- ナノ -

■ 棘だけでも薔薇ですか

時が流れて、変わっていくのは背丈だけではない。
幼い頃は手をつなごうが一緒に眠ろうが気にしていなかった間柄でも、やがて男女は互いに意識するようになり、自然とそういったことはしなくなる。

けれどもそれは別段寂しいことではなかった。むしろ昔のように振る舞えと言われたら、誰しもが戸惑ってしまうだろう。しかしそんなわかりやすい表面的な変化だけならよかったのに、キルアは幼馴染みの彼女と兄との間の、言葉にできない微妙な変化をも敏感に感じ取っていた。

「なぁ、オレそろそろ帰るよ」
「え!?もう帰っちゃうの?」

ゲームのコントローラーから手を離し、頭を振ってやれやれと立ち上がる。仕事以外での外出を厳しく制限されているキルアが、唯一遊びに行けるのがナマエの家。幼い頃はそれなりに楽しみにもしていたが今はむしろ気まずいだけだった。年頃の女の部屋では見慣れないものも多く落ちつかないし、今更一緒に遊ぶ雰囲気でもなくて、正直この訪問はキルアにとってあまり息抜きにはならなかった。

「待ってよ、せっかくケーキ焼いたのに」
「……ったく、しゃーねーなぁ」

けれどもナマエの方がキルアを積極的に家に呼びたがるのだから仕方がない。ため息をついて再び腰を下ろすと、彼女はわかり易くほっとした表情になる。しかし何もケーキが残ってしまうのを残念に思った訳ではなく、彼女にはキルアを家に引き留めておきたい理由があるのだ。そしてそれがわかっているからこそ、キルアはここに訪れるのが余計に面白くなかった。

「どう?美味しい?」
「ん、まぁまぁじゃねーの」
「なによそれ、せっかく頑張ったのに」

頑張ったのは俺の為じゃないだろ。
そう言いたいのを堪えて、キルアは少し苦めのチョコレートケーキを頬張った。実際、彼女とは6つも歳が離れているわけだから、弟としてしか見られなくても当然なのかもしれない。それでもキルアからしてみれば、ただの『姉貴』に収まっていて欲しくはないのだ。
だいたいナマエだってイルミに訓練をさせられていたし、昔はあんなにも彼を嫌っていたくせに。

「キル、母さんがそろそろ帰ってこいってさ」

ノックも無しに不意に現れたイルミの姿に、ナマエの顔はぱっと輝いた。彼女はこれを待っていた。キルアがここにいれば、イルミが迎えに来るのを知っているから、だから何度だってキルアを家に呼びたがるし引き留めたがる。そしてうちの家族もナマエのことを気に入っているので、二人をくっつけようとわざわざ忙しいイルミにキルアを迎えに越させるのだ。

ケーキを乗せた皿を持って兄に駆け寄るナマエの後ろ姿を見ながら、キルアは最後の一口を味わっていた。いつものことだからこの後の展開なんてわかりきっているのに、それでも酷く気が滅入る。

「あのねイルミ、これ、ケーキ焼いたから食べて!大丈夫、ちゃんと甘さは控えめにしてあるよ」
「キル、もう食べたんだろ?だったら帰って訓練の続き」
「ねぇ、イルミ、」
「うるさい」
「あっ、」

陶器の割れる派手な音が響いて、それきり部屋が静まり返る。イルミの手によって払われた皿は粉々に砕け散って、もちろんその上に乗せられていたケーキも床に落ちてぐちゃりと潰れた。

「先に玄関で待ってるから」

身をすくめ、落ちたケーキを呆然と見やるナマエ。けれどもイルミは落ちたケーキを一瞥することもなく、背を向けてさっさと部屋を出ていく。残されたキルアはナマエになんと声をかけようか迷ったが、キルアが口を開くよりも先に我に返った彼女はへらりと笑った。

「……また嫌われちゃったかなぁ」

執事を呼べばいいのに自分で割れた皿の破片を拾い、部屋にあったゴミ箱へと一つ一つ入れていく。キルアはただ黙ってそれを手伝った。イルミの仕打ちは酷いと思ったが、彼女がそう言わない以上は自分も言えない。もういい加減諦めればいいのに。

ナマエは昔から何事にものめり込むタイプだった。
耐えるだけの訓練は苦手だったが、技術の習得となれば俄然やる気を出す。収集癖もあってナイフやら毒やら、色気づき始めた年頃には鞄や宝石、靴も山のように持っていた。そして技が難しければ難しいほど、物が珍しければ珍しいほど、一生懸命になって頑張るような性格だった。

だから、きっと今度の『これ』もなかなか諦めないだろう。それに閉鎖的空間で過ごしてきたナマエにとっては生まれて初めての恋でもある。
ただ相手が悪かったとしか、言いようがないのだ。

「ありがとう、ここに入れてくれたらいいよ」
「うん……」
「なんかごめんね」

「ケーキ、美味かったよ」

言いながらキルアは差し出されたゴミ箱に、集めた皿の欠片を放り込んだ。慰めじゃなくて本当に上手にできていたけれど、今はなんだか嘘くさく聞こえてしまう。そしてふと、ごみ箱の中に入っていたものを視界にとらえて間抜けな声を出してしまった。

「おい、ナマエ……これ」
「え?あぁ、うん。いいの」

わざわざ手を突っ込んで引っ張り出して見せても、彼女の表情は変わらない。キルアが手に取ったのは、先週彼女がやっと手に入れたの、と心底嬉しそうに自慢していたイヤリングだ。なんでも希少な石が装飾されているとかで、彼女が前から欲しがっていたものだった。手に入れてから一度、イルミの前でつけていたのを見たが、そう簡単に捨てられるほど安いものでもないだろう。しかし、

「もう、要らないの」

ナマエはキルアの手からイヤリングを奪うと、そのまままっすぐごみ箱に落とした。そしてなんの躊躇いもなく、その上から割れた皿や潰れたケーキを捨てる。
キルアもそれに倣って破片を捨てると「兄貴が待ってるから……」そそくさと逃げるように部屋を出た。たぶん、彼女はあれをつけてイルミに褒めてもらいたかった。でも駄目だったから、もう『要らない』のだろう。要らないのと言った彼女の表情が氷のように冷たくて、文字通りごみを見るような目で、思い出したキルアは身震いした。
そしてもっと自分が大人だったら、上手い慰めの言葉を見つけられるのだろうか、なんて考えた。





「で、今日は何してたの?」

ゾルディック家へと帰る道すがら、執事の運転する車の後部座席に並んで、イルミはいつもの質問を投げかけた。はっきり言ってナマエの家に行ったところで出来ることなんて限られているし、取り立てて面白い話はない。けれども無視するわけにもいかず、キルアは居心地悪そうに座りなおすと、窓の外へやっていた視線を戻してぼそぼそと返事をした。「……別に、フツーにゲームしてただけだけど」実際、ナマエとの6歳差も大きいが、長兄とはその倍は離れている。だから感覚的には兄というより父親に近くて、腹を割って話せるという間柄ではないのだが、それでもイルミはこうして逐一何をしていたか聞きたがった。

「ふーん、ナマエも?」
「いや、ナマエはゲーム上手くねぇもん」
「じゃあ何してたの?キルのを見てただけ?」
「……ま、最初だけな。あとはほら、ケーキ作ってたから」
「へぇ……」

イルミはそこでようやくさっき床にたたきつけたケーキを思い出したのか、僅かに目を細める。そこで会話は終わりだった。どう考えてもこれ以上は広がらない。初めの頃は弟を監視したいという彼の行き過ぎた想いがこんな質問をさせているのかと思っていたが、最近ではそれだけでないとキルアは気づき始めていた。そもそも本気で兄がナマエのことを嫌がれば、いくらでもこの送迎を断れるだろう。暗殺一家の長子として生まれた以上は結婚相手に自由が無いとは言いつつ、他の婚約者候補やお見合いだって最終的にはイルミの意思が通って破談にされている。だからこそキルアは兄の真意が知りたくて、このまま終わりそうになった会話を珍しく自分から無理に続けようとした。

「……あのさ、兄貴ってなんだかんだナマエのこと気にしてるよな」
「え?」
「だって、いつも聞くじゃん。何してたかって」

オレのことだけじゃなく、ナマエが何してたかも。

言い訳をするように開いた兄の口が言葉を発する前に、早口でそう言い切った。気まずい沈黙が車内に流れて、キルアは馬鹿な質問をしたなと今更後悔する。「……そうだね」しかし意外にもイルミは否定をせず、素直に気にしていたことを認めた。

「気にはしてるよ。っていうか、オレがナマエのこと気にかけたらおかしいの?」
「っ、おかしくはねぇけど……でも、じゃあなんであんな冷たくするんだよ」
「冷たく?オレが?」

そこまで言って、イルミはこてんと首を傾げた。ふざけているわけではなく、心底不思議そうな表情で聞き返す。まさか自覚がなかったのかと、キルアは腑に落ちたような落ちないような、複雑な気持ちで兄の黒い瞳を見つめ返した。

「……冷たいよ、イル兄は。特にナマエには酷い」
「いや、あれくらいでいいんだよ」
「なんだよそれ、イル兄だってナマエの気持ちは知ってるんだろ!」

むしろあんなにわかりやすくアプローチされて、気が付かないほうがおかしい。まぁ自分の冷淡さに無自覚だった人間に言うのもなんだが、これで知りませんでしたなら精神年齢は幼児並だ。「知ってるよ」だがイルミは口の端を少し歪めると、何がおかしいのか鼻で笑った。

「馬鹿だよね、あんなに必死になってさ」
「……イル兄はナマエのこと嫌いなのか?」

普段、人形のように無表情な兄が笑うのはとても珍しかった。けれどもその内容があまりにも人の気持ちを踏みにじる行為で、キルアは嫌悪感がこみ上げる。最低だとは思っていたけれど、それにしてもここまでとは。ナマエがあまりにも可哀想に思えて、それならそうとはっきり振ってやれと言おうとする。

「まさか。好きだよ」

しかし次に発せられたイルミの言葉に、思わずぽかんと開いた口が塞がらなくなった。

「す……き?」
「うん。オレがナマエのこと好きだったらおかしい?」
「だ、だって、あんな酷い……」

24にもなる男が、この話の流れで親愛の情の意味の『好き』だとは言わないだろう。となるともちろん意味は一つなわけだが、それにしても解せない。彼は自分の行動を冷たいとも思っていないらしいし、おまけにナマエのことを好きだとまで言うのだ。

「好きだなんておかしいだろ。歪んでるよ、それ」

もし、冷たくされて失望する彼女を愛でているなら、それでもなお自分に想いを寄せる懸命な彼女の姿を楽しんでいるなら、それはとんでもなく酷い人間だ。仕事柄誰かの命を奪うことに関して抵抗が無くなったとしても、人の純粋な想いまでもを弄ぶのは言い訳のできない悪人だ。「本当に好きなら、花のひとつでも渡してやれよ」執事に言って花屋の前で車を止めさせると、キルアは力強くそう言った。

「いつまでもナマエが好いてくれるなんて自惚れんな!あんなことばっかしてたらそのうち嫌われるに決まってんだろ」

自分でもなんで兄の恋路を後押ししてやらねばならないのだ、と思ったが、これ以上ナマエが悲しい顔をするのを見たくない。キルアは動かないイルミの代わりに車を降りて薔薇の花を一本買って来ると、ぐい、と兄の方へ突き出した。「ほら、今からでも渡して来いよ」それなのに、ちらりと薔薇を横目で見たイルミは呆れたように大きな溜息をつく。

「……わかってないね、キルは」
「なにがだよ」
「今までナマエの何を見てきたのさ」

手から薔薇は奪われ、香りを楽しむようにイルミは鼻を近づける。そのあまりに余裕ある横顔に馬鹿にされている気がしてならなかったが、実際彼はキルアに何もわかっていないと繰りかえし言った。

「酷いのはナマエのほうさ。オレは昔から、彼女がオレを好いてくれる前からナマエのこと好きだったよ」
「……」
「でも、ナマエの性格を知ってるだろ。ナマエが夢中でいるのは、欲しいものが手に入らない期間だけ。それが物でも人でも同じことだよ」


それを聞いた瞬間、ごみ箱に捨てられたイヤリングが脳裏に浮かんでキルアは小さく息を呑んだ。いや、確かに言われてみれば、今まで彼女に自慢されたあれやこれやはいつの間にか話題にも上らなくなっていた。そして気が付けばナマエはまた別のものを欲している。その繰り返しだ。昔から我儘だとは思っていたが、手に入った後の物がどうなっているのかなんてキルアは気にしたことが無かった。

「だ、だけど……」
「たぶん、ナマエはオレが振り向いたら途端に興味をなくすよ。酷いのは最初からずっとナマエなんだ。オレの気持ちを弄んでる悪人は彼女のほうだったんだよ」

言いながらイルミは薔薇の花をぶちりともいだ。もはや枝葉しか残らないそれは、一見しただけでは薔薇だとわからないだろう。華やかなラッピングがかえって不釣り合いで、花が無いと棘が痛々しく目立った。

「だからね、花を渡すとしてもナマエにはこれでいいんだ。彼女を飽きさせないのがオレに唯一出来る愛情表現だから」

呆然とするキルアの前で、せっかくだから渡してくるよ、とイルミはそこでようやく車を降りた。「キルは先に帰ってて」言われなくてもそうする。ここで待っていたってどうしようもない。それどころか、自分には何もできないのだと痛いほど思い知らされた。

「……あんなの、薔薇じゃねーよ」

ぽつりと呟いてみるが、おそらく本当にナマエのことをわかっているのはイルミの方なのだろう。好きだと告げれば終わる恋愛。可哀想なのは、兄貴のほうだったのか。「車、出して」きっと花を渡しに行った兄貴は、本当にあれだけ渡して返ってくるのだろう。

キルアはもっと自分が大人だったら、上手い慰めの言葉を見つけられるのだろうかなんて考えてふっと笑った。確かに兄貴は可哀想かもしれないが、慰めを必要とする類の人間ではない。

考えるだけ無駄だというのは、初めからわかりきっていたことだった。

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