- ナノ -

■ 純は時として毒にもなり

洒落たバーカウンターに男と二人なんて、どちらかといえば面白くもなんともない状況だろう。だが、会員制であるここは余計な人間の目を気にする必要はなく、仕事の話をするのにはうってつけ。
今はその打ち合わせも終わり、せっかくだからとグラスを傾けつつ他愛のない世間話に突入したばかりだったが、その時話題に上ったイルミの何気ない一言に、ヒソカは思わず自分の耳を疑った。

「それ……本当かい?」
「そうだけどなに?」

育った環境のせいか、彼は時折こちらがびっくりしてしまうような常識を披露するが、今回の話はそれとも違う。
相変わらず涼しげなイルミの横顔をまじまじと見つめれば、彼もこちらを向いてこてんと首を傾げた。

「いや、信じられなくて……」

イルミとは別に昔からの知り合いというわけではない。それでもやっぱりこんな大きなことを知らなかったということにヒソカは驚きを禁じ得なかった。「8年かぁ……」8年ということは16歳の時からということになる。

「うーん、やっぱり信じがたいな」

まさか、あの人間関係の希薄なイルミに、8年もの間交際している恋人がいるなんて。

イルミはいつまでたっても信じられない、とぼやくヒソカを呆れたように眺めていたが、やがてぷい、と前を向いてカウンターに置かれたグラスに手を伸ばした。

「そんなに驚かなくたっていいだろ、ヒソカってやっぱ失礼」
「だって……じゃあどうして今まで黙ってたんだい?」
「別に言う必要がないから」
「酷いなァ、キミとボクの仲じゃないか。ね、その子のこと詳しく教えてよ」

そう言って身を乗り出して問い詰めると、イルミはやだよ、と短く返事してこちらが身を乗り出した分きっちりと身を引く。「どうせ今度は会わせろって言うの、目に見えてるし」それを聞いたヒソカは言わないよ、だなんてその場しのぎの適当な嘘をついて、尚もイルミに食い下がった。

「今ここでイルミが話してくれたら、ね。でも話してくれなきゃモヤモヤするし、自分で探しちゃうかも」
「……脅してるの、それ?」
「さぁ、どうだろうね」

ヒソカは席に座りなおすと、自分もグラスを傾けた。横からの視線が痛い。おそらくイルミは迷っているのだろう。だが、普段何事もすぐに決めてしまうイルミが迷っているということはそれだけで十分脈ありだった。

「……別に、ヒソカは気に入らないと思うよ。ナマエは弱いから」
「へぇ、ナマエっていう名前なのかい?ま、最初から戦いたいなんて思ってないから安心して話してよ」
「……はぁ、オレだってあんまり会えてないから、話もそんなにないけど」

イルミはカウンターに肘をついて、深い溜息をついた。確かに彼は恐ろしく多忙だし、ヒソカが交際に気づかなかったくらいだからそう頻繁には会えていないのだろう。「彼女と最後に会ったのはいつ?」何気なく発したヒソカの疑問に、イルミはまた信じられないようなことを言った。

「最後か……もうすぐ1年になるね」
「……え?それってホントに付き合ってるの?」
「うん、そうだよ。基本的に1年に1回しか会わないけど」

どこの織姫と彦星だ、と突っ込みたいのを堪えて、ヒソカはそうなんだ……と相槌を打った。いよいよイルミの妄想で付き合っている気になっているのではないかと疑い始めたが、こんな話の序盤で躓いて彼が機嫌を損ね、話してもらえなくなっては面倒である。しかしいくらイルミが多忙だからと言ってもこうしてヒソカと酒を飲む時間があるくらいなのだから、彼女に会ってやればいいのに。

話すのをあんなに渋っていたわりに、もうイルミはあまり不機嫌そうではなかった。

「なんで1年に1回しか会わないんだい?キミ達仲悪いの?」
「まさか。オレはナマエのこと愛してるし、彼女もそうだよ。愛してるから会わないんだ」
「……普通は逆だと思うんだけどなぁ」

まぁ、そもそもイルミに普通を求めること自体間違っているのかもしれないが、それにしても束縛気質な彼がそれだけ恋人を放っておくのもなんだか変である。「オレだってもっと会いたいけど、」イルミが少し拗ねたような雰囲気を醸し出したので、なるほどヒソカの中でイルミの妄想彼女説は一層濃厚になった。彼女の方には嫌がられているのではないか。単純にそう思ったのである。

「でも会うのはこれくらいの頻度でいいんだよ。じゃないと前に殺しかけたから」
「……」

やっぱりイルミに『普通』を求めるのは無謀だったのかもしれない。彼は懐かしい思い出を辿るように僅かに目を細めた。



「ナマエをどこへやったの」

その日、イルミが帰宅すると部屋の鍵が開いていた。もちろん、掃除など身の回りの世話は執事がやるので自室に他人が足を踏み入れることには慣れている。だが、鍵というのはイルミの自室にかけられたものではなく、そのさらに奥の小部屋、イルミがナマエを閉じ込めておくためだけに造らせた部屋の物だった。

「ねぇ、勝手にこんなことしてどういうつもりなわけ?ナマエはどこ?」

当然帰宅して空の部屋を見たイルミは血相を変えた。内側から出られるはずもないし彼女が自分の意思で出たがるわけがないので、明らかに連れ出した誰かがいるのだ。「親父は知ってるんでしょ」かといって執事がそんな命知らずなことをするわけがないため、イルミはすぐさま父の部屋へと向かって問い詰めた。

「……お前は彼女を殺すつもりか?」
「は?」
「あのままだとナマエは死ぬところだった。お前、わからなかったのか?」

ナマエはいわば幼なじみにあたる存在で、彼女のことは両親もよく知っていた。だからこそわざわざ介入してきたのだろうが、部屋から出されたナマエは身体的にも精神的にも衰弱しきっていたらしい。そう言えば彼女を外へ出したのはいつ以来だったか。あの部屋に窓が無いのも良くなかったかもしれない。帰宅しては毎日のように可愛がっていたけれど、彼女がそこまで弱っているなんて少しも気が付かなかった。

だが、イルミは他人からナマエのことを指摘されたのが気に入らなかったし、ナマエが自分の目の届かないところにいるのも許せなかった。

「……で、ナマエはどこ?」
「言ったら連れ戻すんじゃないのか」
「だってナマエはオレのものだよ」

頷いたイルミを父シルバはただ黙ってまっすぐに見つめた。流石暗殺者らしく、そのアイスブルーの瞳は何を考えているか読ませない。
しかし次の瞬間深い溜息をついたかと思うと、ゆっくりと扉の方へ向かった。

「……お前たちのことはよくわからない。ナマエの方も似たようなことを言っていたな」
「え?」
「ついて来い」

シルバはそう言って部屋を出て行く。どうやら会わせてもらえるらしいとわかって、イルミは父の背中を追った。長い長い廊下を歩いている途中も、頭の中はナマエのことでいっぱいだった。



「ナマエ、」

案内された治療室のガラス越し。
イルミは彼女の姿を視認するなり、駆け寄って名前を呼んでガラスを叩く。
それに気づいたナマエは緩慢な動きで顔を上げると、こちらへ来ようとしたが立ち上がることができなかった。どうやら弱っているのは本当のことみたいだ。
確かにワンピースの裾から覗く白い脚は、彼女を支えるには細すぎるかもしれない。狭い小部屋の中ではほとんど歩く必要もなく、足の筋肉は衰えるばかりだった。

「イルミ、よかった、帰ってきたのね」
「ナマエ、今出してあげるからね」

マイクで中からの声は聞こえるが、残念ながらこちらの声は届かないらしい。イルミが彼女を出すため入口の方へ回ろうとすると「イルミ、」後ろから父に呼び止められた。

「お前は本当にナマエのことを愛してるのか?」

今更過ぎる質問に、正直呆れて言葉も出なかった。

「……愛してるに決まってるだろ。じゃなきゃこんな、」
「酸素と愛は同じだぞ、イルミ」
「……何の話?」

治療室へと入るための扉には、鍵がかかっていた。しかしこれは内側のナマエが逃げないためではなく、外側のイルミを中に入れないためのもの。扉が開かないうえにシルバの話も意味が分からず、イルミは仕方なく振り返った。

「酸素がなくては生きていけないだろう?だが、逆に多すぎたらどうなると思う?」
「どうって……」

空気中の酸素濃度は約20パーセント。そんなことくらいは知っている。だが高地で酸素濃度が薄いために中枢神経に障害をきたす話は聞いたことがあるが、その逆は考えてみたことがなかった。
しかし素直に考えて酸素スプレーや酸素カプセルが売られているくらいなのだし、酸素が多いに越したことはないのではないか。

けれどもイルミの答えに父は難しい顔になった。
向かい合って沈黙のあと、とても残念そうに告げられる。「酸素濃度100パーセントでは、ヒトは死んでしまうんだ」これはなにも化学の勉強をしているわけではないことくらい、イルミにもわかった。


「愛しすぎればナマエは死ぬぞ」


わかったけれど、その言葉は当時のイルミにとって酷く衝撃的だった。

そもそもイルミが彼女を閉じ込めていたのも、すべては愛しさゆえである。彼女もそれを受け入れたし、良かれと思ってやっていたことだった。

だが、それで結局彼女が死んでしまうというなら……?

「イルミ、どうしたの?早くここから出して!」

マイクから伝わってきた声は、イルミのことを心の底から待ちわびていた。そう、イルミが彼女を愛しているように、彼女もまた自分のことをちゃんと愛してくれている。

イルミはもう一度開かない扉の方を見ると、小さく肩を竦めた。


「……わかった、もうナマエを閉じ込めるのはやめるよ」

ナマエならば、閉じ込める必要はないのかもしれない。
イルミはガラスの方へ戻って、彼女を愛おしそうに見つめる。ナマエならたとえ会わなくても信じられると思った。ふらふらな状態で少しでもこちらに近づこうとする彼女を見て更に確信した。
それに、自分の為に必死になる彼女を見るのもそう悪くはない。

「ナマエ……好き、愛してるよ」

呟くようにそう言うと、ナマエはぱっと顔を輝かせた。よく言う言葉だから、唇の動きでわかったのか。

「私も、私もよイルミ!」

彼女の返事を聞いたイルミは、思わず満足して口角を上げた。そしてそのままゆっくりとガラスに背を向ける。「……イルミ?」彼女の声に驚愕と絶望が滲んでいて、それがまた堪らなかった。求められるという快感に背筋がぞくりする。

「イルミ?待って!ねぇ、イルミ!」
「まだ死なせるわけにはいかないんだよ」

愛して愛して彼女を殺してしまうというのも、アリかもしれない。だがまだナマエを失うには惜しいと思って、イルミは彼女と少し距離を空けることに決めた。酸素はやっぱり20パーセントで丁度いいのだろう。
もっともそれは、彼女が心変わりしてしまえば変わってくる話なのだが。


けれどもそれから1年後会った彼女は、尚も変わらずイルミのことを愛し続けていた。久しぶりの逢瀬も言葉にできないほど素晴らしかったし、想いは強くなるばかり。
だからイルミは今でもナマエとは頻繁に会わないように、彼女を殺してしまわないように気を付けている。しまいにナマエのほうもそれで納得して、年に一度のその日を死ぬほど楽しみにするようになった。


「……わかっただろ、別に何も面白いことは無いって」

話し終えたイルミは、言葉のぶっきらぼうさのわりに幸せそうだった。「もうすぐ会えるんだよね」その理由はすぐに明かされることとなったが、ヒソカはなんと言葉を返したらいいのかわからない。

「……イルミも彼女もよく我慢できるね」

滅多に会えないからこそ深まる愛もあるだろうが、2人のは少し極端過ぎる気もする。それだけ離れていてよく他に目移りしないものだ。ヒソカにとって、嫉妬深いイルミが彼女をそこまで信用しているという事実も驚きだった。

「ヒソカも知らなかったでしょ、酸素の話」
「まぁね、ボクはそういうの専門外」
「ホントはもっと会っても大丈夫だと思うんだけど、親父に言われたのが結構衝撃的でさ。オレもまだあの時は18だったし妙に納得しちゃって」

高純度の物質は、時として毒になるという。
それならば一途に互いを思い続ける今の彼らはどうなのだろう。

「キミのお父さん、上手いこと言うね」

純愛と狂愛に境なんてないのかもしれない。二人の見る世界と周りから見た世界は全く異なる景色だという可能性もある。

「結婚しないのかい?」

8年も付き合ってるんだし、というヒソカの最もな呟きに、イルミはそうだねと頷いた。

「じゃあ次会うときにでもプロポーズしようかな」
「返事は1年後だったりして」
「別にそれでもいいけどね」

返事なんて聞かなくたってわかってるし。

イルミはさらりとすごいことを言うと、カウンターに代金を置いて席を立った。どうやら上機嫌なまま帰るつもりらしい。
例の彼女は弱いらしいので相手としてさほど興味は沸かなかったが、彼女を殺したらイルミがどうなるのかちょっぴり気になった。

「ヒソカ、変なこと考えない方がいいよ」
「……脅してるのかい?それ」

最後に足を止めてイルミは言った。「さぁ、どうだろうね」絡み合う視線に、先に目をそらしたのはヒソカの方。

「やだなぁ、ボクもそこまで野暮じゃないよ」
「そ、ならいいけど」

真っ黒の大きな瞳には一見なんの感情も見て取れない。しかしその瞳の奥に、無機質な殺意が顔を覗かせていた。

「ナマエはオレのものだよ、だからいつか殺すのもオレなんだ」
「はいはい、お熱いこと」

付き合ってらんないよ、と肩をすくめてみせたヒソカに納得したのか、イルミはそのまま帰っていく。一人になったヒソカは残った酒を飲み干して、やはり彼らの愛は狂っていると思った。

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