- ナノ -

■ ベッドの中の腐乱死体

※夢主直接出ません
タイトルからして色々注意



この季節にもなれば、いい加減夜も寝苦しい。
イルミは浅い眠りから覚醒すると、身体の下敷きになった長い髪を解放するかのように寝返りを打った。暑い。ホテルの空調は効いている筈なのに、どうしてこうも不快なのだろう。移動先のシーツが少しだけ冷たくて幾分マシな気分にはなったが、べとつく感じは拭えない。仕方なく、小さくため息をついて目を開けば、不快さの原因は目の前に白い塊となって横たわっていた。

(……やっぱり、人の気配があると鬱陶しい)

それにしても男と女というものはこうも体温が違うのだろうか。じんわりと暑さを感じているイルミに対して、隣の女─行きずりの相手で名前も知らない─は寒いのか頭まですっぽりタオルケットを被っている。イルミは眠ることを諦めて身体を起こすと、空調のリモコンを操作した。もちろん、室温を下げたのである。

だが、部屋の温度が下がるよりも先に、イルミは身体の芯からすう、と冷えていくような感覚を味わっていた。
どうでもいい女と寝たからではない。あのタオルケットに包まれた白い塊が、人型の白い膨らみが昔のことを思い出させたからだ。そしてどうやら過去の記憶は、こちらの意思とは関係無しに五感にまで働きかけてくるものらしい。

(驚くほどにリアルだね……)

血とはまた別の臭気がその白い塊から立ち上ってくる。そんな気がして、イルミは無意識のうちに顔を背けた。

▼▽

10年前のその日、イルミは人を殺して、これ以上ないほどまでに動揺していた。

どうしよう、という文字が頭の中を駆け巡る。だがどうしようもない。わかっている。とりあえず隠すように布団を被せてみたものの、目の前の膨らみが消えることはないし、ましてや自分がしてしまったことが"なかったこと"になるわけでもない。

それでもイルミはどうしていいかわからなくて、怖いとさえ思った。初めての仕事でだってこれほど慄きはしなかったのに、暗殺者である自分がたった一つの死体を持て余している。起き上がってこちらを害することもない、今となってはただの肉の塊でしかない死体を、だ。

だが今回イルミが人を殺めたのは、依頼でもなければ故意でもなかった。あえて言うならば事故。いや、感情の昂りだった。殺すつもりなんてこれっぽっちも無かったのだ。

けれども残念ながら起こってしまったことはいくら足掻いても戻せない。イルミは呆然と白い塊を見下ろした。こうやって布団の膨らみだけを見るとよりいっそう小さく見える。それもそうだろう、なんてったって相手は4つ下の、10歳になったばかりの女の子なのだから。

やがて、いつまでも突っ立っていても仕方がないと思ったイルミは、意を決して布団の端をめくろうとした。何もかも冗談だった、そんな陳腐な結末を期待しながら。しかし、実際に布団を掴んだ手は震えている。きっとそこに死に顔が─自分が妹を殺してしまった現実が横たわっていることを知っていたからだ。

「ナマエ……」

たった今死んだばかりの彼女からは、嗅ぎ慣れた死の臭いはまだしない。だからこの布団を捲らなければ"彼女は寝ているのだ"と思うことができる。
でも、いつまで?いつまでそうやって誤魔化していられる?幸か不幸か、ナマエは明日天空闘技場へ旅立つことになっていた。女の子だからと猶予が与えられ、この歳までうちにいたけれど、それでも一年は帰ってこないだろう。

とうとうイルミは布団から手を離して、これからのことを考えた。
どうやって証拠を隠滅するか。他の死体を処理するのとは違って、一番問題になってくるのは家族や執事だ。誰の助けも借りることはできないし、誰にも悟られてはいけない。でもそんなことが可能だろうか。このどこまでも閉鎖的な家の中で、家族の一人が居なくなったことを永遠に隠し通せるものだろうか。

イルミは小さく、それでいて決意するかのようにため息をついた。
とりあえず明日の出立はイルミがナマエに変装して出かければいい。そしてそのままナマエが行方不明になったことにすれば……。

「ナマエが……ナマエが悪いんだよ。ずっと一緒にいようって言ったのに、この家を出てくなんて言うから……だから……」

うわ言のような呟きは、静寂に呑まれて消えていった。返事をする者はおろか聞いている者すらいない。それでも言い訳をするように、言葉に出さずにはいられなかったのだ。

イルミは何も、罰を恐れて罪を隠そうとしたのではなかった。それよりも事態が明るみに出て、ナマエが死んだことを認める方が怖い。ナマエが自分の手から取り上げられるのが怖かった。誰にも知られさえしなければ、ナマエは死なずに、変わらないまま永遠このベッドに横たわっている。
そんな馬鹿げたことをその時のイルミは本気で信じたのだった。

▽▼

隣の塊は今や赤く染まり、微動だにしなかった。注意して見ても、呼吸の為に僅かに上下することもない。当たり前だ。記憶の中の腐臭をかき消すために、イルミは別の鉄臭い臭いを必要としたのだから。

死んだ女の塊は、あの時のナマエよりはるかに大きかった。だが、イルミはまたタオルケットをめくる気にはなれない。めくればそこに妹がいるような気がした。ミルキより下の弟たちは知らない、ゾルディック家の長女が。天空闘技場に出かけてそれっきり、いくら探しても行方不明になった可愛い可愛いイルミの妹が。今ではもう、その存在を口にすることは禁じられている。辛い出来事だからこそ、両親は意識的に思い出さないようにしているかもしれない。

それでもイルミだけは思い出す。日に日に強くなっていく腐臭が、いつまで経ってもイルミを離さない。大事なものが朽ちて無くなるのをただ見つめることしか出来なかったあの日々が、イルミの心を捉えて永遠に離さないのだ。

こうしてあの時のことを思い出すと、また何の役にも立ちはしない言い訳が口をついて出た。今度こそ本当に、ナマエはそこにいないのに。今更気持ちを伝えて何になると言うのだろう。

「……オレ、ナマエのこと好きだったんだよ」

14にもなれば、流石に兄妹で結ばれることはできないのだと知っていた。だが、家族としての情しか向けてこない妹に、そんな苦悩を打ち明けられるはずもない。苦しんでいたのはイルミ一人で、それがおかしいことだというのもわかっていた。

しかしそんな時に限って、何を思ったのかナマエが急に家を出ると言い出したのだ。恋しくて愛しくて狂いそうなほど想っている相手が、こちらの気持ちも知らずに自分の元を離れるという。そんなこと、許せるはずがない。聞き分けのないナマエにカッとなって、気づいた時には首を絞めていた。いや、もしかすると手放すくらいなら、と思ったのかもしれない。

とにかく冷静になったイルミの目の前にはナマエの死体が横たわっていた。そしてイルミはそれに布団を被せて、目の前の死を先送りにした。無かった事にした。死がないということは、同時に生もない。ナマエは存在しないのだ。ナマエを記憶に留めているのは世界中でたった一人、イルミだけ。これでいい。

「ナマエのふりをしたって無駄だよ、ナマエのことはオレが一番よくわかってるからね」

イルミはそう呟くと、血塗れの塊を見下ろした。この死体も今は綺麗だが、直に腐っていくだろう。けれどこれはナマエではない。あの時のように動揺する必要も、死を隠匿して延命させる必要もないのだ。

腐敗の果てを、イルミは知っている。そしてナマエの肉体が腐敗してもなお、自分の想いまでは腐らなかったことも。
イルミにとって彼女の喪失は苦い罪であり、また甘い秘密でもあった。手に入らないはずだったものが永遠に失われ、同時に自分だけのものになったのだから。

その証拠に、ナマエ=ゾルディックはゾルディック家の歴史の中に存在しない。ただ彼女の小さな骨は、未だにイルミの部屋に大切に仕舞われている。

それはもう、本当に大切に。

[ prev / next ]