- ナノ -

■ 愛人たちは眠れない

※タイトル通り愛人設定、苦手な方はブラウザバックでお戻りください


山を含めた一帯を有する広大なゾルディックの敷地には、家人用のこれまた大きな屋敷と、執事の常駐する屋敷や訓練施設などの様々な建物が建てられている。
そしてその敷地内の隅の一角に高く美しい塔が建てられていて、ナマエはそこに14の頃から暮らしていた。

自分の親の顔は知らない。物心つく頃には既に商品として売られていて、色んな人間の所を転々とした。だからそんないつ終わってもいいような人生の中で、イルミと出会えたことがナマエにとっての唯一の幸福だろう。ここでの暮らしで不自由することはなかった。酷い目に合わされることもなかった。
基本的に身の回りのことは全部自分で行っていたものの、必要なものは言えば全て用意してもらえるし、おそらく頼めばなんだってしてもらえるだろう。もっとも、執事の手を煩わせるのが嫌なナマエは余程のことが無い限り、彼らに直接頼み事はしなかったのだが。

ナマエはこの家の『家族』ではなかった。かといって執事でも庭師でもない。ゾルディックで暮らすにはあまりにか弱く、自分でこの塔から出る術も知らない。犬であるミケでさえ侵入者の排除という仕事があるのに、ナマエには何もするべき仕事が無かった。

深夜になって、人目を忍ぶように彼がこの塔を訪れるまでは。

「ナマエ、」
「……イルミ、来てくれたのね」
「うん」

この塔に普通の入口はなかった。その代りに小さなバルコニーが付いていて、イルミはいつもそこから中に入ってくる。室内へと通じる扉には彼しか開けられない厳重な鍵が付いていて、ナマエが自分の意思で外に出ることはなかった。

「ごめんね、ナマエ」
「…どうして謝るの?」

しかし何もナマエは閉じ込められているわけではない。この塔の造りや鍵はナマエを外に出さないようにするための物ではなく、反対に外敵を中に入れさせないためのものだからだ。
こちらの顔を見るなり謝った彼に、自分はそれほどまでに悲しそうな表情をしていたのかと、ナマエは目をしばたかせた。

「ナマエをこんなとこに押し込めてるからさ」
「ううん、置いてもらえてるだけありがたい」
「何言ってるの、オレがナマエにいてほしいんだよ」

イルミはそう言って近づいてくると、両手で柔らかくナマエの頬を包む。「オレが好きなのはナマエだけだよ」じんわりと彼の体温が伝わってくる中で、左手に嵌められた薬指の金属だけが夜気に冷やされてひんやりとつめたい。だからと言って彼の言葉が偽りやその場しのぎの甘言でないことはわかっていて、そうなると余計に自分という存在がここにいるのは許されないことなのだと強く思った。

「ねぇ、イルミ……こんなこともうやめよう?」
「こんなことって?」
「私はいないほうがいいよ、たぶん……」

最後にたぶん、とつけたのは明らかにナマエの弱さだった。確かに居場所を失うことも怖いが、精神的には針の筵。イルミ以外の誰にも歓迎されないここでの暮らしは酷くナマエをすり減らしたし、不道徳な行いであるのも嫌というほどわかっている。だからここにいたくない、こんなことはもうやめたいと思うくせ、その気持ち以上にナマエはイルミのことを本気で愛していた。

「ナマエはオレのこと嫌いになったの?」
「……」

イルミは無表情のままで、ぽつりと呟くように尋ねた。そして答えは聞かなくてもわかっていると言うように、そのままナマエの唇を自分のそれで塞ぐ。

「ナマエは気にしなくていいんだよ。後から来たのはあの女のほう。それだって母さんが勝手に決めたことなんだから」
「……でも、」
「優秀な遺伝子を残すっていう意味なら、確かにあの女は必要。だけど何も、オレの気持ちまで縛られなくたっていいでしょ?どうせ向こうだって、ゾルディックの後ろ盾が欲しいだけなんだよ」

だからもう余計なことを考えるのはなし。
そう言ってイルミはまたナマエの唇を塞いだ。まるで誓いのキスのようなそれは、本来ならば彼の妻に捧げられるべきもの。ナマエは自分の罪から逃げるようにぎゅっと目を閉じて、彼にされるがままになっていた。




邪魔者は誰がどう見ても自分だった。

女は生まれも育ちも生粋の暗殺家業。だから、決して恋愛や結婚に、夢を描いていたわけではない。けれどもまさかこんな扱いを受けるとは思ってもみなくて、結婚先での生活は想像以上に苦痛でしかなかった。

「おかえりなさい」
「……」

ただいまも言わず、黙って浴室へと向かった夫からはほのかに血の匂いがした。もっともそれは同業だからこそわかる程度の微かな匂いで、流石に一流の暗殺者だけのことはある。
帰宅した彼から血の匂いがするとき、女は決まって心の底から安堵した。あの塔へは行ってなかったのね、そう言ってやりたいが、生憎そんなことを言う勇気も権利もない。

あくまで女は子孫を残すために抜擢されただけの存在で、彼からほんのひとかけらの愛情も注がれていないことは明白だった。その証拠に結婚式の際、形だけのキスをしたっきり一度も触れられてはいない。子供をつくるのだって、彼は体外受精でいいと言った。

だからきっと、彼があの塔に匿っている人に関して追求しようものなら、女は簡単に捨てられるだろう。替えは探せばいくらでもいる。所詮、その程度の存在だ。彼のほうだってそのつもりだからこそ、こうして敷地内に堂々と愛人を囲い、彼の家族もこの仕打ちを咎めない。
女は、もしかすると愛人は自分の方なのかもしれないなんて考えて、そういや愛されたことなんてなかったなと自嘲した。惨め以外に自分の現状を表す上手い言葉が見つからない。
そして更に追い討ちをかけるよう、浴室から出てきた夫はべッドに腰掛けたままの女に向かってこう言った。

「……いつも言ってるけど、起きてなくていいから」

黒く長い髪はまだ乾ききっておらず、思わずハッとしてしまうくらい美しい。いつも変わらぬその表情は人形めいていて、そんな彼が誰かを愛しているさまなんて少しも想像できなかった。

「いえ、夫の帰りを待つのは妻の役目ですから……」

返事をするには、声が震えてしまわないように下腹に力を込める必要があった。唯一、女がこの家にいられる理由は、妻というちっぽけな肩書きだけなのだ。そして同時にそれは、女のささやかなプライドでもあった。夫のことは好きとか嫌いとか、もはやそういう範疇にはない。だが、取られたくないという気持ちだけは強かった。

「そう。待ってたって意味ないのに」
「……」

帰りの遅い夫が仕事なのか塔へ行っているのかわからないのに、とてもじゃないが眠る気になどなれなかった。





基本的に毎日、ナマエは一晩中起きてイルミが訪ねて来るのを待っていた。どうせ昼間にすることも限られているのだし、昼夜逆転の生活を送ったところで大した支障はない。待っていると言ってもただぼうっと待っているのではなく、読書をしたりそれなりに自由に時間を潰している。
だがここ最近はなかなか彼が訪ねて来なくて、ナマエは少し不安になっていた。

そもそも彼は忙しい仕事だから、家自体に帰ってこないことも多くある。訪ねてくるのはいつも不定期だったし、たまにはぐっすり眠りたい日だってあるだろう。

だが、彼の部屋には彼の妻がいる。そしてそこでのことはナマエには知るすべがない。いくらイルミを信じていたって、愛人という立場のナマエには不安になるなという方が土台無理な話だった。イルミに会えば彼が嫌な顔をするのがわかっていても、彼の妻のことを聞かずにはいられない。その度に彼はどうでもいい、と言うのだが、同じ部屋で暮らしていて一切の情が湧かない保証なんてあるのだろうか。

こんなことは許されない、やめなくてはならない、と思っているくせに、ナマエはイルミの心が傾いてしまうのを恐れていた。向こうに子供なんて出来たら、余計に自分は忘れられてしまうのではないか。いつしかもしもそうなった時は、彼の手で綺麗に殺して欲しいとさえ思っていた。


「……ナマエ、」
「イルミ、来てくれたの?」

一人で考え事をしていると、どんどんと暗い方向に進んでいってしまう。だが不意に聞こえてきた愛しいひとの声に、ナマエは思わず立ち上がって扉の方に駆け寄る。「ごめんね、やっと仕事から帰ってこれた」彼は入ってくるなりナマエを強く抱きしめて、またもや謝罪の言葉を口にした。

「もう、来てくれないかもしれないって覚悟した……」
「何言ってるのさ、ナマエを一人にはしないよ」
「……うん。でももし、私がいらなくなったらその時は、」
「いらなくなんてならない」

きっぱりとそう告げたイルミは、今のこの救いのない状況をどう思っているのだろう。ナマエには彼の妻の心情が容易に想像できたし、彼だけがこの複雑な関係を割り切っているように思えてならなかった。

「ナマエどうしたの?顔色も悪いし、あんまり寝てないの?」
「……イルミは優しいのか酷いのかわからないね」
「それ、どういう意味?」

こてん、と首を傾げたイルミは、本当に何もわかっていないみたいだった。きっと彼は不安や嫉妬で、眠れない夜を過ごしたことはないのだろう。

「なんでもないよ。今日はイルミが来てくれたから、ちゃんと眠れる」

ナマエはイルミの胸に顔をうずめると、同じ敷地内で眠れぬ夜を過ごすであろう女に想いを馳せる。だがそこに優越感などは微塵も生まれず、ただどうしようもなく泣きたいような気持ちになっただけだった。


愛人たちは眠れない


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