■ ◆同情するなら唇を奪えよ
きわめて普通の人生を送っていたら、人の死に目に出会うのは葬式くらいのものだろう。
しかしそれだって毎回毎回、リアルタイムで喪失を味わうわけではない。訃報が届いて、棺に横たわる身体を見て、ようやく『死』というものに出会う。目の前で突発的な事故でも起こらない限り、だいたいの人はそうだろう。
しかしナマエは残念ながら、この1年の間に多くの人間を目の前で喪失した。初めは両親。次に恋人。その次は兄だった。
誰かを、それも近しい人間を失った傷を癒す最も確実な方法は、おそらく『時間』だろう。記憶の風化、思い出の美化がただの空白を少しずつ埋めてくれる。けれども残念ながらナマエにはそんな猶予すらも与えられずに、次から次へと胸に空いた穴は広がっていくばかりだった。
「や」
「……」
そして兄が死んでから1か月後の夜、またあの男がナマエの所にやってきた。当たり前のように2階のナマエの部屋の窓から侵入し、長年の知り合いみたいに気さくに声をかけてくる。確かに、ナマエが彼と出会ってからもう1年は経つ。しかしナマエと彼は間違っても友人なんかではないし、むしろナマエはこの男を心の底から憎んでいた。
「……今日はとうとう私の番?」
ナマエは兄の写真を胸に抱えて、ベッドに丸くなったまま声をかける。振り返って確認することもせず、おそらく窓際にいるであろうその男に無防備にも背中を晒している状態だが、もう何もかもどうでもよかったのだ。
ナマエの両親を殺したのも、恋人や兄を殺したのも、全部この男。彼の『仕事』は残酷にも全てナマエの目の前で行われ、そのくせ彼はナマエを口封じに殺してしまおうともしない。
「ナマエは殺さないよ」
そしてそれどころか、彼はこうして時々ナマエに会いに来る。どうでもいい会話をして立ち去っていくこともあれば、また単純に仕事をこなしていくだけの日もあった。今日はそのどちらなのかまだわからない。けれどもナマエは今日が後者であればいいと思った。こんな辛い思いをするならもういっそのこと自分も殺してほしかった。
「……なんで、私を殺してくれないの」
「殺す理由が無い」
「そんなの誰だってそうよ。あなたが私の大事な人を殺していい理由なんて…!」
「殺していい理由はないね。でも、殺してはいけない理由もない。それに殺していい理由と殺す理由は違う。オレがナマエの両親を殺したのは、オレが殺してもいいと思ったからじゃなくて単に仕事だったからだ」
抑揚のない声が思いがけず近くで聞こえてきて、ベッドが少し沈んで傾く。いつの間にかこちらに来ていた彼は、ナマエが横たわるベッドに許可もなく腰掛けたようだ。今日の彼はいつになく饒舌だし、きっと今日は仕事ではないのだろう。
でもそれなら尚更何をしに来たのだ、と言いたくなって目を固く閉じた。こっちは彼の顔を見るだけでも辛いのだ。一度彼を殺そうと包丁片手に飛び掛かったが、当然ナマエは簡単にいなされて終わっただけだった。
「私はあなたの顔を何回も見てる。あなたの情報を誰かに流すかもしれない」
「そうだね。流せばいいんじゃない?
…そうだ、なんなら写真も撮らせてあげようか?自分で言うのもなんだけどそれなりにいい値がつくと思うよ」
飄々とした男の物言いに、ナマエは唇を噛んでシーツを握りしめる。「……どれだけ私を馬鹿にすれば気が済むのよ!」悲しみよりも悔しさが勝った。憎くて憎くてたまらないのに、ナマエの力ではこの男をどうすることもできない。殺すどころか、現にこうやってたまに部屋に来ることを止めることすらできないのだ。
「馬鹿にだなんて心外だな、せっかくナマエにはサービスしてあげようと思ったのに」
「サービス……?あなたって自分のしたことが悪いと思ってるの?」
正直、そんなことは聞くまでもないことだった。けれども彼がナマエをおちょくって楽しんでいるようにも思えず、むしろまるで本当に善意からの申し出みたいな口ぶりだ。
「悪いとは思ってない」予想通りの答えにナマエは思わず笑いそうになったが、彼は至って真剣に言葉を続けた。「でも、可哀想だなって思う」あくまで他人事として呟かれたその台詞に、ナマエは振り返って彼を仰ぎ見た。
「…可哀想……?」「うん」
「あなたがやったんじゃない」「そうだよ」
何を今さら当たり前のことを言ってるの?と彼は首を傾げた。長い黒髪がさらりと肩から流れ、カーテンのようにナマエの視界を遮る。
ナマエは何と言っていいかわからなくなって、仕方なく目を伏せた。本当に彼にとってはただの『仕事』でしかないのだろう。
「だったら……、私も依頼すればいいの?仕事なら私を殺してくれる?」
「いいけど、有料だよ。まぁ、ナマエに払える額とも思えないけど」
「……最低ね」
「何とでも言いなよ。こっちはボランティアじゃないんだし」
彼はそう言って少し目を細めると、ゆっくりとナマエに向かって手を伸ばした。「…っ」殺さないと先ほど言われたばかりだったが、そんなことは関係なしにナマエは思わず身を固くする。彼がナマエに触れるのはもちろん初めてで、恐怖よりも激しく動揺した。
「……ん、でもやっぱり少しだけ悪いと思ってるかな」
伸ばされた手はナマエの頭を優しく撫で、やがて冷やりと冷たい指先が頬に触れる。
「仕事以外の殺しをするのは、オレもあんまり好きじゃないしね」
「え……?」
彼の言った言葉の意味が分からず、ナマエはただ瞬きをするしかない。
仕事以外?彼がナマエの大事な人間を殺したのは、ひとえにそれが彼の仕事だったからだ。彼自身もさっきそう言ったばかりじゃないか。
けれども混乱するナマエに対して彼は酷く落ち着いていて、それどころか頬を撫でる手つきはより一層優しいものへと変わった。
「両親はね、確かに仕事だったよ」
「……両親は?それじゃあ……つまり、」
「殺していい理由は確かにないけどさ、殺したかったから殺して何がいけないの?
それが殺した理由じゃだめ?」
「な、なに言って…!」
呆然とするナマエを、彼はまっすぐに見つめる。何が少しは悪いと思ってる、だ。悪いも悪くないも、理由も何もかも無茶苦茶じゃないか。意味がわからない。感情なんてないみたいに見える彼が、ナマエの恋人や兄を殺したいと思うこと自体意味不明だった。
「わかってるよ、自分でも変だと思う。
でも、ナマエの絶望した表情を見るとすごく胸が苦しくなって、ナマエのことしか考えられなくなるんだ。これが可哀想って感覚なのかな」
「……」
「あ、ちなみに言っておくけど、可哀想なんて今まで他の誰にも思ったことないよ。だからオレも不思議なんだよね。
…ねぇ、ナマエってどうしてそんなに可哀想なの?」
彼は身を乗りだしてぐい、と顔を近づけると、不思議そうに尋ねた。
やっぱりちっとも悪いなんて思ってないじゃないか。
沢山人を殺して穢れているくせに、彼は何も知らない子供みたいな表情で教えてくれとナマエに乞う。
少しでも動けば唇が触れ合ってしまいそうで、ナマエはただただ黙って涙を流した。
「……ほんと、可哀想」
彼のうっとりしたような声が、暗い室内に響いて消えた。
End
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