- ナノ -

■ うつくしいものに化ける準備をしよう

「海が死ぬ日に迎えに行くよ、だそうだ」

男はそれが伝言だ、と言って、後はナマエに見向きもせずに読書を始めた。ナマエは床に座り込んで混乱したまま男を見つめたが、活字を追う横顔に目だった変化はなく、時折ぱらりと紙をめくる乾いた音が聞こえるだけである。

ナマエは今、目の前にいる男が誰なのか知らなかった。それどころかここがどこであるかも、どうして自分がここにいるのかさえもわかっていない。目が覚めると見ず知らずの男と二人きりで、何をされるわけでもなく放っておかれている。この異様な状況にしばらく呆然としていたナマエだったが、やがてゆっくりと立ち上がると男に声をかけた。

「……あなた誰?敵?」

武器は何も持っていないが、別に拘束されているわけでもない。敵かと尋ねたものの男は酷く無防備に見えるし、そもそも伝言という言葉が引っかかる。男はナマエの問いにようやく本から顔を上げたかと思うと、ふっ、と片頬だけで笑って見せた。

「敵だとしたら、随分悠長にしてるな。ゾルディックは不意打ちじゃないと戦闘はからきしなのか?」
「……私のこと知ってるのね」

自分の事だけならまだしも、家のことを馬鹿にされて思わずナマエはムッとした。確かにぼんやりしすぎていたけれど、それはナマエが落ちこぼれであるだけでゾルディックの教育が悪いわけではない。

ナマエはゾルディック家の末娘だった。唯一の女の子であり、なおかつ一番年下ということで、この家にしては甘やかされて育てられていたのだと思う。だがそれも訓練の進度がゆっくりだという程度のもので、一番上の兄なんかは悪い意味で平等に厳しい。訓練の度にナマエは暗殺者に向いていないよと苦言を呈され、そのくせ暗殺者にならないという選択肢が与えられることはなかった。

「知ってるもなにも。さっき伝えたのはお前の兄貴からの伝言だ」
「それってイルミってひと?」
「そうだ」
「……あなたってイル兄の知り合いなの?」

年齢的には兄とそう変わらないようだが、兄の性格上『友人』でないのは確か。男は軽く頷くと、ようやくそこでクロロだ、と名乗った。

「どういうことなの?伝言って……どうして私はこんなところにいるの?ここはどこなの?」
「質問が多すぎるな。まぁ一番わかりやすく答えるとすると、」

─お前は捨てられたんだ

「……は?」

理解できずに混乱するナマエをよそに、クロロは涼しい顔をしている。「捨て……られた?」そんなことあるわけがない。どんなに出来損ないでも下手に捨てるよりは、殺してしまった方が家のために安全だろう。それにいくらなんでも血縁の娘を簡単に捨てるなんて、そんな馬鹿げたことがあるはずがない。嘘よ、と呟いたナマエを面白がるわけでもなく、クロロはまた手元の本に視線を落とした。

「まぁそう落ち込むなよ、俺はお前の兄貴の知り合いだし、ここでお前が死なない程度に面倒は見るよう言われてる」
「……あなた、一体何者なの?」

「幻影旅団でも蜘蛛でも、呼び方はお好きに」

長い睫が音もなく瞬いて、頬に暗い影を落とすのを、ナマエはただぼんやりと見つめているしかなかった。





海が死ぬ日に迎えに行くよ。

あれから2年の月日が流れたが、未だにナマエにはその意味が分からなかった。あれほど関わるなと言われていた旅団に捨て置かれ、かといって団員にしてもらえるわけでもなく、ゾルディックでも蜘蛛でもない中途半端な自分。それでも置いてもらう以上はと仕事は手伝ったし、仕事を通して色んなことを教わった。
体術はもちろん、ナイフの使い方や念の遣い方。もちろんそれはゾルディックでだって教わったが、暗殺者の殺し方と盗賊のそれは違う。

ナマエは昔から血が怖かった。それがナマエが出来損ないと言われた理由でもあった。なんのトラウマがあるわけでもなかったが、とにかく苦手なものは苦手なのだ。父や兄がやるような綺麗な殺し方ならばまだしも、血を見るとナマエはめまいに襲われる。そしてそのことを叱られてはわんわんと泣きじゃくった。呆れられて、見放されるとまた泣いた。

「今日は泣いてないのか」
「……いつも泣いてない」
「そうか、いつも夜中に煩くてかなわなかったあれは幽霊かなにかか」

深夜にホームから抜け出して、瓦礫の上に腰かけているとクロロが隣に来て座る。実際、彼の言う通り、ナマエはよく一人で泣いていた。蜘蛛の団員たちは初めこそナマエを煙たがったが、付き合っていけば存外悪い人たちでもない。血が駄目なことは相変わらずここでも散々馬鹿にされたが、綺麗な殺し方をしない彼らとつるむうちに少しずつ慣れて行った。

「……ねぇ、団長。あの言葉、本当にイル兄が言ったの?」
「さぁ、どうだろうな」

頭上の月を見上げて、クロロは小さく口角を上げる。「意味はわかったのか?」相変わらずその横顔から真意は読めなかったが、彼は意味を知っているのだろう。ナマエがここで泣いていたのは、家族に捨てられたことが悲しかったからだった。

だが、今はもうその悲しさも摩耗している。何よりここでの居心地が良くて、帰らなくたっていいような気持ちにさえなっていた。

「わからない。それにあのイル兄がそんなまどろっこしいことを言うはずがないもの」

海が死ぬ日、なんて抽象的で曖昧な表現は、それこそこの隣のクロロが好んで使いそうな気がした。だからきっといつまでたっても、誰も迎えに来ないのだろう。ナマエの指摘に彼は笑って、確かにと肯定した。

「そろそろ潮時かもしれないな」
「……え?」
「もうじき迎えが来るだろう」
「それ、どういう意味?」

ナマエが重ねて問おうとした瞬間、それを遮るようにすっと長い指が口元に当てられる。「よかったな、お待ちかねの迎えだ」どこにも気配なんてしないのに、ナマエには誰が来たのかわかった。そして待ちかねていたのは過去のことだ、と内心酷く焦った。
ナマエはもう、あの家に帰りたいわけじゃない。

「や。久しぶりだね」

「……イル兄」

子供のナマエにとっての2年は大きくても、兄はそう容姿が変化するわけでもない。相変わらず無表情な兄の顔は、クロロの笑みを見慣れていたナマエにとって酷く冷たく恐ろしいもののように見えた。

「なんで……」
「クロロから聞いたよ、ようやくその情けない性格が治ったんだって?」
「情けない……?」
「そ。泣き虫なのも血が苦手なのも、だいぶマシになったんでしょ?」

そう言った兄は手ぶらではなかった。人ひとりは平気で入るような大きな袋を引きずってきていて、固まっているナマエの目の前で袋の紐を解く。「一応最後にテストしようか」無造作に袋の中に手を突っ込んだ兄が引きずり出したのは大人の男で、その男の顔を見たナマエは思わず声にならない悲鳴をあげた。

「クロロ……?」

紛れもなく男の顔はクロロ。だが、クロロは確かに今ナマエの隣にいるし、むしろ自分そっくりの顔の男を興味深そうに眺めている。ナマエも最初は動揺したものの、すぐに兄の針で顔を変えられているのだとわかった。

「なかなか上手にできているな。自分が転がっているさまを見るのは妙な気分だ」
「オレとしてはクロロのいないところで、本物だと思わせてやりたかったんだけどね。クロロが見たいってしつこいから仕方なく」

「イル兄、どういうことなの?クロロも、何か知ってるの?」

またもや状況をわかっていないのはナマエだけで、二人にも説明する気はないようだった。クロロの顔をした男はまだ生きているようで、クロロの声で「助けてくれ……」と懇願するように呻く。

「さぁ、ナマエ、殺してごらん」
「え……」
「できるでしょ?」

兄はそう言って男の頭を掴み、喉元をさらけ出させた。「ナマエったら、兄ちゃんよりクロロの方が大事なの?」長い指ですうっと男の喉元をなぞり、爪がぷつりと皮を割いて血を滲ませる。ナマエは隣のクロロを仰ぎ見た。偽物なのはわかっている。けれども彼の前で彼の顔をした男を殺す勇気がなかった。実際この2年間を通して、兄らしいことをしてくれたのは実の兄よりもクロロのほうだった。

「ナマエ、構うな」
「でも……」
「海が死んだら迎えに来てもらえる。お前が泣いてたのは、帰りたかったからだろう?」
「それはそうだけど……」

今はもう帰りたいわけじゃなかった。それなのに兄の無言の催促からは逃れられず、一歩一歩男に近づいていく。じわり、と嫌な汗が額に滲んで、立っている足は気を抜けば震えてしまいそうだった。

「そう、その調子だよナマエ」

武器は持っていないから、もちろん素手で。鋭く変形させた爪を使って、心臓を抜きとるのだ。久しく練習していなかったそれは盗賊には必要のないものであり、ナマエはもう二度と使うつもりもなかったのに。
無理矢理立たされた男の前で、ナマエはごくりと唾を呑む。嫌だ。足が竦んで動けない。命を奪うことには何の抵抗もなくなっていたが、『クロロ』に見つめられると胸が苦しくなって心臓が早鐘を打った。

「お前が殺らなきゃ、オレが殺るよ」



抜き取った心臓は生暖かく、少しの間意味のない拍動を続けていた。父や兄のように綺麗にはいかず、飛び散った赤がナマエを汚す。誰かに取られるくらいなら。そう思った時には身体が動いていた。

「うん、合格」

兄は死んだ男を手放すと、ナマエの顔を覗き込んで言った。「泣かなくなったね」確かに涙は零れなかったが、それはナマエの心がからからに乾いていたからだった。

「帰ろうかナマエ」
「……」
「クロロもご苦労さま。残りのお金はこの後全部振り込んでおくから」

ナマエは振り返ったが、クロロの顔を見る勇気はなかった。彼は本当に兄に頼まれただけだったのだろうか。面倒を見てくれたのも笑ってくれたのも、全てこの日の為だったのだろうか。俯くナマエの頭にクロロの手が乗せられて、彼は壊れ物を扱うかのようにそっと撫でた。

「海が死んでお前は美しくなった。ナマエには赤が似合う」
「やっぱり、団長の言葉だったのね……」
「さぁ、どうだろうな」

尚もとぼける彼に、ナマエは小さく溜息をついた。「団長……いや、クロロのことちょっと好きだったの」親愛なのか単なる憧れなのかわからない。けれどもきっとこの感情も、暗殺者にはいらない。殺してしまわなければならない。彼とはここでもうさよならなのだとわかっているのに、感情の海は本当に死んでしまったらしかった。

「きっとお前はまだまだ美しくなるよ」

クロロはそう言って、小さく笑う。

「そうかな……」
「その時はまた、俺が迎えに行ってやってもいい」
「わかった」

ナマエは頷いて、そこでやっと顔をあげてクロロの目を見る。ぶつかった瞳は兄と同じ黒色なのに、不思議と怖いとは思わなかった。

「じゃあ次は本当の海が生まれる日に」

次に会った時こそは親愛なのか恋愛なのかはっきりするだろう。
口紅代わりに血濡れた指で自分の唇をなぞると、なんだか大人になったような気がした。

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