- ナノ -

■ まだ指先の棘を知らない

目の前に仁王立ちする格好で立ちはだかるイルミは、見た目にはいつもと変わらぬ無表情に見えた。
けれども彼の周りの雰囲気はこれ以上ないほど剣呑で、目が合った瞬間ナマエは身を強張らせる。こうなることはわかっていたし、ナマエ自身望んでもいたのだが、いざこうやって怒ったイルミと向かい合うのは勇気のいることだった。

「ナマエ、どういうつもり?」
「……」
「黙ってちゃわからないよ」

さっ、と視界に影が差して、ナマエは思わず首を竦めた。だが殴られるということはなく、影はイルミが取り出した一枚の写真によるものだった。そもそもイルミはナマエに手をあげたことはない。訓練の時はその限りではないけれど。

「一緒に映ってる男は誰?」
「……誰でもない。たまたま声をかけられただけよ。別に怪しい関係じゃ、」
「ていうかなんで勝手に家を出てるわけ?」

イルミはナマエの言葉を遮るようにして、僅かに苛立ちを滲ませた。

「それも浮気って見なすって言ったはずだよ」
「でも、本当に何も……」
「だったら殺していいよね?この男」
「……」
「だってこの男が死んでもナマエは困らないだろ?関係ないんだからさ」

ナマエが答えるよりも先にイルミは動いた。写真を破り捨て、床に捨てたかと思うとナマエの横を通り抜ける。「ま、待って」殺さないで。そういえば余計にイルミを怒らせるのがわかっていて、尚も彼の背に縋り付いた。

「庇うの?」
「違っ、でも本当に関係ないから、なにも殺さなくたって……!」
「だめ。これはナマエへの罰でもあるんだ」

イルミは振り返ると、ナマエの頬を両手で包んでぐいと顔を寄せた。「いい?ナマエのせいでこの男は死ぬんだよ。ナマエのせいで」言い含めるようにゆっくり話したイルミの声はぞっとするほど甘やかで優しく、ナマエは何も言えなくなる。

「私のせい……」

彼が部屋を出て行って一人残されたナマエは、ぽつりと呟いた。「私のために……」ずっと我慢していたが、自然と口角が上がり笑いがこみ上げてくる。ナマエは嬉しくて嬉しくて笑いが止まらなかった。



ナマエとイルミが籍を入れたのは、約1年前のことだった。
いわゆる政略結婚というやつで、お互い顔を合わせたのも式の前日。一応こちらは先に釣書を送っていたものの当のイルミ本人は結婚にあまり興味がないようで、単純に家業と家柄だけで選ばれたようなものだった。

「どういう風に育てられたか知らないけど、うちに来たからにはうちのルールに従ってもらうよ」

ナマエが自分の夫に抱いた初めての感情は、混じりけのない畏怖の念だった。というのもナマエはその時まだ16になったばかりで、暗殺者としても男性としても優れたイルミが酷く大人に見え、同時に恐ろしく思えたのだ。もちろんナマエだってその歳で既に仕事はしていたし、自分はもう一人前だとも思っていた。実際、あのゾルディック家からお声がかかるくらいには優秀。けれども幼いながらにしっかりと芽生えていた自尊心は、目の前のイルミに粉々に打ち砕かれてしまった。

「こんなこともできないの?よくそれで今まで死ななかったね」

イルミはナマエに、うちで一から訓練しなおせと言った。結婚して初めの半年間、夫婦らしいことは何一つしなかった。別にナマエはイルミに恋焦がれて結婚したわけではないため、それはそれで一向に構わなかったけれど、心のどこかでやはり妻としてまずいのではないかという焦りもある。ナマエがまだ若く幼いことが子のいない唯一の免罪符になったが、夫に愛されていないことはナマエの胸に酷く重くのしかかった。

そしてナマエはその焦りを払拭するように、イルミの言いつけに従い努力した。元々筋は悪くないほうなので、ひとたびコツを掴めばめきめきと上達した。きっとナマエ自身、まだ成長途中だったのだと思う。怖く厳しいけれど、イルミのやり方は効率的で理にかなっていたし、成果が見られれば褒めてくれるようにもなった。

「これでナマエも、妻としてどこへ出しても問題ないね」

そう言われるようになった時には、ナマエの方もイルミを『夫』として意識し始めていた。畏怖だったものが師匠に対する尊敬の念に変わるのと同じように、憧れが恋心に転ずる。特に恋愛を知る前にここへ嫁いできたナマエが、常に身近にいるイルミに仄かな恋心を抱くのは時間の問題だった。
ようやく彼に認めてもらえたことでナマエは有頂天になり、ここからの生活はきっと楽しいものだろうと夢想した。暗殺者とはいえ、ナマエはまだそういったものに夢を見ている年頃だったのだ。

「いい?オレの言うことが聞けるね?」
「うん」
「オレがいないときに勝手に家から出るのは禁止。必要なものは全部執事に言えばいいけど、絶対に男の執事とは二人きりにならないこと。いいね?」
「うん」

だが、口先だけでナマエを認めたイルミは、その後もナマエには触れてこなかった。彼が彼の弟たちにするように、事細かに禁則事項を並べてナマエを家に縛り付けた。せっかく磨いた技術も、仕事が回ってこなければ意味がない。仕事から帰ればただいまと言い、下らないナマエのお喋りも聞き、一緒のベッドで眠ることはあっても、イルミはナマエを『妻』として扱っているようには思えなかった。

「はぁ?イル兄がナマエ姉のこと好きかって?んなもん、見てたらわかんだろ」

彼のすぐ下の弟、ミルキはナマエの問いに盛大に顔をしかめた。それだけでなくのろけなら他所でやれと文句を言われたが、どうやら他の家族には仲睦まじい夫婦のように見えているらしい。「正直、イル兄と上手くやってける女がいるとは思わなかったぜ……」彼はどこか遠い目をしてそう呟くと、慌てた様子ですぐに今の発言をとりなした。イル兄に内緒だぞ、なんて、告げ口するなと執拗なくらいに念を押した。

「上手くやっていけてる、のかなぁ……」
「イル兄ってわかりにくいだけで、そうじゃねーの?」
「そういうことしてなくても?」
「そういうことって……え?えっ!?」

ナマエの直球な発言に、ミルキは椅子からひっくり返らんばかりに驚いた。そういえばどちらかというと彼とのほうが歳は近いし、不躾ではしたない質問だっただろう。けれどもまさかさらに年下の義弟たちにそんな話をするわけにも、ましてやイルミの両親に相談するわけにもいかず、結局のところミルキしかいなかった。

「は、はぁ!?何言ってんだよお前!」
「だってそうなんだもん」
「っ……!んなこと、オレに聞かれてもわかるかよ!」

目に見えて動揺した彼は、半ば強引にナマエを部屋から追い出した。「夫婦のことに口なんかツッコめるか!しかも相手はあのイル兄だぞ!」確かにミルキの言う通りで、ナマエ自身何らかの解決策を期待していたわけでもなかった。ただ、動揺した彼を見て、やっぱり何もないのは『おかしいこと』なんだろうと漠然と理解した。
そして急に、イルミの言いつけに素直に従ってきた自分が馬鹿らしく思えてきたのだった。


「これ、どういうこと?」

初めてイルミの言いつけを破った日。それはナマエが初めて、怒ったイルミを目の当たりにした日でもあった。今までだって訓練の時に叱られたことくらいはあったが、『怒る』と『叱る』は似て非なるものである。
ナマエだってばれることは予想していたけれど、イルミがなけなしの感情を露わにした姿はとても新鮮で、怒られているのにどこか胸を打つものがあった。

「どうして言うことを聞かないの?この男誰?」

計画していた逢瀬でもないのに、当たり前のように突き出された写真。相手は街を歩いていたナマエに声をかけてきた男で、誘われるままに喫茶店でお茶をご馳走になっただけの関係だ。けれどもこの時ナマエはようやく自分に監視がつけられていたことを知り、ひたすらに驚愕するばかりだった。

「な、なんで……」
「聞きたいのはこっちだよ。一体どういうつもりなの?オレに黙って、浮気でもするつもり?」
「違う、浮気なんて……」

まさかそこまで話が飛ぶとは思わず、ナマエは焦った。確かに言いつけは破ったが、そういう意味でイルミを裏切る気なんてさらさらない。でもここで謝れば浮気を肯定したことになるのではないかと思うと、どうすればいいのかわからなくなった。

「いいよ、お前が話したくないならこの男に聞くから」
「え?」

やがて、黙りこんだナマエにしびれを切らしたのか、イルミは不意にそう言った。確かにそれで身の潔白は証明される。が、忙しいイルミがわざわざそんな手間をかけることにナマエは驚きを隠せなかった。「白でも黒でも殺すからね」最初、自分に言われたのだと思ったその言葉は、帰ってきたイルミが僅かに血の匂いを纏っていたことで理解した。

「殺したの?どうして?」
「言っただろ、殺すって」
「でも仕事でもないのに、なんで……」
「もちろん、オレとしても不本意だよ。でもナマエが悪い。ナマエがオレの言うことを聞かなかったから」

それだけ言うとイルミはいつも通りバスルームへと向かった。仕事が終わった後、彼がいつもそうするように。仕事ではなくナマエの為だけに人を殺してきたのだ。
たとえそれが見せしめでも嫉妬でも、とにかくナマエはイルミが自分の為に動いてくれたことが嬉しかった。自分にはイルミにそうしてもらえるだけの価値がある。必要とされている。ナマエの行動ひとつで、何の罪もないのに男は死ぬのだ。

「……嬉しい」

無意識のうちに、ナマエはそう呟いていた。





「キミの奥さん、欲求不満なの?」

仕事のことで顔を合わせたはずが、席に着くなりヒソカは涼しい顔で下世話なことを言ってのけた。もちろんイルミは家でのあれこれ、特に夫婦間のことをヒソカに愚痴った覚えはない。だが、当たり前のようにそう言い放ったヒソカには、なぜか全てお見通しのようだった。

「……尾けてたの、ヒソカだったんだ?」
「まぁね、美味しそうなキミの殺気が漏れてたから。
でもあんな普通の男、仕事じゃないだろ?ナマエに何したの、ってキミすごい剣幕だったし」
「……」

イルミは不快感から何も答えず、視線をカウンターの上に落とした。注文を聞かれてなんでもいい、と返事をし、とりあえず出てきたグラスを傾ける。怒りであまり味がわからなかったが、言いつけを破ったナマエに腹を立てているのか、無遠慮に首をつっこんできたヒソカに腹を立てているのか、自分でもはっきりしなかった。

「浮気してるのかい?奥さん」
「お前には関係ないだろ」
「でももう、五人目じゃないか」

ヒソカは何がおかしいのか、にやりと口元を歪めて見せた。「どこまで知ってるのさ、気持ち悪い」ヒソカに対する罵倒はもはや癖のようになっていたが、今回ばかりは心底気持ちが悪いと思った。そして具体的な数字を出されたことで、無意識のうちにナマエを擁護する。

「人聞き悪いこと言わないでよ。実際、何もないのはわかってるんだ」
「へぇ、でも殺すんだね」
「当たり前でしょ」

こんなことを話に来たのではない。頭ではわかっているのに、どうもヒソカのペースに乗せられている。「嫉妬かい?」いつのまにかグラスは空になっていて、イルミはまた次の酒を注文した。

「ナマエがオレの言うことを守らないからだよ」
「それで男の方を?奥さんにやめさせなきゃ意味ないだろう。
だいたいキミってばちゃんと可愛がってあげてるの?」

「なにそれ、原因はオレにあるっての?」

イルミから見たナマエは、とても従順だった。結婚相手にまだ少女ともいえる女を娶ったのも、そういう趣味ではなく組しやすい相手だと思ったからだった。
実際、イルミの狙い通り、ナマエはなんでもイルミの言うことを聞いた。才能もあったし、彼女を一から自分の手で育てていくのは楽しかった。愛着なのか独占欲なのか、そんなことはどうだっていい。

「全部これからなんだよ」

イルミのぼやきにヒソカは一瞬きょとんとした表情になったが、やがて意味がわかったらしくにやりと笑う。

「そういえば奥さん、若かったね」

再びイルミの胸の内を不快感が満たしたが、果たして自分にヒソカを責める権利があるのかは疑問だった。

「へぇ、じゃあまだ手を出してないんだ?」
「ほんとヒソカって最悪」
「イルミもなかなか悪趣味だと思うよ。ま、少女を自分好みに育て上げるってのも男のロマンと言えばロマンだけど」
「お前と一緒にしないで。オレは良識があるだけ」
「いつまで待つつもりだい?」
「それこそお前には関係ないだろ」

出会った頃のナマエはまだ本当に子供のように見えた。そしてそれは1年経った今でもさほど変わらない。いつでも抱くことはできたし彼女も覚悟はしているだろうが、イルミは別にそう急かなくてもいいと思っていた。心配しなくてもナマエとはこの先長い付き合いになるのだから。

だが、ちょうど2か月くらい前から、ナマエはイルミの言いつけを破って無断で外出するようになった。そしてそれだけでなく、他の男と会話したり買い物を楽しんだりしている。それ以上のことがないのは男たちを吐かせてわかっていたが、それでもイルミは我慢ならなかった。ナマエは従順でなければならない。ナマエはイルミだけのものでなければならない。訓練はゾルディックの女として一通りはつけたものの、初めから彼女を外に出す気なんてこれっぽっちもなかった。

「ま、そのうちナマエもわかるようになるよ。なんてったってナマエはまだ子供だし、キルが外に出たがるのと同じようなものでしょ」
「そうかなぁ、ボクには単に彼女が外に出たいだけとは思えないけど」
「……人の家庭に波風立てて楽しい?」

「うん、とっても」

とびきりの笑顔でそう返したヒソカに、イルミは質問した自分が馬鹿だったと後悔する。「もういいから、仕事の話」これ以上、他人に家をかき回されるのはたくさんだ。そんなイルミの雰囲気を感じ取ってか、ヒソカもこれ以上詮索してくる様子はなかった。


「じゃ、そういうことだから。当日遅れたら殺すよ」
「わかってるって」

打ち合わせを終えたイルミは、会計をカウンターに置くとさっさと席を立つ。相変わらず愛想のない態度だが、彼にしては今日は飲んだほうだろう。ヒソカはまだまだ帰る気になれず新しく酒を頼むと、先ほどからメールの受信を知らせていた携帯を取り出した。

「今は簡単に殺せるからいいけど、イルミは一体どうするつもりなんだろうね」

中身を確認すると案の定ナマエから。彼女も彼女で、ヒソカに気なんてないくせによくやる。しかも他の男達がどうなったのかわかっているうえでの行動なのだから尚更タチが悪かった。今までのナンパとは違って彼女の指先から紡がれた棘たちは、ヒソカにとっても彼女にとっても言い逃れのできない証拠になるだろう。

─じゃあ今度連れてってあげるよ。

だが、ヒソカはナマエにそんなメールを送って、外出の約束を取り付けた。人の家庭に波風を立てるのは楽しい。構ってほしいだけで危険な綱渡りを繰り返すナマエと自覚のない嫉妬をしているイルミたち夫婦は、ヒソカにとって非常に面白い玩具だった。

「イルミはいつ気づくだろうね」
この裏切りと、彼女の真意に。

花は春を知らぬまま、美しい棘ばかり育んでいる。

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