまりに大きい声だったが、当然返事はかえってこない。でもまぁ、気にはしていなかった。もともと彼は弱小暗殺一家の極潰しである私にとって高根の花で憧れの存在。今こうして近くにいられるだけでも信じられないくらい幸運なことなのだ。
「私、明日からお仕事ついていきますね」
意を決してそう言うと、一瞬、ぴたりと水音が止んだ。「絶対ご迷惑はおかけしません。私にも何かできることがないか探します」勇気が萎んでしまわないうちに言い切って、そのまま彼の部屋を出る。
「おやすみなさい、イルミさん」
私の行き先なんてものはどこでもよかった。
▼△
「やぁ、キミから誘ってくれるなんて珍しいねぇ。
一体どういう風の吹き回しだい?」
翌日。待ち合わせに現れた派手な格好の男に、私は思わず口をあんぐりと開けて固まる。まさかイルミさんの仕事についていくと決めた初日に、プライベートな部分を垣間見てしまうことになるとは思いもよらなかった。
「特に意味はないよ。ヒソカなら暇そうだろうなって思っただけ」
イルミさんはヒソカとかいう男の格好を見ても、少しも驚く様子はなかった。彼自身、仕事着はかなり変わったものを着ているので抵抗がないのか、あるいはこの男の格好を見慣れているのだろう。
イルミさんが仕事の前に時間を作って会うだけあって、ヒソカも相当な実力者のようだった。
「キミはいつも忙しそうじゃないか。それなのにわざわざ時間を作って?」
「たまにはいいでしょ。なに、文句でもあるわけ?」
「いや、嬉しいよ」
二人はお洒落なバーカウンターに並んで腰かけ、自然に会話を進めている。私はその様子を少し離れたところから、信じられないものを見るような目で眺めていた。
「さて、挨拶はここまで。キミがわざわざこうしてボクを呼ぶくらいなんだから、ほんとは何かあるんだろう?」
「まぁ最近色々あってね」
お酒を飲むイルミさんの横顔はとてつもなく色っぽかった。だからこそ余計に、隣りの男の存在を邪推してしまう。
イルミさんは友人を作らない主義だと聞いていたし、もしかして”そういうこと”なのだろうか。確かに彼は今まで女性の影を家に持ち帰ってきたことはなかった。もし外に女性がいたとしても私に気兼ねするはずないし、実は守備範囲が違ったということなのだろうか。
いやでも、まさか、そんな。
ひとりでぐるぐると考え込む私をよそに、二人の会話は進んでいく。さらりと髪を耳にかけたイルミさんは、その長い脚を惜しげも無く組み替えた。
「ねえ、オレを見てさ、何か気づかない?」
「なんだい?髪でも切ったのかい?」
「……ふざけてないで、まじめに」
「と、言われてもねぇ」
ヒソカは来た時からにやにやしている男だったが、ここへきて初めて困惑したような表情を浮かべた。私もそれは仕方ないと思う。それくらいイルミさんの質問は抽象的で、らしくなかった。会話だけを聞いていれば、まるでネイルを新色にしたばかりのめんどくさい女のようではないか。ヒソカがあてずっぽうで髪のことを口にした気持ちもわかる。
「まさか、黒目を大きくするコンタクトをつけてるなんて言わないだろうね?」
「は?馬鹿じゃないの?ちゃんと凝してる?」
「してるよ、さっきから」
凝、と言われ、私も慌てて目にオーラを集める。病弱な出来損ないだが、私だって少しは念のことを知っているのだ。ほとんど修行らしい修行ができていなかったので発の形成にまでは至っていなかったが、水見式で確かめた系統は具現化系。できればイルミさんが望むものを具現化しようと考えている。
しかしイルミさんの頭のてっぺんから足の先まで念入りに凝で見つめても、私には特に何もわからなかった。こっそり念文字でも書いているのかと思ったが、ヒソカの反応的にもそういうことではないらしい。
「はぁ、わかった。もういい」
やがてイルミさんはため息をつくと、カウンターに代金を置いて立ち上がった。
「ボクは全然よくないんだけど、答えは教えてくれないのかい?」
「オレにもまだわからないことがあるから話せない。とりあえず、ヒソカのお陰でひとつ確認がとれたよ」
イルミさんが店を出る雰囲気なので、私もさりげなく立ち上がる。最初こそ疑ってしまったものの、どうやらヒソカとイルミさんは別に怪しい関係ではないようだ。
「酷いなぁ、最悪何かにボクを巻き込むつもりだったのかい?」
しかし、友人関係と言うのもなんだかしっくりこなかった。イルミさんと対等に会話できるのは羨ましいけれど、イルミさん側にヒソカに対する思いやりは特に見受けられない。そういうドライなところもまた魅力的なのだけれど。
「だって、いい年して親父たちに頼るのもあれでしょ。弟たちは言わずもがな」
「まぁ、いいケド……その代わり、」
「わかってるよ。はいこれ情報」
そう言って彼が差し出したのは小さなメモリーカード。
「大半は魔獣としての立場を受け入れたらしいけどさ、キメラアントの残党にもなかなか手ごわいのがいるみたいだよ」
ずっと引きこもっていたせいで世間に疎い私にはわからなかったが、どうやらヒソカのターゲットか何かの情報らしい。「へぇ、暇つぶしにはなるかな」呟いたヒソカはもう、イルミさんに振り回されたことを気にしていない様子だった。どうやらお互い、そこまで互いのことに興味がないようでもある。
「じゃ、これからオレは仕事だから」
そうして、颯爽と店を出るイルミさんの後を、私は慌てて追いかけることになったのであった。
△▼
「いやだ!どうしよう!そんな……」
血なんて嫌と言うほど見慣れている。実際、自分でもよく口から吐いていた。
それなのにいざ目の前でイルミさんが血を流すのを見ると、私は完全にパニックを起こしてしまった。
「そ、そんな深い傷ではないと思うけど、止血しなきゃ!あぁ、でも私じゃ……」
ターゲットの護衛についていたのは念能力者。それも一人かと思われたそれは、ぱっと見では見分けがつかないほどよく似た双子だった。
早々に敵が二人だと気付いたイルミさんは、それでも慌てず順に殺していく。けれども双子が真価を発揮するのは、その片割れが死んでからだった。
応戦するイルミさんと、何もできずそこにいるだけの私。本当に情けない。しかも、もっと最悪なことに、今の私では左肩に怪我を負ってしまった彼を手当てしてやることもできないのだ。
「ごめんなさい、私、本当に役立たずで……!これじゃなんのために着いてきたんだか。あぁ、もう本当にやだ!どうして私はこんな……」
気分最悪なのはイルミさんだろうに、我慢しようと思っても涙が止まらない。このくらいの怪我でイルミさんが死ぬわけないと頭ではわかっていたが、物陰に一度身を潜めた彼の前で私はひたすらにおろおろしていた。
「大丈夫ですか?動けます?」
話しかけても無駄だというのはわかっている。それどころかむしろ、縁起でもないから私なんかが話しかけないほうがいい。イルミさんは”初めから一人で仕事に行っている”のだから、そもそも私の助けなど期待していないし、私の存在も知らない。
そうだった、はずなのに――
「うるさいよ、お前」
そう冷淡に言い放った彼の瞳に、自分が映り込んだのが嬉しくて堪らなかった。
今の一瞬だけは、心配も惨めさも何もかも頭から吹き飛んで、ただただ歓喜が全身を貫いた。彼が私に話しかけた。一生、叶うことがないと思っていたのに、彼がその目で私を見て、私に向かって話しかけたのだ。
それも、一言どころではなかった。
「ほんとになんなのお前、なんで念のくせにオレを心配してんの、オレに恨みでもあったんじゃないの」
形のいい眉を少しひそめ、煩わしそうに薄い唇から発せられたその内容は、確かに私に向けた質問だった。答えなければ、と思うものの、まるで喉に何かがつっかえたみたいに上手く話せない。
「ちがっ、恨み、なんて!」
とりあえず、大きく首を横に振ることしかできなかった。私が彼に恨みを抱くなんてありえない。確かに病に負けて死んだあと、未練のせいか幽霊になってしまっていたが、初めから悪意なんて欠片ほども持っていなかった。
「わ、私、幽霊ですけど、何も悪いことするつもりありません!っていうか、イルミさんが”見える人”だなんて、知らなかったし!」
見えていないと思っていたからこそ、彼の部屋に居座り、臆面なく自由に話しかけることができていたのだ。もし、今まですべて見られていて聞かれていたのだとしたら、死んでいるのにもう一度死にたい気分である。
しかし、一度話しかけたことで吹っ切れたのか、イルミさんは確かに私がそこに存在しているかのように扱った。
「幽霊?何言ってんの?お前、どう見たって念でしょ。それも死後の、ね。おそらく生前は具現化系能力者」
「死後の……念?私が?」
「そんなことも知らなかったの?はぁ、ずっと警戒してたオレがバカみたいだからやめてくれる?」
イルミさんが言うには、ある日突然私が身の回りをうろちょろするようになったらしい。オーラの塊で実体がないのは確認済みだが、特に害意があるようには思えない。具現化能力のようだが、もしも特質だった場合、操作系の能力も考えられる。今は無害でも反応を返すと発動条件を満たす要請型の可能性も捨てきれない。
そういうわけでしばらくいないもののように扱っていた、と。
一応術者が死んでいない場合も考えて弟のミルキにも原因の女を探させていたし、ヒソカを使って他の人間には見えないし干渉するつもりもないのも確認済み。
そこまで一度に説明したイルミさんは、その大きな瞳で私を睨みつけた。
「でも、結局お前の目的だけはわからなかった。ほんと一体なんなのさ。普通、オレが怪我したら喜ぶところでしょ」
「よ、喜びませんよ!恨みなんかじゃないって言ってるじゃないですか!」
「じゃあなんなの、死んでまで一体オレに何の用?」
「そ、それは……」
確かに随分と気味悪がらせただろう。そう思うと申し訳ない。答えを聞いたところで気持ち悪いことには変わりないが、とにかく悪意の類ではないことを伝えたかった。
「ご、ごめんなさい、私はただ……あなたのことが好きで……」
「は?そもそもお前に会ったの初めてなんだけど」
「それはその、私の一方的な一目ぼれですから」
自分で言ってて悲しくなる。いや、間違ってはいないんだけども。
「なにそれ。だからってふつう死んでまで来る?頭おかしいんじゃないの?やたら話しかけてくるしさ、お前ほんとうるさすぎ。無視するのも苦労したんだから」
イルミさんからしたら全然知らない女の霊(彼が言うには念)に付きまとわれていたわけだから、本当に申し訳ない。何も言い返せない。
ボロクソに言われてショックというより、恥ずかしさといたたまれなさで変な汗が出るような感覚に襲われる。
「ご、ごめんなさい。見えてないなら、多少騒いでもいいと思って……」
耐えきれなくなってうつむいた途端、視界に彼の腕を伝った血だまりが飛び込んでくる。「っていうか、怪我!」よく考えるとこんなのんきに話している場合ではないのだ。
イルミさんは敵地に一人、負傷している。そして一緒にいるのは生きていても死んでいても役立たずの私。
「あぁ、別にこれくらい平気だから」
「ごめんなさい、せめて触れられたら止血ぐらいできたのに」
「自分でできるよ」
イルミさんは長い髪をぷちん、と切ると、片手と口を使って器用に腕を縛る。確かに私の出番なんてどこにもなさそうだった。
「はぁ、でもこれでやっと肩の荷がおりたよ。この一週間、すごく疲れた」
「……本当にごめんなさい。たぶんもう消えますから……こうやって話せてすごく嬉しかった」
いくら同業者でも、病死するくらい身体が弱かった私と彼では天と地がひっくり返ったって釣り合わない。こうやって死後じゃなかったら、彼の瞳に映ることも、会話することも絶対に叶わなかっただろう。間に合わなかったと思っていた発の形成だが、結果的にはこれでよかったのかもしれない。強い想いとすべてのメモリと一度きりという制約があって初めて、私のような凡人でも願いを叶えることができたのだから。
「そう、消えるんだね。だったらその前に表に敵が残ってないか見てきてくれない?どうやらお前のことはオレにしか見えないらしいし」
「わ、わかりました!」
最後の最後に役に立つチャンスが貰えて嬉しかった私は、ぴょこん、と飛び跳ねると走って様子を見に行った。壁も通り抜けられるし、浮くこともできるし、こうやって考えると案外便利な身体である。
「いません!大丈夫です!」
戻って声をかけると、イルミさんはそう、と頷いた。それからまっすぐこちらを見て、当たり前のようにこう言った。
「ありがとう、ナマエ」
「っ、なんで私の……!」
「確かに面識はなかったけどさ、一週間も付きまとわれて、オレが調べてないわけないだろ」
それでも嬉しかった。嬉しくて泣いたのは生きてる間も死んでからも初めてだった。恋する乙女の盲目かもしれないけれど、やっぱり彼は優しいんじゃないか。迷惑をかけてしまったのは申し訳ないけれど、彼を好きになってよかったと心の底から思えた。
「じゃあね」
「っ、はい!どうか、お元気で!」
イルミさんは振り返らない。気配も足音もしない彼は、一度闇に紛れてしまうと私なんかには到底見つけられないだろう。
でも、それでいいのだ。私の願いは叶った。彼の視界に入って、会話をして、彼の役に立って、それでおまけに名前まで呼んでもらって。これ以上他に何を望むというのだろう。
「大好きでした」
彼の後ろ姿がすっかり闇に溶けてしまう頃、私の身体はほの暖かい光に包まれて消えた。
END
企画サイト
揺籃様に提出
[
prev /
next ]