■ ◆振り返った先に君はいない
※切なめ
ナマエが死んだ。
そういえば職業柄、ろくに写真を取らなかった。
唯一あるのは結婚式の時に、母さんが張り切って撮らせた一枚だけ。
オレはアルバムをめくる代わりに何時間も同じ写真を眺め続けて、彼女の死を理解しようとした。
「イル……辛いのはわかるけれど……」「平気」
持ち上げただけで使われなかったフォークをそっとテーブルの上に戻す。
普段はうるさいくらいの母さんまでもが暗い雰囲気で、家全体が口に出さずとも重苦しい雰囲気だった。
「オレは平気だよ」
他人を殺して生きているくせに、いざとなると身内の死を嘆くなんて馬鹿げている。
だけどいくらそう思っても、一切喉を通らなくなった食事。それなのに喪失感を埋めるように仕事に明け暮れて、本当は睡眠すらも満足に取れていなかった。
そしてそんな無茶苦茶な生活を続けて、彼女の葬式から3ヶ月たったある日のこと。
もう限界だった。自分がこんなに弱い人間なのだと初めて知った。
帰宅するなり誰とも口をきかず、ほとんど気を失うようにしてベッドに倒れ込む。
目を閉じてしばらく微睡んでいると、葬式の時ですら流れなかった涙が今になって頬を伝った。そしてそれでもその涙を拭うことすら億劫で、オレはただ彼女がいた日々のことを思い出す。「……ナマエ」愛しい彼女の名を呼べば、ふわりと頭をなでられる感覚がした。
「…ナマエ…?」
優しい手つきに、ここにいないはずの彼女が蘇る。何が起きているのだと混乱しつつ、ゆっくりと目を開ければ、ベッドに腰掛けた彼女が心配そうにこちらを覗きこんでいた。
「ナマエ……!?ナマエ、生きてたの!?」
がばっと起き上がって思わずふらつく。目をこすっても頬をつねっても彼女は消えなくて、記憶の中と全く同じに微笑んだ。
だからきっと彼女が死んだということの方が悪い夢だったんだ。
彼女がオレの部屋から出られないのも、オレにしか認識できないのも、きっとオレがそう望んだから。愛おしすぎて、監禁したいと思うことは前からあった。自分だけのものになればいいのに、と前から思っていた。
それが現実となって、周りの皆はいなくなった彼女を死んだと思い込んでいるのだ。
けれどもそこにいるはずの彼女の手を握ろうとして空を掴んだ瞬間、冷静な自分が幻覚だと意地悪く囁く。
彼女は本当に死んだのだ。この目でその死体も見た。今まで幾度となく人の死に触れてきて、彼女も同じように冷たくなった。
だったら今オレの目の前にいる彼女は、幻覚以外のなんだって言うんだろう。生憎幽霊なんて非科学的な物は信じていなかったし、現に彼女は自分の死を知らないみたいに幸せそうな笑顔だ。
だからこうして優しく労わってくれるナマエはオレの作り出した幻覚に違いない。
「どうしたの?顔色が悪いよ、しっかりご飯食べてる?」
「…うん、食べるよ」
「睡眠も取らなきゃ駄目だよ」
「一緒に……一緒に寝て、ナマエ」
触れもできやしないけれど、それでもと彼女を求める。ただ隣に彼女がいると思うとそれだけで安心した。長らく眠らなくても平気な身体のはずだったのに、気づかぬうちに憔悴しきっていたのかその日はいつもよりぐっすりと眠りに落ちた。
そうして、オレはやっと前と変わらぬ生活を取り戻した。
「ナマエ、ただいま」
「おかえり」
夜にだけ現れる彼女のことは、オレたち2人だけの秘密だ。試してはいないけれどきっと誰にも彼女のことは見えないだろうし、彼女はここから出ることもない。
幸せだった。仕事をして帰ってきたら、当たり前のように部屋で彼女が出迎えてくれることが。 彼女が死んだなんて嘘みたいだった。
「……そろそろ、どうかしら?」
けれどもその幸せは長くは続かなかった。
彼女が死んで1年。オレはすっかり元気を取り戻して、仕事の方もとても順調だった。
相変わらず彼女は夜にしか姿を現すことはなかったけれど、それでも僅かなひとときでも彼女がいるのといないのとでは大違い。
しかし元気になったオレを見て、周りはオレが彼女の死から立ち直ったと思った。そしてまだ若いのだしと、次の結婚を勧めるようになったのだ。
「オレはもう結婚なんかしないよ」
「でもねぇ……貴方もずっと一人でいるわけにはいかないでしょう?
貴方が一人だとナマエさんもいつまでも安心出来ないわ」
「勝手なこと言わないでよ、オレはナマエじゃないと駄目なんだから」
そもそも死人の想いにかこつけて再婚させようなんてどうかしている。彼女はまだここにいるし、ましてやオレの再婚なんて望まないだろう。
オレはこの手の話が出る度に酷く機嫌を悪くして部屋に篭ったが、それだけではどうやら母さんを止められなかったようだ。
オレがまだ彼女のことを引きずっていると知るやいなや、余計に早く忘れさせるべきと思ったみたいで次々と新しい婚約者候補を部屋に寄越した。
「ただいま、ナマエ」
「おかえりなさいませ、イルミ様」
「……誰」
「お初にお目にかかります、私はイルミ様の婚約者候補の」「出てってよ」
「ですが……」「出ていけったら!」
彼女は部屋にオレ以外の人間がいると姿を現さない。勝手に帰りを待っていた女に腹を立てて無理やり部屋から追い出したオレは、彼女の名前を呼ぶ。
「ナマエ、帰ったよ。ただいま」
けれども返事は返ってこない。駄目なのだ、一度でも他の女が入るとその日彼女は出てこない。オレは思い切り舌打ちをしてソファーに身を沈めた。最悪だ、母さんのせいでこんな日がもう何日も続いている。来る女を皆殺してしまおうにも、それなりの家柄のを連れてくるから殺しもできない。
いっそ母さんに本当のことを打ち明けてしまおうか。いや、そんなことをしても頭がおかしくなったと思われるだけか。とにかくもう誰も邪魔しないで欲しい。オレと彼女の貴重な時間を邪魔する奴は皆死ねばいい。
オレはこの状況を一体どう打開するべきか頭を悩ませて、ふと一ついいことを思いついた。
逆に適当な女と結婚をして、その女に邪魔をしないように言いつけたらどうだろうか。表向きは再婚することになるから母さんは納得するし、女もどうせゾルディックの名前が欲しいだけ。部屋を別にしてしまって全く互いに干渉しないようにすれば完璧ではないか。
オレはこの思いつきを早速実行することにした。
そして彼女に会えなくなるのを我慢して、女を部屋に入れて優しくした。急に結婚となれば向こうも警戒するだろうし、母さんも不審に思うかもしれない。
好きでもない女と恋人同士みたいなままごとをするのは酷く滑稽だったけれど、全ては自分と彼女の計画のためだった。
そして……
彼女が死んで1年と3ヶ月。2度目の結婚式は明日だった。彼女は他の女がいる時には現れないから、オレが進めている計画に関しても知らないはずで、今までだってオレは取り立てて彼女に話したこともなかった。
本気ではないとはいえまるで浮気をしているみたいで、彼女に申し訳なかったんだと思う。
けれども式を明日に控えたオレは今日こそ伝えようと思って、誰も踏み入れさせていない部屋で彼女の名前を呼んだ。
「ナマエ、話したいことがあるんだ」
「……なぁに?」
いつものように何処からともなく現れた彼女は、しっかりと返事を返してくれる。けれどもいつものようには笑っていなかった。切なそうな、でも決して不幸せではないそんな複雑な表情。だから話があると言った方のオレが驚いて、逆にどうしたの?と聞いた。
「結婚、おめでとう」
「……え?」
「イルミが立ち直ってくれたみたいで、ちょっと寂しいけど……でもよかった」
「何言ってるの?」
思いがけない祝福の言葉に、脳が働かない。他者がいるときは姿を現さないと思っていた彼女は、オレに見えないだけでずっとここにいたらしい。何もかも、オレの下らないままごとも見て知っていたらしい。
「ごめんね」でもそれならどうして彼女は謝るのだろう。どうして誤解だと弁解させてくれないのだろう。固まるオレに彼女は話しかける。「私、自分が死んだこと、知ってたの」驚きすぎて返事ができないから彼女が一人で喋っている状態で、これじゃまるでオレが幽霊みたいだ。
「イルミが憔悴しきってるのを知って、だからなんとかしたくて……。
でも、居心地が良すぎて長居し過ぎちゃったね…」
泣き笑いのような表情を浮かべる彼女は、どうやらオレの幻覚なんかではなかったらしい。だってこんなことオレは望んでない。本人の想像や願望すらも超える幻覚が、あってたまるか。
「…イルミが新しい人を見つけられて本当によかった。最初はとても辛かったけど、いつまでもこうしてはいられないもの……イルミが幸せならそれでいい。私のことは忘れていいよ、むしろ今までありがとう……」
にっこりと笑った彼女に向かってオレは手を伸ばした。「待って、違う!」そうじゃない、勝手に終わらせないで。勝手に微笑まないで。勝手に幸せだと決めつけないで。
「さよなら……」
「ナマエっ!」
けれども彼女が死んだあの日から、一度として彼女に触れることは叶わない。彼女がいる場所の空気を掴んだ途端、不意に締め切っていた扉が開かれたかと思うと母さんがそこに立っていた。
「母さ……ん?」
「イル、いよいよ明日ね!!良かったわ、前にもう結婚しないなんて言っていたけれど、私これで安心だわ!」
あなたも色々と準備があるからいらっしゃい、そう言った母さんは酷く上機嫌で、オレの感情とは大きな隔たりがある。「そう……いよいよ、明日だったんだ……」明日になったら面倒だった計画も無事に終わって、彼女とずっと一緒にいられるはずだったのに。
振り返ると彼女はいなかった。母さんが扉を開けたから。
いや、違う。もうきっと彼女は永遠にオレの前に姿を現すことはないだろう。
改めて殺風景な部屋を見渡すと、ずっと一人だったような気さえした。
「さよなら、ナマエ……ありがとう」
また身体を壊せば彼女が来てくれるかもしれない、一瞬でもそう思ってしまった自分の滑稽さに情けなくなる。
オレは一体いつまで彼女に心配をかけるつもりだ?いつまでそうやって誤魔化して生きていくつもりなんだ?
そもそも彼女はもう、一緒にはいられない存在だったのだ。
ナマエが死んで、冷たくなってしまったあの日から。
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