■ ◆気づかなかったことが罪
ナマエは猫を飼っていた。
長い毛がふわふわとした、ちょっぴり太めの白い猫。
彼女はターゲットが住む屋敷の隣の住人で、深夜下見にやってきた俺とは彼女の膝から逃げ出してきたその白猫を介して知り合った。
「一瞬ね、猫が人間になったのかと思った」
そんな馬鹿げたことを言って笑ったナマエは本当にただの一般人で、俺が出会った中で唯一まともな人間だった。絶対に血の匂いのすることはない、家族とも執事とも違う存在。本来ならば姿を見られた時点で彼女か彼女の記憶を消すべきだったのかもしれないが、深夜にうろつく少年に不審な顔をするわけでもなく、純粋ににっこりと笑顔を向けられて気勢が削がれてしまった。
そしてそれ以来、ナマエは夜に窓を開けておいてくれるようになった。
もちろん俺は素性を明かしたりなんてしなかったけれど、ターゲットの隣の屋敷ということもあって偵察にも非常に適している。
幼い頃から家族に余計な他人と関わるなと言われていたが、彼女に会いにいくのは仕事に都合がいいからだと自分で自分に言い訳をしていた。
「すごーい、キルアそんなことも出来るの?」
「こんくらい別に普通だろ」
「普通じゃないよ」
高い木の上まで一蹴りで跳躍すると、窓辺に寄りかかったナマエは心底感心したように目を丸くする。そこには自分と違うものを恐れ、排斥しようとするような醜い感情はなく、一種の憧れさえ見て取れた。普段血の滲むような訓練に耐えている俺からしてみれば下らないことでも彼女はいちいち感心して見せて、それがまた幼いながらに得意でたまらなかった。
いや、自慢するだけなら、褒めてもらうだけなら執事でも事足りただろう。俺はただ嬉しかったのだ。同い年くらいの子供と他愛ない会話をして、そして畏怖ではなく憧れの眼差しで見てもらえると、擽ったいような気持ちになった。
ナマエはそんな俺の昔からの小さな願いをいとも簡単に叶えてくれたのだ。
「ねぇ、キルア、キルアは夜出歩いておうちの人に怒られないの?」
「え?あぁ、いいんだ、俺は。
俺んち放任主義なんだよなぁ」
適当な理由を口にして、俺は彼女の猫を抱き上げた。柔らかい白い毛は、確かに月の光で銀色にも見えるが、俺はこんなに太ってなんかいないぞと思ってもみたり。
放任主義なんて大嘘もいいとこだった。全てを管理下に置かれ、ナマエと一緒にいる僅かな時間だけが自分の自由な時間と言っても過言ではない。
「ほうにんしゅぎ?」
「そ。放っておかれてんの。俺が家にいてもいなくてもどっちだっていいんだよ」
「そうなの……?」
「……そんな顔すんなよ」
家にいてどっちでもいいはずなんてない。むしろ外出は厳しく制限されている。しかしナマエはいつも通り俺の言葉を真に受けたみたいで、悲しそうな顔になる。その表情を見たら、胸がちくりと痛んだ。今までついてきた嘘に比べれば全然大したことのない嘘なのに、ナマエが勝手に辛そうな顔をするから。
「あんな家、いつか出て行ってやるんだ」
本心を言った。今すぐ、と言えないところが情けないけれど、こんなことを誰かに言ったのは初めてだった。
「だったら、家出したらうちにおいでよ」
「え?」
「うちで暮らしなよ。パパとママだってキルアを見たら猫が人間になったって信じてくれるかも」
「はぁ?何言ってんだよ、そんな馬鹿なこと考えるのはナマエくらいだっての」
「そんなことないよ!」
「無理だね、そもそも俺が猫だって言うんなら本物の方はどうすんだよ」
最もな俺の指摘にナマエはあぁ……と項垂れる。前から馬鹿だとは思ってたけれど、本当に馬鹿なやつ。でもナマエの申し出は嬉しかった。たとえそんなことは絶対に叶わなくても、彼女の気持ちが嬉しかった。
「じゃあその代わりいつでも遊びに来てね、待ってる」
「おう、暇だったらな」
ターゲット暗殺のために与えられた猶予は2週間。ナマエとの別れは刻々と迫ってきていたが、俺はなるべくその時を考えないようにしていた。この仕事が終わっても、きっとまた他の仕事で家を出るだろう。だから絶対に会えなくなるなんてことない。会う頻度が減ったとしても、彼女はまたいつも通り笑顔で迎えてくれるだろう。
それでも後もう少しだけ。少しだけでいいから。
そう思って今日も仕事をせずに家に帰った。
「キル、たった一人のターゲット相手にどれだけ時間をかけてるの?」
帰宅するなり、同じく仕事帰りであろう兄に声をかけられる。返り血こそ浴びていないものの、ナマエからはすることのない血の匂いに急に現実に引き戻された気がした。
「お前一人で手に余るようならオレが」「いいよ、俺一人で殺れる……」
「ならいいけど。暢気に油売ってるほどの暇はうちにはないからね。慎重なのもいい加減にしないとかえって失敗のリスクが高まるよ」
「……わかってる」
兄の言うことは悔しいがもっともだ。しかしそれはあくまで暗殺においてのみ。俺はもっと普通の子供みたいに遊びたかったし、暗殺だって別にやりたいわけじゃなかった。
「明日、ちゃんとターゲットを殺ること。いいね?」
潮時だった。もうこの仕事は終わり。明日ナマエに会って、しばらく会えない旨を伝えよう。彼女が俺を待っていつまても窓を開けっ放しにしていては可哀想だから。
兄の言葉に俺は素直に頷いた。今までだってずっとそうしてきたのだ。少なくとも表面上は。
しかし楽しいひとときがこれで幕を閉じてしまうのだと思うと、どうしようもないくらい悲しかった。
「あのさ、俺しばらくここには」「もう来ないで」
次の日、意を決してナマエに別れを切り出そうとすると、彼女は俺の言葉を遮った。「え?」残念がってくれるかななんて密かに期待して、申し訳なさすら感じていた俺は予期せぬその言葉に面食らう。
いつもにこにことしていた彼女は冷たい表情をしていて、こちらをちらりとも見なかった。猫を膝の上に抱え、一定のペースでその背を撫でる。
そしてもう一度「二度と会いたくないの」そう言った。
「……っ、なんで」「嫌いになったの」
「だからなんでだよ、俺が何したって」「キルア、友達いないでしょ」
「は?」理由を聞いた筈なのに、全く関係のない質問をぶつけられ、俺はさらに混乱する。確かに自分に友達はいない。いや、ナマエは友達ではなかったのか?あんなに楽しく遊んだのに、友達にはなれていなかったのか?
答えられずにいると、彼女は蔑むように笑った。彼女がそんな笑い方をするなんて知らなくて、ただただ衝撃ばかりが大きい。
ナマエはため息をつくと友達じゃないよ、と言った。
「勘違いしないで、ちょっと褒めたくらいでいい気になって、馬鹿みたい」
「……」
「帰ってよ、もう来ないで」
「……っ、わかったよっ!もう二度とこんなとこ来ねぇよ!俺の方こそてめーなんか友達だって思ったことねぇよ!」
なんだったんだろう。俺たちが一緒に過ごした2週間は。確かに短いといえば短い。友情なんかが芽生えるにはあまりに短すぎたのかもしれない。
けれども俺は本当にナマエの存在に救われていた。そしてあまつさえほのかな恋心すらまでも抱き始めていた。
それなのに彼女は急に手のひらを返して、いつでも遊びに来てねと言った同じ唇で、もう二度と来るなと言うのだ。何も信じられなくなって、好きだった分余計に裏切られたと思った。彼女なんて死んでしまえ。自ら殺す度胸もないくせにそんなことすら思った。
「さよなら、キルア」
「……」
その晩、俺はターゲットを依頼通りにこの世から消し去った。それと一緒に彼女との思い出も消し去ってしまえればよかったのに、帰宅した足取りは酷く重く、心にぽっかりと穴が空いたみたいだった。
どうしてナマエは急にあんなことを言い出したのだろう。素直で優しかったナマエはどこに行ってしまったんだろう。俺の何が嫌いになってしまったんだろう。どうして友達じゃないなんて…「キル」
「……イル兄、」
声をかけられて顔を上げれば、目の前に長身の兄が立ってこちらを見下ろしている。むせ返るような血の匂いがして、兄にしては珍しく服が赤黒く染まっていた。
「上手く仕事を終えたみたいだね、偉いよ」
「…うん」
ぽん、と頭に手を置かれ、さらさらと髪を撫でられる。ふと見るとその兄の袖口に銀色のふわりとした毛がついていて、俺はただそれをぼんやりと眺めていた。
「お前はオレの言うことを聞いていればいいんだよ」
「……」
どうしてナマエがあんなことを言ったのか、俺はもっとよく考えるべきだった。どうして嫌いだと言いながら、彼女が律儀にさよならを告げたのか気づくべきだった。
「……猫」ぽつりと呟いた言葉はきっと兄にも届いたはずだ。その証拠に兄はゆっくりと口角を上げる。「あぁ、飼い主を守ろうなんて犬より殊勝な生き物だったんだね」兄の服に付いているのが猫の毛ならば、あの血は誰の物なんだろう。
俺は考えるのをやめて、早くシャワーを浴びようと思った。今更真実がわかったとして、一体俺に何ができるって言うんだ。一体どうすればよかったんだよ。
それでももし、もっと早くにこうなることがわかっていたらと思わずにはいられない。もっと早くに自分と関わることでナマエに及ぶ危険に気が付いていれば……
気がつかなかったことが、罪なのかもしれない。
飼い主を守ろうとして、兄貴に立ち向かった猫が羨ましいと思った。「俺のどこが猫なんだよ…」彼女を守ることすら、できなかったというのに。
浴室の鏡に映った自分は酷い顔をしている。
しかしそれもすぐに曇って、とうとう何も見えなくなった。
End
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