- ナノ -

■ ほつれる未来

油断すれば、その闇に身体が溶け込んでしまいそうなほど暗い夜。
イルミは自室へと繋がるバルコニーに立って、中へ入るかどうか考えあぐねていた。

もちろん、自室というだけあってそこは物心つく前からイルミの部屋であり、別に彼が気兼ねする必要など全くない。しかし結婚した今、その部屋はナマエとイルミの二人の部屋であり、こんな深夜では彼女もとうに眠っているだろう。とはいえ気配に気づかれて眠っているナマエを起こしてしまうなんてこともないから、さっさと入ってしまえばいい。けれどもイルミはなかなか行動に移さず、ただじっとそこに立って彼女との約束を守るべきかどうか考えていた。
何事もすぐに決めてしまう彼がここまで悩むなんて、もしかすると初めてのことかもしれない。
それに真面目な彼が本来ならばまだ仕事をしているはずの時間に、家に帰っているのもおかしなことだった。


そうやってしばらく立ち尽くしていたイルミは、やがてふと空を見上げる。
しかし生憎今日は天気が悪く、月が出ていないためどのくらいの時間が経ったのかわからない。イルミは急ぐ必要があった。なのに今日はもたついている。今更になって焦燥感がこみ上げるが、まだ決心は決まらなかった。そして決心が決まらぬままとうとう中へと入った。時間が無くなってきてやっと、重い一歩を踏み出せたのである。

そして中に入ると案の定、すうすうと心地よさそうな寝息が聞こえていた。広いベッドのスペースを余らせて、丸くなって眠っているナマエ。その寝顔は子供のようにあどけなく、他人には無関心なイルミでも心から愛しいと思えるものであった。

イルミはそっと眠る彼女の横に立つと、その安らかな寝顔を眺めて僅かに口角を上げる。
実際、二人が結婚してからまだ日は浅いものの、恋人であった期間はその何倍も長い。だが何度見ても飽きることは無く、イルミはただこうしているだけの無為な時間がとても好きだった。

しかし残念ながら、今日はただ幸せに浸っているだけでは終われない。上がっていた口角は下がり、唇は真横にきつく結ばれる。

ナマエを殺すか殺さないか。それこそが問題であり、イルミをずっと悩ませていたことだった。

今までやってきた仕事に比べれば、技術的には酷く簡単で心情的には最も難しい。それにチャンスは一度きりだった。どうしても今夜中にかたをつけなくてはならない。
だが結局部屋の中に入ったものの、イルミの決心は依然としてつかないままだった。「ん……」すると、不意にナマエが鼻にかかったような声を出して、くるりと寝返りを打つ。少し寒いのか身を縮め、布団にもぐりこむような気配を見せた。

「……イルミ?」

けれどもその途中で動きを止め、ナマエはゆっくりと目を開ける。まさか起こしてしまうとは思わず完全な誤算だったが、イルミはつい頷いてしまった。寝ぼけた様子の彼女が愛おしくて、ほとんど無意識のうちに名前を呼ぶ。

「ナマエ、」
「……お帰り、今日は早かったのね」

言いながら、ナマエはこちらに両手を伸ばした。甘えるようなその仕草に、またもや決心が鈍る。いつもならその腕に応えてやるところだったけれど、イルミはただいま、とだけ返事をしてベッドの空いたスペースに腰を下ろした。

「……どうしたの?」
「ううん、ちょっとね」

誤魔化すようにそう言ったが、もちろん何の誤魔化しにもなっていない。ようやく意識がはっきりしてきたのか、ナマエは不思議そうな顔をして上半身を起こした。「何か嫌なことでもあったの?」そして眉を寄せ、小首を傾げる。確かに嫌なことはあったな、とイルミは思い出して曖昧に頷いた。

「イルミ、何かあったんなら遠慮せずに甘えていいんだからね」
「……ナマエのほうが、甘えたがりのくせに」
「だから普段甘えてないイルミは、もっと甘えていいんだよ」

ナマエはにっこりと笑うと、布団の端を持ち上げて中に入るように誘った。なんだかんだ言って、やっぱりナマエが甘えたいだけじゃないのか。外は寒いんだね、すっかり冷えてるじゃない、と言った彼女に、うんと短く返す。

「……ねぇ、ナマエ。そんなに甘えたがりだと一人の時寂しいんじゃない?」
「そ、そんなことないよ」
「嘘ばっかり」
「まぁ……長期の依頼の時はちょっと寂しいけど……」

照れているのか少し不貞腐れたような顔になった彼女に、イルミの胸はきゅっと締め付けられた。

「ほら、やっぱり。そんなのでもし、オレが死んだらどうするのさ」

一人で残してしまったら、ナマエは寂しがるんじゃないだろうか。ただでさえ広いベッドに一人でぽつんと過ごして、いつまでも帰らない夫の帰りを待つなんて可哀想だ。

もしも、なんて仮定の話みたいに話したけれど、実は本当のことだった。今日、イルミは依頼をこなす途中で死んだ。そしてそんなイルミのたった一つの『心残り』はナマエのことで、だからこそこうして最期に会いに来た。問題は彼女を殺すか殺さないか。名前を一人ぼっちにするか殺して一緒に連れて行くか。彼女への愛は変わらなかったけれど、共に寄り添って『生きていく』未来は、呆気なくほつれてしまったのだ。彼女はまだ何も知らないけれど、イルミがここにいられるのは夜明けまで。遅かれ早かれ、訃報も届くだろう。

彼女は肌寒いのか肩口まで布団を引き上げて、くすっと笑った。

「一生一緒にいようって約束したばかりなのに、もうそんな心配?」
「まぁ、仕事が仕事だからね」
「悪いけど、イルミが心配してるほど寂しがらないかもよ」
「……そう。ならいいんだけど」
「拗ねないでよ」
「拗ねてなんかないさ……」

自分がいなくなっても、彼女が悲しまないならそれが一番だ。いや、少しは悲しんで欲しいけれど、いつまでも悲しまれるよりはずっといい。なにせナマエはまだ若いのだ。いくらだって別の未来を描くことができるはず。
けれどもいつか自分の事を忘れて他の誰かと幸せになるのかと思うと、それはそれで嫉妬で気が狂いそうだった。一人になってしまう彼女の為とかそんな綺麗事はかなぐり捨てて、ただ自分の為だけに一緒に連れていきたいと思ってしまう。

邪な想いが一気に胸を満たして、落ち着くためにイルミは目を伏せ、深呼吸をした。

「……ねぇ、ナマエ。オレはナマエに幸せになって欲しいと思ってる」
「やだ、なんなの突然」
「突然じゃないよ、幸せにするって誓ったし」

今やもう、その誓いはすっかり果たせなくなってしまったけれど、彼女が一緒に死ぬことを望むならそれはそれで幸せなのではないだろうか。イルミはそうだ、と自分の都合のいいように解釈しようとした。甘えたがりの寂しがりは結局のところ自分の方だったのかもしれない。ナマエと離れたくない。ナマエを他の誰かに渡したくない。その想いだけで殺すことに決めた。一方的で押し付けるような愛だけれど、ナマエならきっとわかってくれるような気がした。

「そんなに気負わなくても、私はイルミがいてくれるだけで幸せだよ。イルミが幸せだったらそれでいいよ」

だが、イルミが愛と殺意で濁った感情を向けようとした瞬間、ナマエは笑いながらそう言った。なんてことない調子で紡がれたその言葉に偽りがないことくらい、嫌でもわかる。イルミはナマエの幸せを想いやっていなかったのに、ナマエはイルミの幸せを想いやっていた。その事実に自分の醜さを突きつけられたような気がして、心の奥底で芽生えたはずの殺意は急速に萎んでいく。

「……ナマエ、オレ……とんでもない失敗するとこだった」

やっぱりナマエは幸せになるべきだ。独りよがりな愛し方しかできない男なんてさっさと忘れて、本当の幸せを掴めばいい。イルミは生まれて初めて、泣くことのできない自分に感謝した。さよならの代わりに、彼女にそっと口づける。タイムリミットが近いのか、もういつもの柔らかい感触はない。

「とんでもない失敗?」
「まだ1つ、依頼が残ってるのを忘れてた」
「……今から行くの?」
「うん、少し遅くなるかもしれないから先に寝てて」

そう言ってイルミは布団を抜け出すと、彼女を優しく寝かしつけた。もうここに来ることは二度とない。たとえ次の夜が来たとしても、それがどんなに暗い夜でも、イルミはこの世界に存在することができないのだ。

「寂しがらないでね」
「もう、しつこいなぁ。子供扱いしないで、寂しくなんかないよ」
「うん……じゃあおやすみ」

外に出てみると、もう空は白み始めている。イルミはその中から僅かな闇を見つけると、溶け込むように姿をくらました。
それがおそらく、最も彼らしい消え方なのだろうと思われた。



「……イルミの馬鹿」

イルミが出ていってしばらくした後、ナマエはぽつりと呟いた。ふらふらとベッドを抜け出した彼女は、彼の後を追いかけるようにバルコニーへと出る。闇は登り始めた陽の光にかき消され、すっかり薄くなって今にも消えて無くなってしまいそうだった。

「……イルミがいてくれたら、幸せだって言ったじゃない」

頬がひやりと冷たいのは、何も外気のせいだけではない。ナマエは両眼からぽろぽろと涙をこぼし、それでもそれを拭うことさえしなかった。「なのにどうして私を置いていくの……」問いかけてはみるが返事はもうない。ナマエは途中で彼が死んでしまっていることを悟った。だからこそ、イルミといれば『幸せ』だと言ったのに。

ナマエは泣き笑いのような表情を浮かべて、バルコニーの柵の上によじ登った。標高の高い山に建てられた屋敷だけあって、こうしていると風がとても強い。朝日にきらりと薬指のリングが煌めいて、心の底から綺麗だと思った。

そして祈るように胸の前で両手を組んだナマエは、そのまま躊躇うことなく空中へと一歩踏み出した。イルミのいない未来なんて、ナマエはこれっぽっちも欲しくはなかったのだ。

もがきもせず落ちていくナマエの表情は、彼女の行為に似つかわしくないほど酷く安らかなものだった。
もし何度夜が訪れようともこの先絶対にイルミに会えないというなら、ナマエの選択は初めから一つ。

「寂しくなんかないよ、だって」

夜が垂れてく前に、そっちに行くからね。


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