■ ◆自己批判から始めましょう
こつこつ、とわざとらしく鳴らされた靴音が近づいてくるのが聞こえて、ナマエは無意識のうちに身を固くした。
あぁ、もうすぐ、一日のうちで最も嫌いな時間が始まる。肉体的な疲労や痛みでいうなら他の訓練の方が余程厳しかったが、ナマエはどうしても"これ"が嫌いなのだ。
「準備はできてる?」
扉が開かれるなりかけられた言葉に、だんだんと心が鈍くなってゆくのを感じた。
暗殺に関わる者ばかりのこの屋敷で、足音を立てるような間抜けな人間はいない。それはもはや意識してそうしているというより、身に染み付いた習慣だった。
だが、一日の終わりに訪れるこの時間。ここへ来る時の兄は決まって"わざと"足音を立てるのだった。鳴るはずのない靴音は彼の来訪を否応なしに伝え、これからナマエに待ち受けていることを嫌でも思い出させた。
「じゃあ始めて」
暗い部屋の中には粗末な机と椅子だけがある。
ナマエはこの部屋を、前に少しだけ見た刑事ドラマの取調室のようだと思っていた。
やってきた兄イルミは部屋に鍵をかけると、ナマエの正面の席に座る。ただ、それだけ。でも、それだけで空気がひどく重苦しい。部屋の中の酸素濃度が減ったような気すらして、ナマエは静かに息を吸い込んだ。
「……私は悪い子でした。今日は纏を10時間続けるのが目標だったのに、9時間48分27秒で力尽きました」
ナマエの言葉に、イルミは眉一つ動かさない。もちろん、その訓練の場には兄もいたのだからナマエが目標を達成できなかったことくらい知っている。それでもイルミはこうして毎日、何かしらの反省をナマエに求めた。たとえその日の目標が達成できたとしても、反省すべきことを見つけるまでナマエはここから出してもらえなかった。
「……ふぅん」
これでも、今日は決定的な反省点があるからマシなほうだろう。言うだけ言って黙り込んだナマエを、重苦しい沈黙が包み込む。別にこのことで罰が与えられるわけでも叱責を受けるわけでもないのだが、だからこそ妙に居心地が悪いのだ。早くここから出たい。けれども兄はそれを許さない。
「それだけ?」
やがてぽつりと呟かれた言葉に、ナマエはぎゅっと心臓を掴まれたような気分になる。本当に嫌なのはここからだ。自分のミスを省みるのは成長に繋がるのだからそう悪いことではない。けれどもいつもイルミは、それ以上のことをナマエに言わせようとする。ナマエを否定するようなことをナマエの口から言わせようとする。
「……私は悪い子です。いつも訓練を受けさせてもらっているのに、少しも上達しない……役に立てない……」
兄の望む言葉を口にすると、内心で"ナマエ"が悲鳴をあげた。そんなことない、キルアほどの目覚ましさはなくても、ナマエだって少しずつ成長している。
それでも、"反省"をしなければここからは出られない。
イルミはナマエの言葉を肯定するわけでもなく否定するわけでもなく、ただただ黙って聞いていた。それはまだ許してもらえないということだ。まだ"反省"が足りていない。
この訓練が始まったのはちょうど1ヶ月前、ナマエが10歳の誕生日を迎えてからのことだった。そして他の兄弟に聞くと、こんなことをしているのはナマエだけだそう。だから兄が何の為にこんなことをするのか、なぜ兄がナマエだけにこんな嫌がらせめいたことをするのか、ちっともわからなかった。
「……役に立てないならこんな私、いない方がいいと思います……ゾルディックに恥さらしはいらないから……」
「役に立つかは別としてさ、ナマエはキルほどの才能もないし、ミルみたいに機械に強いわけでもない。カルのように拷問が得意なわけでもないし、むしろ暗殺の仕事自体、好きじゃないでしょ?」
淡々と告げられる言葉は全て事実だ。ナマエは取り立てて突出した才能を持つわけでもなければ、暗殺に対する適性があるわけでもない。それでもこの家に産まれたからにはこの仕事をやっていこうと考えていて、キルアのように自由になりたいと考えてるわけでもない。
それなのに、兄イルミはナマエはいらない子だ、と言う。いや、彼自身ははっきりとそうは言わなかった。ナマエが自分で自分をいらない子だと言うように仕向けるのだ。
「暗殺は……嫌じゃないです」
「ほんとに?」
「頑張ります、訓練も仕事も。だから……」
「別にナマエに頑張ってもらわなくたっていいんだよ?うちにはキルがいるしね」
イルミはふっ、と溜息とも嘲笑ともつかない息を漏らすと、黙り込んだナマエを見下ろした。口ではそう言っていても、この兄は訓練を免除したりなんてしない。
ナマエには彼が何をしたいのかわからなかった。
「ごめんなさい……」
「それは何に対して謝ってるの?」
「……」
だが、もはやナマエは考えることすら嫌になっていた。次々と投げかけられる言葉には、反論するよりも心を殺して耐えたほうがいい。反論なんて無駄だ。ナマエはうなだれて、一刻も早くこの時間が終わってくれるのを待っていた。
「……ナマエは悪い子だね」
「はい……」
「言ってごらんよ」
「私は……悪い子です」
「そう、悪い子だよ。ナマエは」
とん、と机を指で叩いて、イルミはナマエが顔を上げるよう促した。「私は……」兄の底のない黒い瞳に、呑みこまれてしまいそうな気がして怖くなる。「私は悪い子です」震える声でそう繰り返せば、彼はようやく頷いた。
「うん、今日の反省は終わり。忘れないでね、ナマエ」
「はい……」
部屋の鍵が開けられ、兄が出て行く。だがその後も、ナマエはしばらくそこに座ったままでいた。
▼▽
「……私は悪い子です。今日は毒の量を増やして3時間も寝込んでしまいました」
「……私は悪い子です。今日は訓練中に気絶してしまいました」
「……私は悪い子です、ほんとうに、皆に迷惑ばかりかけてる……」
「……私は悪い子です、もう何をしても駄目なんです。私なんていない方がいい、要らない子なんです」
そう言ったナマエの瞳は完全に虚ろだった。今まで訓練中に見せた怯えや、怒りや、悲しみの色はもうそこにない。今の彼女は自分が本当に”悪い子”であることを信じて疑いもしていない様子だった。
「2か月、か……案外耐えたね」
イルミはそんな妹を見下ろして、少し感心したように顎に手をやる。「予定ではもっと早く堕とせると思ってたんだけどな」近頃反抗的になったキルアに危機感を覚えて、兄弟の中でもとりわけキルアと仲がよく性格の似たナマエには先手を打たせてもらったのだ。
そしてどうやらこの作戦は成功したらしく、今のナマエは自己評価が著しく低い状態にある。逆に言えば、彼女を認めてくれるものがあれば、その為になんだってするだろう。今ならば文字通り、ナマエの"神"になることは容易い。
「ナマエ、」
声をかけると、彼女はゆっくりとイルミを仰ぎ見た。
「はい、私は悪い子です……」
「そうだね、ナマエは悪い子だ。皆ナマエのことが嫌いだよ」
「……はい」
表情を変えないまま両目からぽろぽろと涙を零す妹の頬を、イルミはそっと両手で包んでやる。こうして見ると、ナマエは性格だけでなく容姿もキルアによく似ていた。イルミが決して手に入れることの出来なかった髪や瞳の色が、嫉妬とも執着ともつかない欲望を刺激する。
イルミはぐっと顔を近づけると、彼女の視界に自分以外のものが映らないようにした。
「でもね、オレだけはナマエのことを好きだよ。ナマエが頑張ってるって知ってるよ」
「……」
「オレだけはナマエを見捨てない。自分を悪い子だって思うなら、ずっとここにいて償えばいい。ナマエは一生、オレとこの家の為に生きるんだ、いいね?」
「はい……」
ゆっくりと、まるで憑き物が落ちたみたいに頷いたナマエに、イルミは堪え切れず口角を上げた。これでナマエは自分のものだ。もう一生どこへも行かせやしないし、イルミの言う事だけを聞いていればいい。
「うん、いい子」
満足したイルミはそう言って、ナマエの頭をそっと撫でる。こんな安い言葉一つで嬉しそうにする妹が愛しくて仕方がない。けれどもきっと、自分が悪い子だと繰り返すナマエには、イルミの言葉がとても優しいものに聞こえたことだろう。
「イル兄……ありがとう」
─私には、イル兄しかいないね。
ナマエの瞳はもう虚ろではなかったが、兄を見る目はどこか狂信的な色合いを帯びていた。
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