- ナノ -

■ 水面越しに笑え

─皆はあの人を誤解している。

廊下を歩いているだけで、否が応でも注目された。
それもそのはず前を歩くパリストンはここハンター協会の副会長であり、キメラアントの一件で会長が亡くなった今、実質的なこの協会のトップである。
もちろん、今はまだ正式に会長職に就任したわけではない。会長の訃報は急なことだったし、会長の死の原因であるキメラアントの騒ぎに関してもまだまだ事後処理は残っている。

それでもナマエにとってはもう、パリストンが会長になったも同然だった。決して前会長のネテロを嫌っていたわけではないが、会長にふさわしいのはパリストンであると常々思っていた。
いや、正確に言えばパリストンに会長がふさわしい、というより、”副会長”であることが彼にふさわしくなかったのだ。彼は決して他人の下につくべき人間ではない。そんなところで甘んじていていい人間ではない。
それが今回、図らずもネテロ会長の死により、チャンスが巡ってきた形となった。

「あ、そうだ、ナマエさん、」

たった今思い出した、と言わんばかりの声に、まるで眩しいものでも見るかのように前を歩くパリストンの背中を眺めていたナマエはふと我に返った。「はい」彼に名前を呼ばれたことに優越感を感じずにはいられない。思わず口角が上がりそうになる。他の人間が何と言おうと、彼の秘書であるナマエは誰よりも彼の近くで、彼の描く世界を見ることができるのだ。

そのことがナマエにとってはたまらなく嬉しかった。別に彼が会長に就任することで、側近であるナマエの地位が上がるとか、権力が大きくなるとか、そんなことに興味はない。ナマエにとってはただ、彼の傍で彼の役に立てることがたまらなく名誉だったのだ。

だから彼の望むことならば、その善悪に関わらず何でもやった。彼のやっている後ろ暗いことも、協会内で流れる根拠のない噂が本当であるということも、全部全部わかったうえで”彼は皆に誤解されている”と本気で思っていた。

「この前頼んでおいた件ですが、どうなりました?」
「滞りなく進んでおります」
「さすがナマエさんですねぇ、では今夜にでも」
「はい、準備しておきます」

会長の死にもいつもの態度を崩さないパリストンに、当然人々の視線は冷たい。薄情者だとあからさまに嫌悪感を表す者もいれば、これを期に何かしでかすつもりだろうと疑いの目を向ける者もいる。しかしナマエはそんな目先の感傷にも表面的な善悪にもとらわれるつもりは毛頭ない。  
なぜならナマエは彼が本当にこの協会を─いや、この世界を愛していることをちゃんとわかっている。

だからたとえ彼の行いが悪だったとしても、それはきっとこの世界における必要悪なのだ。

▼▽


ナマエはこの白い物体の中から出て来るものが何であるかは知っていたが、それが一体何のための物であるかは知らなかった。

「いやはや、これまた壮観な眺めですねぇ」

暗くどこまでもだだっぴろい倉庫に所狭しと並べられた”それ”は確かに小さく呼吸しているようであった。羽化が近いものではうっすらと中身のシルエットが見えているものさえある。それらを眺めて、パリストンは満足そうに溜息を洩らした。

パリストンに頼まれていたのは、NGLから約5000個のキメラアントの繭を回収すること。そしてそれを見つからないように、管理、保管できる場所を用意すること。
決して簡単な仕事ではなかったが、ナマエは彼の望むままにこの仕事をやり遂げたのだ。

もちろん、先日の事件を通してキメラアントが危険な生物であることも、さらにその危険な生物が念を持った場合、どれほど恐ろしい存在になりえるかも、ナマエはちゃんとわかっている。だが命令された以上、断る理由はどこにもなかった。彼には彼の考えがあるだから、ナマエが難しいことを考える必要はないのだ。難しいことは聡明な彼に全て任せておけばよい。そうすれば絶対に間違いはない。

「この件に関わった人員は?」
「いつも通り、行方不明者のリストに名前を連ねることになるでしょう。ただ、今回は少しばかり多いので疑惑の目が向くのは避けられませんね。いかがいたしましょう?」
「あぁ、その件に関しては問題ありませんよ。協会とはもう関係なくなりますからねぇ」
「……というと?」

気持ち悪がる様子も見せず、パリストンは繭の一つ一つに触れていく。その手つきはまるで愛しいものを撫でるかのような動きで、ナマエの目はいやでも奪われた。

「そのままの意味ですよ。事が露見する頃には糾弾する相手がいない」
「……協会を、出て行かれるのですか?」
「ええ」

頷いて微笑んで見せた彼に、ナマエは衝撃を隠せない。それもそのはず、ネテロ会長の後は当然彼が会長になるものとばかり思っていたからだ。「で、では、私もご一緒に」しかし別段ナマエは彼の地位に拘っていたわけではない。大切なのは彼の隣にあることで、場所なんてものはどうでもよかった。

「そうですね、ナマエさんがそれでも構わないなら」
「構いません、私はあなたの行く先にならどこへでも」

これは偽りのない本心だ。が、ナマエがそう言うとパリストンの表情は一瞬だけ曇った。いつも輝くような笑みを浮かべる彼が、初めてナマエに見せた表情だった。

「それは心強いなぁ。でもこれはもう少し後の話なんですよ」
「……はい、口外は致しません」
「わかってますよ、僕はナマエさんを信用していますから」

その言葉はいつもなら震えるくらいに嬉しい言葉だっただろう。だが先ほど見た彼の、いつもと違った表情に戸惑いを隠しきれない。

「では、そろそろ戻りましょうか。引き続き管理をお願いしますね、ナマエさん」
「はい」
「そうだなぁ、これなんてもう数日中に羽化しそうですね。その時はまた、僕も見に来ますよ」

中身が透けて見えそうな状態の繭を指し、にっこりと笑うパリストンはやっぱりいつも通りだ。「ええ、楽しみですね」だから先ほどの表情はきっと見間違いだったのだろう。ナマエは無理矢理自分を納得させると、彼のうしろに続いて秘密の倉庫を後にした。

▽▼

パリストンのやることは間違っていない。
ナマエは未だにそう信じているが、正しいことが上手くいくとは限らない。いかに神が優れた存在であれど、彼が造り出した人間たちは彼の言いつけを破って楽園を追放されたし、今回だって同じことが起こらないとどうして言えるだろう。
ナマエは羽化したばかりのキメラアントのことを考え、ため息をついた。

「思っていたより早かったんですねぇ」
「ええ、ですがあれは……」
「どうしました?」

言い淀んだナマエに、パリストンは小さく首を傾げる。ナマエが彼のやることに対して難色を示したのは初めてだったからだ。

「……”あれ”はやっぱり危険です。今も特殊な鋼鉄製の水槽に……」
「水槽?」
「羽化したのは水棲生物と人間が混ざったような生き物でした。陸上での活動も可能みたいですが、お見せするなら最も力が発揮できる状態のほうが宜しいかと」
「それはまた手間をかけさせましたね」
「いいえ、そんなことはどうでもいいんです。ただ私はあれを貴方に見て欲しくて……」

"あれ"がいかに危険なものか、"あれ"に水を与えるというリスクを冒してでも彼にわかって欲しかった。今はまだ一体だけだが、"あれ"と似たものがあと4999体も羽化してくると思うと背筋が寒くなる。
そこから倉庫の奥へパリストンを案内する道中、ナマエはそれ以上の言葉をもたなかった。口でいうより見せた方が早い。というより、なんと表現すればいいのかわからなかった。

「気をつけてください。今のところちゃんとした念は使えないようですが、既にオーラを纏っているのはお分かりいただけるかと」
「ほう、これは面白いですね……」

鋼鉄製の水槽は、水槽とは名ばかりでただの四角い鉄の箱だった。そのため当然横から中身を鑑賞することはできず、梯子をかけて箱の淵へのぼり、真上から見下ろす形でしか中を見ることはできない。しかし、繭の中身が水棲生物であると知らなかったナマエにしては、急ごしらえでよくここまでやったほうだろう。「そ、その上は危険です」水面と箱の淵には距離があるし上面も同じく鋼鉄製の網で覆われているが、怖じることなくその金網の上を歩きだした彼にナマエは気が気ではなかった。

「言葉は?」
「こちらの言うことは解していますね。ただ、混ざった生き物のせいか酷く聞き取りにくい。えらも肺も両方有していますが、発声の際にそのえらが邪魔になるようで……」
「そうですか。いえ、こちらの言葉がわかるだけで十分ですよ」

そんな会話の合間にも、下からは唸り声のようなものが聞こえる。一瞬、水面から顔を出した醜い”それ”と目が合って、ナマエは思わず顔を背けた。”あれ”が元は人間だったなんて信じられないし、なによりも知的な交渉が出来るとも思えない。パリストンの計画がどのようなものかは知らなかったが、仲間にするには異形であり、手駒にするには獰猛過ぎた。なにせ上がってきた調査報告によれば、奴らの産みの親である”女王”さえ、奴らを御しきれなかったらしい。
ヒトと交わったことで、キメラアントは今までにない新しい形の危険生物へと変貌を遂げてしまったのだ。

「しかしすごいなぁ、見てくださいよあの歯。本当に人を食べてしまうんですねぇ」
「女王アリは人間を食べていましたが、”それ”に繁殖能力はありません。食事は我々と同じもので構わないようです」
「それは結構。まぁ元はといえば彼らもヒトですからね」
「……お言葉ですが、私にはもう”これ”がヒトとは思えません」

確かに、上位のキメラアント達の中にはきわめて人に近い姿形を持ち、人間と変わらぬ知能を持つものもいる。だからこそ協会はこの件の生き残りのキメラアント達を、人を襲わないという条件付きで新種の魔獣として受け入れたのだ。
だが、目の前の”これ”はどうだろう。たまたま一番初めに羽化したのが下級アリだっただけかもしれないが、ナマエには”これ”と上手くやっていける自信がなかった。

「そうですか?僕としてはあまりに知能が高すぎるよりも、この程度の方が扱いやすいと思っています」
「……」
「確かに、この生き物は”ヒト”というより”動物”に近い。でも”動物”の方が”ヒト”よりもよほど分をわきまえています。自分より強いものに歯向かうなと、本能が教えてくれるんですよ」

言いながら、パリストンはこちら側─つまりは箱の淵へと戻ってきた。そしてあろうことか、上面の金網を外し始める。「な、なにを……!?」もちろん、それはただ箱に被せてあるというものではなかった。中のアリが暴れたときのことも考え、頑丈に箱本体に留められている。
それを彼はいつもの涼しい顔で、まるで魔法みたいに簡単に外してしまった。

「嫌だなぁそんなに驚くことないでしょう、僕ってそんなに非力だと思われていたんですか?」
「い、いえ、でも……」
「”中の方”はまだ上手く念が使えないからいいですけどね、念遣いならこの程度、誰だって開けられますよ」

金網がずらされたことに、中の”あれ”は気づいているのだろうか。パリストンはナマエの驚きっぷりに気を良くしたように笑ったが、何もナマエは彼の力に驚いているわけではない。彼のやったことがあまりに危険で、その意図が読めなかったのだ。
向こうも向こうで警戒しているのか、すぐには水面に顔を出さなかったが、背びれのようなものが水面に弧を描き続けている。

「……ナマエさん、怖いですか?」
「……」
「貴女は言いましたよね、僕とならどこへでも行くと」
「……はい」

怖気づいたせいで、信用までもが疑われているのだろうか。ナマエにとってそれは耐え難い屈辱であり、疑いを払拭するよう水面を睨みつけて見せる。

「私は貴方のことを─」


その後に続く言葉は、果てなき忠誠の言葉だったのか。それとも、ただの女としての告白だったのか。

落下する浮遊感に、ナマエは目を見開いた。そしてつま先に触れた冷たい水の温度に、待ち受ける結末に、今度はぎゅっと目を瞑った。「副会長!」梯子で上らねばならなかったほどだ。水槽は当然深く、ナマエの手足は必死で水をかく。何が起こったのか訳が分からず、ナマエは彼に助けを求めた。一方で、彼がナマエを”押した”のだということもわかっていた。

「副会長、どうして……!」
「ナマエさん、僕はもう協会を辞めるつもりでいますから、いつまでもその呼び方じゃ困りますよ」
「私は、私は貴方と─」
「ええ、貴女のお気持ちはちゃんと受け取りました。でも僕はそういうの、慣れてないんですよねぇ」

こちらを見下ろす彼の顔は、本当にいつもと変わらなかった。ただただ驚愕しているナマエをあざ笑うわけでも見下すわけでもなく、人のよさそうな明るい笑みを浮かべている。

「”純粋な好意”というのでしょうか。そういうものを向けられると、虫唾が走るんですよ。いや、本当に申し訳ない、貴女が悪いわけではないんですが」
「そんな……私は貴方の役に、」
「僕は僕のことを嫌いでいてくれる人が好きなんですよ。でも、そんなふうに絶望している貴女はとても好きだなァ」

身体中から、力が抜けていく。
ナマエはなんと言っていいかわからず、ただ呆然とパリストンを見上げていた。そしてそんなナマエの脱力を見計らったかのように、ぐい、と”何か”がナマエの足首を引っ張る。

「大丈夫です。貴女はとても役に立ってくれましたよナマエさん。それに言ったじゃありませんか、僕の行くところならどこへでも行くと」

右足に激痛が走って、ぼこりと口から大きな空気の泡が逃げていく。透明なはずの水に混じった赤は、ナマエの身体から流れ出たものだろう。

「僕もいずれそっちに行きますから、先に行って待っててください」

先ほど見た”あれ”の歯は、確かに肉を簡単に裂けそうなほど鋭かった。そのうえ、曲がりなりにも知能を持つ生き物だ。ナマエがどれほどアリを見下していたかも知っているだろうし、きっと楽には殺してくれないだろう。

─自業自得なのかもしれない。

ナマエだってパリストンに言われるまま、多くの人間を闇に屠ってきた。だから今度は自分が消される番だったのだ。事実、ナマエが死ねばこの倉庫のことを知るものは彼以外いなくなる。
それはナマエが今までずっと”必要悪”だと思ってきた行為となんら変わりはなかった。
それならば。

─待っています、ずっと

最期までナマエのやるべきことを示してくれた彼は、やはりただ冷酷なだけの人間ではない。
もしも地獄というものが存在するなら、ナマエがたどり着くのも、彼がたどり着くのもきっとそこだ。自分はただ一足先に退場が決まっていただけのこと。
意識が薄れそうになるたびに激痛で引きもどされ、ナマエは大きく目を見開いた。


……あぁ、やっぱり彼は間違ってなんかない。そうでなければあんなに綺麗でいられるものか。

霞む視界のその先で、水面越しの彼は笑っていた。

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