- ナノ -

■ 三十三分間の独白

俺がお前に謝らなくてはいけないことがあるとすれば、それはお前をずっと騙し続けているということだろう。

俺にとっては延々と続く退屈な日常でも、ナマエにとってはそうではない。実際、俺だけが手品のタネを知っているようなものだから、これほど不公平なことはないだろう。

誰がどう見ても快晴の空の下、傘を持って行けと言った俺にナマエは怪訝そうな顔した。それもそうだ。今日はむしろ照りつける太陽に空気すらも熱を帯びていて、雨の兆しはどこにも見られない。ましてやナマエがさっき見ていた天気予報も雨が降るとは一言も言っていなかった。

それでも降るものは降るのだ。俺はそれを知っている。こんな晴れの日に傘を持っていくなんて恥ずかしい、と文句を言ったナマエに、じゃあ雨が降ったら迎えに行ってやる、と言った。そう言うと雨なんて降らないよと笑っていた彼女が、急に降ってほしそうな顔をするものだから無性に愛しさがこみ上げる。

大丈夫だ、安心しろ。必ず雨は降る。こればっかりは俺でもどうしようもない。決まっていることは変えられないのだ。機嫌よく買い物に出かけた彼女を見送って、俺は読みかけだった本を閉じた。正直、もうこの本は読み飽きていて、今までだって読んでいるフリをしていたに過ぎない。

ただ、自分がこうしていつも通りに振舞うことで、彼女もまたいつも通りに振舞ってくれる。最初の頃はやたらと彼女にしつこくして、買い物に一緒について行ったり、逆に行かせないようにしてみたけれど、結局それも意味が無いとわかった。だからこうしてその時が来るまで、俺はひたすらに何も知らないふりをする。文字通り目をつぶったまま、雨が降るのをひたすらに待つ。

この日、雨が降るのは異常気象でも、天気予報士のミスでもなんでもなかった。これは俗に雨男と呼ばれる奴のせいなのだ。
と言っても、たかだか普通の人間に快晴の空を雨模様に変える力などあるはずもなく、明らかに念能力の一種。今でこそタネがわかっているけれど、最初は急な雨に驚いたものだ。そして今日と同じように、特に深く考えず買い物に行ったナマエを迎えに行ってやったんだっけ。

俺はだんだんと雨足が強くなっていくのを見ながら、玄関にあった黒い傘を一本だけ持った。ナマエの分を持っていってもいいが、この分ではどうせ傘も役に立たないだろう。数歩も行かないうちに足元は濡れて、必然、足取りも重くなった。

いや、足取りが重いのは何も雨のせいだけではない。これから見るであろう光景は、何度見てもやはり、結末がわかっていてもなお、見慣れてしまうものではないのだ。出来ることならば、このまま何もかも投げ捨てて仮住まいに引き返したかった。もっと言うなら、着の身着のままどこか遠くの街へ逃げ出したかった。

けれどもこの幸福で不幸な33分間は、ほかの誰でもない、自分が望んだものだ。その間、ナマエと過ごせるのはたった5分にも満たないけれどそれでも0よりはいいに決まっている。だからこうして俺は、いつまでも未練たらしく─。

「クロロ!」

迷うことなく街中を歩いていくと、流石に目がいいらしくこちらに気がついたナマエは嬉しそうに手を振った。急な雨に困惑する他の人間たちと一緒になって、小さな雑貨屋のこれまた小さな屋根の下で雨宿りをしている。俺が彼女にゆっくり近づいていくと、彼女はその表情に興奮の色を浮かべた。

「すごいね、ほんとに雨が降った!クロロって予言までできるの?」
「お前らしい発想だが、俺はそんな胡散臭いものじゃない」

実際、予言ができたらどんなに良かっただろう。あぁ、やっぱり俺は他にもお前に謝らなくてはいけない。きっとここでそうだ、と言えばナマエは素直に喜ぶのだ。ついてはいけない嘘をついて、つくべきだった嘘をつかなかった俺をどうか許して欲しい。腕時計をちらりと確認した俺は、いよいよその時が迫っているのだと暗澹たる気持ちになった。

「ナマエ、」
「なに?っていうか、クロロ傘一本しかもってないじゃん。もしかして私と相合傘したかったの?」
「ナマエ、聞いて欲しい」

照れくさそうな笑みを浮かべていた彼女だったが、やがてこちらの真剣さに引きずられるように次第に真顔になった。どうしたの?と少しの不安を滲ませて、俺の顔を覗き込む彼女に罪はない。罪なんてなかったのに、彼女はここで死ぬ。俺は謝るべきか愛を囁くべきか、いつもここで迷ってしまうのだった。そして結局、そのどちらの選択もせずにずるずると同じ時間に留まり続ける。

「雨が降ったら俺が何度でも迎えに来てやろう」
「……え、それだけ?」
「なんだ、喜ぶところじゃないのか?」
「う、嬉しいけど急に真面目な顔するから!びっくりしたじゃない、もう!」

破顔した彼女の手を引いて、傘の中に引き入れる。この後のことは知っていたし、変えられないことも確認済みだ。この雨を降らせた男は旅団を狙う刺客で、ナマエは俺の巻き添えを食って死ぬ。文字にすればなんと呆気なく、無味乾燥なものだろうか。だが実際の死というものは、活字に表す死よりももっともっと短く呆気ない。

本来ならば俺があの程度の男に遅れを取るわけがなかった。だが、今更言い訳をしたところでナマエは助からない。俺は愛する女の一人もろくに守れない男であり、なおかつ未だに下らない念を使って、彼女が死ぬ前の33分間を永遠に繰り返しているだけの情けない男だ。

「ナマエ、33分って長いと思うか、短いと思うか?」
「え、なによ突然。そんなの物によるでしょ。楽しい時間だったらとんでもなく短いし、嫌な時間だったらとんでもなく長いよ」
「……そうか、そうだな」

だったら俺のこの33分間はどうなのだろう。短いことは間違いない。だって彼女はすぐに俺の手から離れて冷たくなってしまうから。でもこの33分間は終わることを知らない。彼女が死んで、また33分前に戻って、また死んで、また戻って。俺にとってはもはや永遠に等しくさえある。

「楽しい時間が終わらないことは幸せなのか……?」

小さな呟きは、傘が弾く雨音にかき消された。あぁ、もうすぐ、そこの角を曲がればこの33分間も終わりを迎える。そうしてまた俺は新たな33分間に、終わりのない夢に浸り続けるのだ。

一体いつになったら、俺はここから抜け出せるのだろう。


降りしきる雨の中。
今日も俺は冷たくなった彼女を抱えて、ただひたすらにまどろみの目覚めを待っている。

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